「笑顔が嘘くさい」と言ってきた転校生が恋人の親友になった
「ゴッ……!」
日夏は生理的に、目を見開いた。息ができない。胸倉をつかまれたうえで、首をつかまれ、壁に押し付けられていた。ぐらぐら揺れる視界の向こうで、恐ろしく冷たい幸人の目とかち合った。
「俺、黙れって言ったよな?何度言ったら聞くんだ」
喉に親指の先が立てられる。つぶされる。恐怖にえづいた。幸人は一切動じなかった。胸倉をつかんだ手を、二、三回揺らした。その手にこもる力が抜けていくのがわかる。首に重みがかかった。
「喉をつぶすか?それとも吊られたいか?どっちがいい」
「ぐーっ!」
「わかった。どっちもだな」
恐怖に下瞼の奥から、涙がせりあがった。微動だにできなくて、「ひ、ひ」と息をもらした。幸人は、いっそ穏やかともいえる目で、じっと日夏を覗き込んだ。
「だから、突っかかるのはよしておけって言ったんだよ。誰もがお前に都合がいいわけじゃないからな」
「ヒーッ」
「言葉には責任持たないとなー。はい、いち、に――」
胸倉をつかむ手を、離された。親指に力がこもり、がくりと体が下がる――
「ひぎ……っ」
床にたたきつけられていた。日夏は、自分の喉を触った。つぶれてない。首も抜けていない。助かった……?実感した瞬間、体がぶるぶる震え出した。横ざまに倒れ込んだ足のあいだが、びっしょりと濡れていた。恐怖と安堵から、日夏は失禁していた。
幸人は、ゆっくりと、近づいてくる。日夏は「ひいっ」と身を震わせた。逃げようにも、体の自由がきかない。がくがく震える日夏のそばに、幸人はしゃがみこんだ。にこ、といつもの優しい笑みを浮かべられる。
「二度と和希と俺に近づくな」
「ひッ……ひ、」
「優しい伯父さんには、ちゃーんとうまく言うんだぞ」
がくがくとうなずいた。伯父のことを、何故幸人が知っているのかという疑問さえ、日夏の頭には浮かばなかった。幸人は、「いい子」と日夏の頭をぽんぽんと撫でた。恐怖に、芯から震えあがった。
「俺は、ひなつのこと、ずーっと見てるからな」
「はぎっ……」
日夏の頬が、冷たい汗と涙にぬれていた。幸人の明るいきれいな茶金の瞳が、凍えるように冷たくなる。
「二度と俺たちを変えようとするな」
◇
何度も、転げながら、日夏は走っていた。
「ひっ……ひっ……」
生徒会役員の部屋は、フロアが別にある。人のいるところへ逃げる難しさを、日夏は痛感した。早く、あの目のいないところへ行きたい。ずっとずっと、追いかけてきている気がして、怖くて仕方なかった。
誰だ?あんな幸人は知らない。あんなの、幸人じゃない。
けど、いつもの幸人の顔だった。目だった。いつもの透き通った、奥まで見通せそうな目で、その顔で、あんなひどいことをされた。何だ?
じゃあ、幸人なのか。じゃあ、俺の知ってる幸人は、誰だったんだ?
泣きながら、必死に走る。ちっともわからなかった。
怖い。怖い、怖い。
はやく、人のいるところへ行きたかった。ぼん、と人にぶつかって、顔をあげた。
遠野だった。顔の半分に湿布を貼っている。昨日、幸人が打ったからだ。
「なんだ、クソガキ」
「ひーっ!」
いつもの通りの声音で、表情のはずだ。けれども、日夏には、恐ろしく見えた。泣きながら、逃げようとすると、手をつかまれた。
「どうしたんだよ?そっち、和希の部屋だよな」
遠野の探るような言葉に、日夏は怯える。『見ている』との幸人の言葉が、頭に反響した。
「知らないっ!俺は、なにも知らないーっ!」
顔を、目を、口を隠しながら。
日夏は必死に逃げていった。
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