二十二話 夏休みを前に


「どうしたの?」

 はっと目を上げれば、瀧と目があった。足を止めて、じっと俺を見てる。
 今は朝。いつもの登校時間だ。瀧の湖面みたいな瞳に、俺の顔が映ってる。俺は、

「なんでもない」

 と首を振り、俯いた。瀧は、首を傾げた。それから、

「そう」

 と、返した。そうして、そっと俺の髪を梳いた。肌に触れられたみたいに、瀧の指先を感じる。身をすくめると、瀧はくすぐるみたいな目で、俺を見てた。落ち着かない気持ちが、ずっと、胸にくるくる回ってる。
 瀧……。

「テスト、どうだった?」

 瀧は歩きながら、優しい声で、色々と俺に聞いてくれた。俺は、ひとつひとつ、答えながら、じっと瀧を見つめてた。
 瀧。
 瀧は、テストどうだった?
 瀧は、夏休み、講習出る?
 ……佐保さほちゃんと、何話してたんだ?
 自分でも嫌になる。俺はどれだけ、執念深いんだろう。こんなに優しくされてるのに、掲示板の前で聞いた、佐保ちゃんの可愛い声が、瀧とお似合いの後ろ姿が、ずっと頭によぎってくる。前みたいに。
 前よりずっと、嬉しいのにどうして。

「理央?」

 さあ、と風が吹く。髪が、なびいた。俺はぱっとそれを押さえる。今、見られたくない。
 瀧。本当は聞きたい。瀧にたくさん、聞きたいことがある。聞いてほしいこともある。けど。
 ……聞いたら、この優しい時間が終わるかもしれない。
 ずっと、踏み出せなかった。臆病で、ずるい自分。けど。

「瀧、」

 声が震えてた。
 もう逃げない。ちゃんと、前を向くんだ。

「瀧は、夏休みどうするんだ?」

 ――怖い。
 指先が冷たいのが、はっきりわかった。息を止めて、瀧を見つめる。
 瀧は、目を見開いて、固まってた。
 俺は、息を呑む。詰めてたぶん、変になった。今すぐ撤回して、「なんでもない」って逃げ出したくなる。
 でも、駄目なんだ。拳をぎゅっと握りしめた。
 ちゃんと、進まなくちゃ。瀧は、俺を見てくれてるんだから――。
 がたがた震えてくる気持ちを、一生懸命こらえて、瀧を見つめ続けた。涙が滲んでくる。手のひらに、爪が食い込んだ。お願い。

「瀧――」

 ぼやけた手が、俺にのびてきた。身をこわばらせる。ぎゅっと、目をつむりそうになる。でも、それより早く、瀧が俺を引き寄せた。

「あ、」

 固く抱きしめられる。瀧の熱が伝わる。吐息まで感じた。かすかにふるえてる。

「理央、」

 理央。
 瀧は何度も、俺を呼んだ。アスファルトに「止まれ」の文字が白く光ってる。痛いほどに、瀧の腕が俺に食い込んだ。俺は息を詰めてたけど、目を閉じて、息をついた。涙が頬を伝う。
 瀧……。
 胸がいっぱいになる。背にそっと手を回すと、瀧の喉が震えた。瀧の熱が染みてくる――。

「ごめん」

 目を見開く。瀧が、俺から体を離した。

「あ……」

 冷水を浴びたみたいに、身体が一気に震え出した。瀧。一気に感覚が遠くなる。まばたきしたら、涙が落ちた。瀧の指が、それをすくった。びくっと身体が跳ねた。ごめん、口から咄嗟に出そうになる。

「俺は、講習には出ない」

 瀧は俺を見つめて、ゆっくり言った。伏せられた目が、何を思ってるかはわからない。俺はそれを、必死に見返してた。唇がふるえる。

「いつものに、ついてくことになったから」
「……あ」

 俺は、声を上げる。
 いつもの。鈍い頭で、瀧の言葉を反芻する。記憶が意味をたぐり寄せた。

「父さんのところに、母さんが行くから。それに」

 合点がいったころ、瀧が補足した。
 そうだ。おばさんは、大きな休みがあると、遠方で一人働いてるおじさんのとこに、瀧を連れて会いに行くんだ。だから、たいてい、夏休みは瀧と会えなくて……。
 じゃあ、行き違いなんだ。むしろ、考えてみれば、当然のことだ。俺も知ってたことで、なんで思い至らなかったんだろうってくらいに。

「そうだったね」

 俺は俯いた。何気なく返したつもりの声が、弱々しい。なんで、駄目だろ。

「ごめん」

 瀧の言葉に、首を振る。ぱっと顔を上げた。

「ううん。楽しんできて」

 俺は今度こそ笑った。ちゃんと、できたはずだ。
 瀧は俺を見つめる。そっと、俺の手を握った。瀧の手も、熱いのに表面が冷たく冷えていた。

「毎日、連絡するから」

 瀧の手は、俺を責めなかった。むしろ痛いくらい、気遣ってくれてる。なのに俺は、泣きたい気持ちを必死に押さえてた。
 なんでだろう。自分のことが、信じられない。覚悟して、前に踏み出したはずなのに。別に、拒絶されたわけでもないのに。
 こんなささいな行き違いで、こんなに胸が痛い。
 馬鹿だ。
 もっと、強くなりたい。願うのに、俺は瀧の手を、握り返すことも出来なかった。


 《完》

 
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