三十二話 ゆらめき


「……あ」

 俺は、息をのんだ。スマホがふるえて、ベッドの上を這ってる。生き物みたいで、しばらくそれを呆然と見てた。部屋に音が響く。

「すみません」

 我に返って手にとると、画面を見る。
 スマホを、取り落としそうになった。表示されてたのは、予想通りの名前。
 ――瀧(たき)。
 会いたくて、一番、見たくない名前。とっさに、スマホを置きたい衝動に駆られる。
 あれからずっと、瀧からの電話に応えてなかった。メッセージはかろうじて返すけど、平静で話せる自信がなかったから。二度、応えてなくて。

「どうしたの」って連絡が来たから、「のどの調子が悪くて」ってごまかしたんだ。それからは、通話がこなくなって、安心してた。
 スマホはずっと、ふるえてる。どうしよう。
 俺は思わず、先輩を見た。出ないなんて変かも、でも。
 先輩は、俺の目を静かに見てた。強くて穏やかな瞳が、じっと俺を待ってた。

「あ、」

 俺は、体の力が抜けた。がちがちに、体をこわばらせてたんだってわかった。先輩は、聞かない。けど、もし俺がスマホを渡したら、出てくれるだろう。そんな目をしてた。

「すみません。少し、出ていいですか」
「もちろんだ」

 先輩が、にこりと笑った。おおらかに構えて、俺を待ってた。俺はすう、と息を吸って、通話ボタンを押した。胸がどきどきと脈打っていた。

「はい」
『――理央(りお)』

 ぎゅっと、胸が切なくなった。瀧。たった数日、聞いてなかっただけなのに。泣きたいくらい、懐かしくて。

「うん」
『今日は、出られた』
「……うん」

 瀧の声に俺は目を閉じる。
 どうしてこんな時にだけ、わかってしまうんだろう。瀧の声が、ひどく心配してる、俺の返事に、安心してるって。いつもは、何もわからないのに。

『のど、まだ痛い?』
「平気。もう、大丈夫」
『そう』

 穏やかな優しい声。何を責められたり、怒られてるわけでもないのに。涙がこぼれた。涙を拭って、ずっと頷く。

『理央?』

 瀧が尋ねる。声が、ちょっと心配そうにうわずった。俺は息を一生懸命落ち着けて、泣いてないふりをした。

「なんでもない」

 すう、と息を吸う。吐き出そうとして、胸の中がふるえた。
 瀧。俺、襲われた。先輩が助けてくれて、大事にはならなかった。けど、お前じゃないアルファのフェロモン、いっぱい体に入ったんだ。
 がたがた、体がふるえてくる。これくらいで、負けるもんか。あいつらにはそう、思えるのに。瀧に知られるって思ったら、首が締まるみたいに、息がつっかえた。

「げほっ……」

 思わずせき込んで、慌ててスマホを離す。

『理央? ――どうしたの』
「けほっ、けほ……」

 変になる呼吸を止めようと思うと、余計に体が動揺した。涙が出てきて、落ち着けない。苦しい。画面から、瀧の声が、届いてきた。苦しい――。
 引き寄せられて、抱きしめられた。

「大丈夫だ」

 強い腕が、ぐっと俺を包んでた。俺は目を見開いて、顔を上げた。

「せん、」
「大丈夫」

 やさしく、繰り返される。吸えなかった息が、胸に入った。燃えるみたいな熱が、俺の頬に当たる。心臓の音が聞こえてた。俺は目を閉じた。何度も、呼吸を繰り返す。

「いい子だ」

 頭を撫でられた。涙が、閉じた目からこぼれた。ついで、呼吸が落ち着き出す。先輩は、俺が落ち着くまで、ずっと、そうしてくれていた。


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