二十九話 あふれ出した心


「あっ……」

 のどから、声が漏れた。
 それから、なにも言えなくなる。息もできないくらい、強く抱きしめられる。先輩の熱が、痛いほど伝わった。

「どうして」

 先輩は言った。低い、抑えたささやきだった。
 せんぱい。
 呼びたいのに、声が出なくて。俺は、先輩の肩に縋るしかなかった。先輩はなにも言わない。ただ、ずっと俺を抱きしめていた。
 ――先輩。
 先輩の心臓は確かで、ひどく熱っぽかった。閉じた目から、ひたすら涙がこぼれる。

「先輩……」

 声が、音になった。小さなつぶやきは、届いたみたいだ。抱きしめる腕が、もっと強くなった。

「俺は、」

 先輩が、強く発した。確かな手が、俺をとらえてた。

「君以上に大切なものなんてない」

 静かな、強い言葉だった。
 頬に手を添えられた。視線が重なる。痛いほどまっすぐな瞳が、俺を映してた。

「なにもかも塵だ。君を、救えないのなら」

 先輩の言葉は、目は、あまりにまっすぐだった。真摯に、痛みを湛えて、揺れてる。

「あ、」

 射抜かれて、俺は後ずさった。先輩の腕が、俺を押しとどめる。逃げられない。

「お、俺……そんなふうに思ってもらえるひとじゃありません」

 俺はただ、首を振った。目を閉じたら、涙が頬にぼたぼた伝った。嗚咽が漏れて、背中が痛かった。

「どうしてそう思うんだ」

 熱い手が、俺の涙を拭った。俺は、いっそう強く目を閉じる。

「だって。せ、成績も悪いし。学校も、落ちこぼれで」
「うん。他には」
「弱虫で、臆病で……」

 自分の気持ちさえ、ちゃんと言えなくて。

「きっと、がっかりします。俺……」

 それ以上、もう言葉にできなかった。情けなくて、恥ずかしかった。何でこんなこと、言ってるんだろう。

「それだけか?」

 先輩は、聞いた。顔を上げる。涙でぼやけた視界に、先輩が映る。瞬きすると、先輩の優しい目とぶつかった。こめかみから、そっと頭をなでられる。

「君が言ったこと、俺はすべて否定できるよ。そうしたら君は信じるか?」

 目を見開く。嗚咽が喉に詰まったのを、優しくあやされた。

「さっき言ったような人が、君の目の前に現れたとして。君が嫌うとは思えない」

 寝かしつけるみたいに、やわらかく俺に触れて、ささやく。

「教えてくれ。いったいなにが、君に君を嫌わせてるんだ?」

 頭の奥が、
 ざあって、開かれた気がした。思考が白くなる。胸がふるえる。
 ――だって。

「……みんな、俺を捨てるんです」

 涙がこぼれた。下瞼と唇が、ふるえてこわばる。息がかたく、痛くなった。

「父さんも、瀧(たき)も」

 ずっと、笑ってくれてたのに。
 ――好きだって、言ってくれたのに。

『理央(りお)』

 優しい声が、よみがえる。かたく目を閉じて、頭を振った。

「俺が悪いんです。だから、」

 もっと、ちゃんとしなきゃ。
 もっと頑張らなくちゃ。もう、嫌われないように、今度こそ、離れていかれないように――。

 ふわり、香りが立つ。
 俺は先輩の腕に、包まれていた。



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