あの日にまだ縋ってる19
「いいわよ」
母さんの言葉に、俺は「え」と固まった。
「子どもも通ってる剣道教室なら、まあ平気でしょ」
母さんはデリをつつきながら言う。予想外の言葉に、俺は、嬉しさより先に、驚いちゃって。思わず母さんをうかがう。
「母さん。いいの?」
「いいわよ」
お酒の入ったグラスを傾けると、とんとテーブルに置いた。
「アンタがやりたいってくり返すなんて、めったにないものね」
母さんはからりと笑う。
「やってみなさい」
俺はちょっとぽかんとして……それからじわじわ嬉しさがこみ上げてきた。胸があたたかい。
「ありがとう、母さん」
頭を下げると、母さんは俺を見つめた。それから、「ふふ」って、いたずらっぽく笑う。
「ホントはね。駄目って言おうと思ってたのよ?」
椅子の背もたれに腕をのせて、母さんはグラスを手に取る。何度もそれを傾けた。
「剣道なんて、オメガらしくないし。アンタがわがままいうときって、大抵、ろくなことにならないし」
「ご、ごめん……」
それには苦笑する。たぶん、受験とか、お弁当とかのことだ。母さんには心配かけ通しだから、本当に返す言葉もない。顔を火照らせてると、母さんはグラスにお酒を注ぎ足した。
「でも、瀧くんに叱られてね」
俺は止まる。
「え、」
「せっかく理央がやりたいって言ったんだから、やらせてやれってね」
椅子にもたれて、母さんは笑った。
「生意気言ってくれるわぁ!」
母さんの悔しげで、でもどこか嬉しそうな声を聞きながら。俺はずっと固まってた。
瀧。……ほんと?
どうして……。
ひとりの部屋で、スマホを見てた。ずっとホーム画面から動けないまま、メッセージアプリを見てた。すると、ぱっと、通知がくる。
瀧からだった。思わず開いてしまう。
「おやすみ」
ひとこと。その四文字を見つめてると、しだいにぼやけてくる。
「理央ちゃん、似合ってる」
小さい頃の、こどもの日。俺に兜をかぶせて、笑ってくれた幼い瀧の顔が、よみがえった。あの時も、瀧は……。
俺は、手の甲で涙を拭う。それからそっとメッセージを打ち込んだ。
「ありがとう」
送信しようとして、指を止めた。消去ボタンを押す。そして、「おやすみ」と打ち直した。
……もし、明日が来るなら。
俺は送信ボタンを押した。
《完》
8/8ページ