あの日にまだ縋ってる4


「樟くんを離せ。彼の意思を無視するな」
「先輩……」

 先輩が、瀧を制止した。
 瀧がいっそう俺を抱く力を強めた。体中から、威圧のフェロモンが出てる。そのまま、俺を連れて行こうとした。
 先輩は動じず、威圧し返していた。瀧の肩を掴み、行かせまいとする。
 瀧のフェロモンが、先輩のものとぶつかり合い相殺しあっていた。
 おかげで、俺は少し、息をつくことができた。
 瀧の腕の向こうで、佐保ちゃんが目を見開いて、俺を睨んでいるのが見えた。余りの目の強さに、息を飲む。

「うざったいな。ついてくるなよ」
「樟くんを離すなら、いつでもこんな不毛なやりとりはやめよう」
「あんた、何? 理央りおの男気取りか」

 聞いたこともないような、ざらついた声。
 瀧から、信じられないくらいのフェロモンが放たれた。すごく怒ってるんだってはっきりわかる。
 俺は胸が詰まった。息が出来ない。
 オメガはアルファの威圧に強く出来てる。けど、受け止めきれなくて、俺はむせこんだ。

「げほっ……」

 瀧が俺の方を見た。湖みたいな瞳が揺れた――。

「――樟くん!」

 先輩の腕が、瀧と俺の間を割って、俺のことを引き出してくれた。
 へなへなとくずおれる俺の背を、そっとさすってくれる。

「大丈夫か。すまない、君は弱っているのに浅慮だった……!」
「へいきです、すみません」
「すぐに救護室へ行こう」

 言うなり先輩は、俺の体を抱き上げた。さすがに俺は驚いて、目を白黒させる。

「えっ、せ、先輩?」
「すまない。少しの間辛抱してくれ」

 そう言って早足で歩き出す。ほぼ駆け足のそれは、ちっとも軸がぶれなくて、揺れもしなかった。
 辺りのざわめきが遠くなる。少し、体が落ち着いてきて、俺は息をついた。

「――理央に触るな!」

 瀧の辺りを裂くような声が響いた。瀧が、追いかけてきていた。俺は驚きに、振り返ろうとする。先輩は、目線さえくれず、俺に「大丈夫だよ」と笑った。

「すぐに休めるから。目を閉じていなさい」
「は、はい……」

 俺は言われた通り目を閉じた。落ち着いてきたとは言え、疲れていたらしい。目を閉じると楽になる。息をつくと、瀧の声が追いかけてきた。

「さわるなって言ってんだろ! 返せ!」
「樟くんはものじゃない。君みたいな人に、任せるわけにはいかない」
「ふざけるな……! 離せって言ってるだろ!」

 瀧が先輩の肩を掴んだのか、少し揺れた。俺は、身を強張らせる。先輩は、俺を抱え直して、進む。
 先輩は止まらなかった。瀧に、しずかに低く囁いた。

「君にそんなことを言う権利があるのか」

 ただ一言、そう尋ねた。瀧は凍ったみたいに固まった。その間に、先輩は瀧を引き離した――。

「大丈夫だ」

 先輩は俺に言い聞かせてくれた。あふれるほどの優しさに戸惑う。
 見上げた先輩の顔はぼやけて、俺は、自分が泣いてるのに気づいた。
 先輩は安心させるように、笑う。
 俺は手の甲で涙を拭う。腕の中のケークサレは、先のやりとりで潰れてしまっていた。
 それがすごく悲しくて、涙が止まらなかった。

「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。君は何も悪くない」

 先輩はずっと、俺のことを励ましてくれた。ありがたくて、死にそうに、申し訳なかった。

 救護室に入って、一人になる。
 俺は耐えきれず嗚咽を漏らした。ずっと抑えてたぶんが、溢れてくる。
 忘れられると思ってたのに。瀧に抱きしめられた体が、まだ震えてた。

 ひどいよ、瀧。どうしてこんなことするんだ。
 そんなに俺が嫌いなのか? わからないよ。

 忘れたいのに。こんな自分、もう嫌なのに。
 酷いことされてるって思うのに、顔を見たら、触れられたら好きだって心が叫んでしまう。

「瀧……」

 お願いだから、もう許して。
 俺のこと、嫌いなら放っておいて。
 せめて綺麗に、忘れさせてよ。

 薄暗い救護室のベッドの中で。
 俺はひたすら、泣き続けた。


《完》
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