二十七話 ふたつの涙


 壁の影。
 僕は、立ち尽くしていた。目の前の、陰惨な光景に、息さえまともにつくことが出来ない。
 ――何、これ?
 蘇るのは、さっきのお兄ちゃんとのやりとりだった。

 暇だなあ。
 稽古が終わった道場で、僕は適当に時間を潰してた。目的は果たしたし、あとはお兄ちゃんを待つだけだった。
 スマホで勉強しながら、生徒たちの様子を見る。
 相変わらず、なるいとこだなあ。お兄ちゃんの名前で保ってるとこだよね。それって、お兄ちゃんが偉いのであって、ここが偉いわけじゃないけどね。
 お兄ちゃん一人の功績なのに、全国大会出場! とか宣伝して、客引きしてるんだろうな。鼻白みつつ、話しかけてくる生徒たちをかわしてた。

「佐保ちゃんも、また来るの?」
「ん〜忙しいからなあ」
「そっかあ」

 今僕、勉強してるんだけどなあ。あーあ、お兄ちゃん早く来ないかな。それとも、今日は来ないの? なら、無駄足だったかな。
 そうでもないか。僕は道場を見渡す。ここにとっては、ありがたいことだよね。ああ言う人がいると、本当に迷惑だから。
 どこでも、人のために動いちゃってるなあ。でも、それが僕なんだよね。僕はため息をついて、ずっと問題を解いてた。

 ◇

「お疲れさまです!」

 お兄ちゃんがやって来たのは、それからすぐあとだった。お兄ちゃんは、駆けてきたのか、皆に挨拶を済ませると、慌ただしい様子で、ぱっと道場内を見渡した。行儀悪いなあ。普段の礼節ってやつはどこに行ったんだろう。
 それからすぐ、スマホを持って外へ行ってしまう。来ておいて無礼なんだから。僕は弟として、ため息をついた。

「兄がすみません」

 と、先生に会釈しておいてあげる。そうして、お兄ちゃんの後を追った。

「お兄ちゃん、お疲れ様っ!」

 通話をしてたらしい。お兄ちゃんは何かぼそぼそ話してた。けど、僕が来た頃にちょうど、通話を終えたみたい。ほのかに明るかったあたりが、暗くなる。

「佐保?」
「遅いよ〜待ってたんだから! さ、帰ろっ」

 お兄ちゃんは僕を見て、黙ってた。僕は、さっさと促してあげる。

「ほら、早く帰らないと。先生の迷惑になるし」

 そう言って、腕をぐいと引っ張る。先生が出てきて、

「お疲れ、樹(いつき)くん」

 と声をかけた。僕はにこっと、先生に笑いかけてあげる。

「先生、さようなら!」

 僕はお兄ちゃんを促して、歩き出した。お兄ちゃんは、未練がましく先生に、

「すみません、失礼しました」

 と頭を下げてた。



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