初恋の人を描き続けてる恋人が記憶喪失になった


 受けは、自分のクロッキー帳を見る。攻めが一心に絵を書く横顔。ふとしたとき、外を眺める目線。ずっとかきとめていた。
 自分だけは、覚えていたい。覚えていないといけないって思ってた。
 でも、そうじゃなかったのかな。
 切ない期待が胸にわきおこる受け。けれど、こうして絵を見ていると、攻めへの一種の罪悪感でいっぱいになる。
 攻めに、好きな人のことを、受けは話せていなかった。
 積み重ねられたクロッキー帳の絵を見れば、攻めは描けるんじゃないかと、仲間たちが見せた。けど、攻めの焦燥が高まったので、受けが預かっていることになったのだ。
 これだけ好きだった人のことを、攻めは今知らない。繊細なものだとわかってるけど、自分に都合のいい考えをしている気がして、苦しかった。
 攻めは最近、受けのことを見てくれるようになったから。
 この間、攻めはたわむれに受けのことを描いた。二人で話している時に、いたずらするように鉛筆を向けて、数学のプリントにスケッチしたのだ。


 すごく嬉しくて――罪深かった。
 自分は攻めにとって大切な居場所を奪ってしまったのではないか。攻めが見つめてくれるたび嬉しくて、すごく苦しかった。
 受けは悩む。好きだった人のことを話すべきではないだろうか。
 何も知らない攻めの心を、自分が埋めてしまって、いいのだろうか。
 悩んで、ずっと攻めのクロッキー帳を一冊持ち歩く日々が続く。一番新しいそれも、半ばまで描かれているのが紙のふくらみでわかる。
 美術室に向かうと、攻めが椅子を横倒しにして、何も立てかけてないイーゼルを前に座っていた。鉛筆を手にして微動だにしない。
 けど、以前のような焦燥はなく、凪いだ様子だった。受けはそっと椅子を引いて、近くに控えた。
 攻めはすぐに受けに気づいて、くるりと体を向けた。

「なにか、描こうと思うんだけど」

 澄んだ目に期待をこめて見つめられ、受けは頷いた。攻めは新しいクロッキー帳を持ってる。けれど、それを開かない。
 受けは、今ここしかないのかもしれない、と意を決して鞄から、攻めのクロッキー帳を取り出して渡した。
 攻めがそれを見て、しばし固まった。けど、それを受け取って、開いた。



 攻めは、じっとそれを見つめていた。
 笑み、顰めた眉や、斜めに顔に触れる手の形まで、微細に描かれたそれ。
 受けでさえ、この人と知り合いのような気がするほど、生きた絵。
 何より愛しているってわかる筆致。
 受けは、緊張しながら、じっと見ていた。
 これは自分のエゴだ。攻めに、好きな人を返してあげないといけない。でないと、自分は攻めの笑顔を受け取れない。
 もし、攻めに何かあったら、どう責任をとればいいかわからない。
 受けはじっと、攻めの様子を見ていた。
 攻めは黙っていた。
 ページを繰っていた手が止まった。
 攻めは、クロッキー帳を閉じて、床に叩きつけた。
 苦しそうにする攻めに、受けは自分が間違ったことを悟る。人を呼んで、攻めの背をさすろうとして、躊躇した。
 伸ばしかけた手を、掴まれて、腰にすがられた。
 あんまりに強い力に、受けは息を飲む。攻めは「どうして」と言った。

「どうして思い出させたの」

 苦痛の滲む声に息を飲む。どうして、攻めは繰り返した。

「君とずっと生きていきたかったのに」

 受けは目を見開く。人がやってきて、攻めは病院に連れられていった。


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