あの日にまだ縋ってる32


「久しぶり」

 瀧の言葉に、俺は頷いた。目を合わせられず、挙動不審な態度をとってしまう。瀧は、一歩、二歩、俺の所まで歩いてきた。瀧の肌は、汗ばんで少し上気していた。空白が怖い。蝉の声が、こんなにありがたいことはなかった。

「なんで」
「心配だったから」

 瀧はいつもどおり、上品なシャツとパンツ姿だった。落ち着いた綺麗な様子に、うだるみたいな夏は、いっそ浮いて見えた。
 瀧は、俺の頬に手をやる。蝉の声が、頭に響く。瀧の湖面みたいな瞳が、じっと俺を映していた。
 瀧は何も言わない。ただ、頬の輪郭をそっとなぞった。俺の汗が、瀧の指先に触れて、恥ずかしくなる。そっと指先で汗を拭われて、目をつむった。

「髪、切ったんだ」

 びくりと体がふるえる。瀧の言葉に、深い意味はない。わかってるのに、俺は裸にされたみたいに、ひどく動揺してた。身を抱いて、顔を背ける。

「うん」

 どうにか、頷いた。目を合わせられない。怖くて。蝉が鳴いてる。空気が揺れてる。こんなに日差しが白くて熱いのに、体の芯が冷えてた。
 瀧は何も言わない。ただ、そっと指さした。俺はぼんやりと、指さした方を見る。

「開けて」

 ――家の扉。瀧は、示して、俺を見ていた。

「話をしよう」

 俺の手に、そっとふれる。手に、鍵を持ったままだった。瀧の手が、俺の手から鍵を取るのを、俺はされるがままにしていた。


《完》


 
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