あの日にまだ縋ってる29
――白い。
先輩は、ゆっくりとこっちに歩いてきた。逆光で、顔は見えない。ただ、荒い息と、感じたことのない気配だけが、あたりを揺らしてた。
「ひ、ひぃっ……」
俺を掴まえてた男が、地面を這ってる。口元は吐いたものにまみれてて、恐怖にゆがんでた。何でだろ。流れてくみたいに、様子が目に入ってくる。先輩の立てる、かすかな足音が、すごく大きく聞こえた。
「く、来るなぁ!」
男が叫んで、俺の髪を掴んだ。
「っ……!」
ハサミを手探りでとって、俺に突きつける。刃先が目に迫って、息をのんだ。
先輩が止まる。
男はほっと笑った。ハサミが開いて、刃先が頬に突き当たる。
「いいか、動いたらこいつを――」
「手を離せ」
低い、静かな声だった。びりっと空気が揺れる。先輩のフェロモンだ。
「うっ……」
男の体が、びくりと跳ねた。見えない手に打たれたみたいだった。背がぴしって、板みたいに固まる。喉をそる。頬が膨らんで、溺れたみたいにえづいてた。
「先輩、」
思わず、呼んでた。先輩が、俺を見る。先輩の口元がかすかに笑んだ――気がした。
「
「あぐ……」
「ハサミを離し、手を限界まで下げろ」
「ひいぃっ――」
男は、先輩の言うとおりになった。ハサミを離した手が、へなへなと下がる。げほりとまた、せき込む。今に倒れてもおかしくないのに、首をつられたみたいに膝立ちのままだ。目はうつろに、白目をむいて揺れてる。
いったいどれだけのフェロモンが、この男を襲ってるんだろう。
俺は身を抱いて、半ば、呆然としていた。
先輩はハサミを遠くに蹴る。金属音が、いっそ軽快に聞こえた。先輩が、男の胸倉を掴んだ。男は、たやすく上に持ち上がった。腕一つで、男は宙づりになる。
「覚悟はできてるな」
先輩の低い声は、いっそ穏やかだった。
男はごぼりとうめいた。男の足が、ばたばた痙攣してる。せき込む声がひどくなった。先輩のまとう空気が強くなる。
「せ、先輩……!」
俺は立ち上がった。よたよた駆けて、先輩の体にしがみつく。温度があって、ひどくホッとした。先輩は、俺を見下ろした。いつも通りの顔だけど、目が、笑ってない。
「樟くん」
「お、俺、大丈夫ですから……」
俺は必死に、先輩を止めた。。
目を閉じた拍子に、涙がまたこぼれた。先輩は、黙ってる。男のえづく音と、俺の嗚咽だけが、響いてた。
先輩の手から、男が落ちる。
どしゃりと、鈍い音がたった。男は今度こそ、気絶したみたいだった。顔が横を向いて、胸も動いてて、俺は息をついた。ひざから力が抜ける。先輩が俺の腰を抱いて、支えた。
「いいんだぞ」
「先輩」
「なにも背負うことはない。君はつらい目にあったんだ」
「先輩……」
俺は首を振る。
先輩の声は、ずっと穏やかだった。けど、いつもと全然違う。すごく怒ってるのを我慢してるんだって、はっきりわかった。胸が詰まって、息ができない。
「せ、先輩に、もう傷つけてほしくないです」
優しい先輩が……まして、俺なんかのために。
「こ、こんなに怒らないでください。俺――」
平気だって、言葉は音にならなかった。
先輩が、かたく俺を抱きしめてた。
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