あの日にまだ縋ってる6


「……は」
「さっき、君は何をしていた?」

 志島の言葉は、静かで、いっそ穏やかだった。腕を組んで、尋ねてくる。

佐保さほが樟くんを侮辱したとき、君は何も言わなかったな」

 息が喉に戻った。冷たい音が鳴る。志島は落ち着きはらい、続ける。

「あれについては、全面的に佐保が悪い。だが、君は樟くんのことを庇いもせず、佐保をいいようにさせていたな。おそらく今までと同じように――違うか?」

 俺はざっと腹の底が冷たくなった。不愉快と、怒りで――こんな奴に、正論で刺されたことが、ひたすら怖気が走った。

「佐保の言葉は、君の言葉も同義だ。それでも、樟くんの気持ちが自分のものだと言うなら、君はよほど彼を軽んじているんだな」
「――違う!」

 俺は叫んでいた。体がわなわなと震える。
 何がわかる。お前なんかに、俺の何が……。拳を握りしめた。けど、そこから先の言葉が出ない。今度は、怒りからじゃない。回路が遮断されたみたいだった。

『本当に迷惑だよね』
『どうせ、友達がいないからくるんでしょ』
『嫌がってるのわからないのかな』

 佐保たちの、理央を嘲る声が蘇る。理央の小さく去っていく後ろ姿も。

『佐保ちゃんの言うとおりです。俺、瀧につきまとってました』

 さっきの理央の言葉が蘇る。佐保のひどい言葉に頷いた。諦めきった、悲しい顔で。
 ――違う……!
 違う、理央。何言ってるんだよ。俺が、お前のこと……そんなふうに、思うはずないだろ。どうして。
 唇が、うまく動かない。こいつに聞かせる言葉なんてない。けど、言われっぱなしは耐えがたかった。志島は、俺の様子など意に介さず、「いずれにせよ」言葉を続けた。

「態度を改める気がないなら、もう関与しないでくれ」

 俺は息を呑む。傲岸にも、志島はいい切った。

「彼を大切に思うものとして、忠告だ」

 あまりに厚顔な言葉だった。思考がまとまらない。
 何が忠告だ。理央の何でもないくせに。こんなふうに、理央の関係を狭める権利があるのか。大きなお世話なのは、兄弟で共通なのか?

「ふざけるな。お前なんかに……」

 握りしめた拳が震える。腹の底が、じんと冷たかった。頭が痛い。目障りだ。……この拳の使い方がわかった。俺は志島に、もう一度それを振りかぶった。
 ――そのときだった。

『離して……!』

 理央の声が俺の体を突きぬけた。
 壊れたみたいに、泣いていた理央の姿が浮かぶ。涙に濡れ、怯えて俺を見上げた目も。

『もういいから』

 理央の言葉が、心に落ちてくる。ぞっとするほど、痛い温度で。

「ぁ……」

 俺は立ち尽くした。
 汗に体中が冷えていた。縫い付けられたみたいに、動けなくなった。なにか、得体のしれない冷たさが、足元から這い上がってくる。

「君が樟くんを泣かせる根拠が、ひとえに彼の気持ち頼みなら、尚更だ。身勝手な独占欲で、これ以上彼の気持ちを踏みつけないでもらおう」

 志島の言葉が、頭の中を通り抜ける。通り抜けるのに、不快な音だけ、ざらついて残る。
 ――うるさい。皆、皆――勝手なことばかり、言いやがって。
 言いたいだけ言って、志島は俺に背を向けた。ゆったりと、この場を去ろうとする。

「好きに言ってろよ。理央が、あんたを愛する未来なんて、ないんだから」

 意図して言ったことじゃなかった。ただ、勝手にそれは、俺の口からこぼれ出たんだ。でないと、こんなみっともない声で言うものか。
 志島は立ち止まって、「どうかな」と答えた。穏やかな響きだった。背中はうんざりするほど動じない。

「樟くんは、気持ちを与えられたら、返そうとする子だ」

 ぐら、と脳が揺れる。視界が赤く、歪曲する。
 浮かぶのは、志島からお菓子を受け取って、嬉しそうにする理央の横顔だった。
 口元をおさえようとして、踏みとどまる。みっともない。歯を食いしばって堪えた。

「君だけが特別じゃない」

 そう言って、今度こそ去っていった。
 俺は、その場に立ち尽くしていた。何も返せないままだった。悔しさと、寒気が、胸の底でうずまいている。

「特別だ、俺は……」

 そうだ。出会ったばかりのお前に何が。何がわかる。お前とは違う。
 自分の足先が見えて、視界が落ちてることに気づく。喉から引きつるような痛みを伴う。腕を握りしめる。指先が、肌にぎりぎりと食い込んだ。

「俺は理央の、恋人なんだから……」

 やっと絞り出した言葉は、外気の中に、虚しく響き、落ちていった。嫌になるくらい、弱々しい声だった。あまりの頼りなさに、ぞっとして、俺は項垂れた。
 日は、とうに傾き出していた。

 《完》

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