三十話 揺れて留まる


「大丈夫か」

 先輩が、俺の手を取って、尋ねた。

「はい……」

 俺は、静かに頷いた。そっと先輩の方へ顔を傾ける。先輩は、「無理しなくていい」と優しく言った。やわらかい目に見下ろされ、俺もほのかに笑う。先輩の熱が、穏やかに俺に伝わる。真っ白い部屋で、ひたすらに静かだった。点滴の落ちる音さえ、聞こえてくるみたいだった。


 あれから。
 俺は先輩と一緒に、病院に行った。
 先輩のシャツを頭からかぶってやってきた俺を見て、受付の人はすぐに緊急処置室へと連れて行ってくれた。ベッドに寝かせてもらって、ゆっくり診察と処置を受けた。オメガがよくかかる総合病院だから、こういうことには慣れてるみたいで、皆、何も聞かず、静かに接してくれた。
 気持ちが落ち着いたら、一気に体にがたがきた。採血を終えたところで、俺は吐いてしまった。

「げほ、うえっ……」

 すぐに盥を用意されて、背中をしっかりとした手つきでさすられる。すぐに点滴になって、薬が注入された。めまいがして、寝てもいられなかった。

「理央(りお)くん。今から、体をすっきりさせるからね」

 やわらかく、先生が言った。俺は目を閉じて、咳するみたいに頷いた。ぼかした言葉が、ありがたかった。それでも体から、ふるえが走ってきた。涙が出てきて、苦しかった。
 ――瀧(たき)。
 呼んだ瞬間、体の芯に針が突き刺さったみたいな痛みが走った。からだが凍えたみたいにふるえだす。首を何度も振って、吐き続けた。
 もう、吐くものはない。なのに、体が必死に吐き出そうとしてる。体に染み着いた、アルファのフェロモンを拒絶するみたいに。
 一通りの処置を終えて、俺は泣いてた。何でかわからないけど、ずっと涙がとまらなかった。不安定で、ひたすら気持ち悪くて。不規則になる呼吸につられて、ずっと涙がこぼれてた。

「大丈夫だからね。理央君」

 先生も看護師さんも、やさしかった。あたたかくて、もう、自分は大丈夫なんだ。そう思うけど、怖くて仕方なかった。どうしてだろう。さっきまでは平気だったのに。
 ずっと泣きじゃくってると、向こうで、気配がした。

「申し訳ありません。アルファの方は、今は」
「すみません」

 看護師さんの声が、押しとどめた。ついで聞こえた声に、俺は目をさまよわせた。

「先輩、」

 涙に溺れたみたいな視界に、影がうかんだ。瞬きすると、先輩が扉の向こうにいる。

「あ、ちょっと」

 先輩の影が大きくなる。看護師さんのあわてた声が響いてた。

「すみません。抑制剤でも何でも打ちますから、そばに」

 大きな影が、ベッドの傍にひざまずいた。涙がこぼれて、視界が一瞬クリアになる。

「先輩……」
「大丈夫だ」

 先輩が、俺を見下ろしていた。やさしい目の光が、俺にふりそそいだ。先輩は、先生や看護師さんを見上げた。

「樟(くぬぎ)くんさえ、恐ろしくないのなら。傍についていさせてください」

 お願いします。そう言って、深く頭を下げた。先輩。

「では、一度こちらに。認証カードを」

 と、先生が言った。先輩。俺は先輩を止めようとする。先輩は、

「大丈夫だ」

 と、俺に微笑みかけた。そうして、認証カードを先生に渡した。


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