あの日にまだ縋ってる
「理央!」
手を掴まれる。そのまま抱き込まれて、俺の喉から細い悲鳴が出た。鉄の味がして、むせこんだ。
「落ち着いて。大丈夫だから」
フェロモンが俺の体を包んだ。あたたかくて、目を見開く。背中を擦られて、涙が頬にばたばたと散った――散ったのがわかった。ひゅ、と狂ってた呼吸が、誰かに代わられたみたいに落ち着きだす。
「そう。ゆっくり息をして」
大丈夫。
何度も繰り返されて、俺は体を震わせた。目の前の体に縋ろうとして、自分の指先が、血まみれなのに気づいた。
何で。
じわじわと走り出す痛みさえ、体に染み込んでくるフェロモンで痺れる。
けほっと俺は咳をして、自分の胸の中の嵐が、静かに収まったのがわかった。
微かなさざなみを残して、恐慌は静まった。
「よかった……」
ささやきが体越しに響いた。小さな呟きだったけど、心の底から安堵したみたいに、温かい声だった。引っ張られるように、涙があとから伝う。慰めるように、背を撫でられた。
……瀧?
俺はそこでようやく、俺を抱きしめてるのが、瀧だと理解しだした。
本当に――瀧が?
どうして?
人がやってきてた。先生が、俺を見て呆れたように息をついた。
「まったく。何してるの」
佐保ちゃんが、後ろですごく冷たい目で俺を睨んでるのが見えた。俺は呆然としてたけど、顔が耐え難いくらいぐちゃぐちゃなのに気づいた。顔が涙で引きつってる。
「放課後だったからよかったけど、もしヒートだったらどうするの。体調管理くらいちゃんとしなさい」
先生の声に、俺は「はい」と頷いた。不良みたいな俺は、先生には信用されない。
先生はうんざりしたみたいに、無茶苦茶になったベッドを見てた。「平気なのよね?」と念を押すように言われて、俺は頷く。先生が呆れたように、ため息をついた。
帰らなきゃ。体に力を込めた。
「そんな言い方ないでしょう」
空気を裂くように、低い声が割って入った。瀧だった。俺は目を見開く。
瀧は、立とうとした俺を押し留めながら、芯のある声で、続けた。
「こんなになってるのに、何で理央が責められるんですか。救護室に入れなかったのは先生ですよね」
何を言ってるのか、一瞬わからなくて、ぽかんとしてしまう。見上げると、瀧の顔は凄く怒っていた。
「ちょうど満室だったのよ。そんな……」
「だったら尚更、理央のせいじゃないでしょう」
「あのね、
瀧のプレッシャーに、先生が弱り切り、黙り込んだ。
「瀧くん、駄目だよ!」
佐保ちゃんが、身を乗り出した。俺のことをにらみつける。
「救護室は限りがあるから、先生も具合の悪い子から選別しなきゃいけないの。仕方ないんだよ」
佐保ちゃんの言葉に、先生も頷く。
知ってる。でもオメガは、救護室以外で寝ると顰蹙買う。だからオメガは、できる限り先生に気に入られようとするんだ。
「すいませんでした。俺、帰ります」
ベッドとか、片付けてったほうがいいんだろうけど、これ以上いるほうがよくないのはわかる。
「離してくれ」
俺は瀧の胸を腕で押した。けど、全然離れなくて、戸惑う。見上げたら、瀧がすごく悲しい顔をして、俺を見てた。
「あの……」
離してともう一度言うと、頑なに首を振られる。俺は困惑した。
この人、本当に瀧なのか?
別人みたい――ちがう、昔の瀧みたいだ。
昔は俺がちょっと辛い顔をしただけで、俺より辛そうにして、ずっと抱きしめてくれたっけ。
『理央ちゃん、大丈夫だよ』
過去の光景が頭に浮かんで、苦しくなった。
涙がまた零れる。瀧に見せたくなくて、伏せた。どこか茫然と、俺は泣いてた。
思考を放棄したかったのかもしれない。