本編


 鈴虫の音が、夜の闇に響いている。それは、夏の名残を感じる温い空気の中で、冴え冴えとした気持ちにさせた。
 空を見上げる。真っ暗な空に、浮かぶ月と星は、遠くて高い。輝いていて、すごくきれいだ。
 隼人は、そっとスマホを手に取る。写真を撮って、LINEに送った。
 それからしばらく、歩いていると、着信がきた。隼人は通話ボタンを押して、応える。

「龍堂くん?」
『ああ』

 隼人は足を止めて、龍堂の声に聞き入った。

「月がきれいだから、知らせたくて」
『そうか』

 龍堂が、スマホの向こうで笑ったのがわかった。隼人も笑って、空を見上げる。本当にきれいだ。

「好きだなあ」

 こぼれた言葉は、無意識だった。けれど、今溢れる気持ちに、ぴったりだった。龍堂は黙っていた。しかし、「ああ」と応えてくれた。

『好きだ』
「へへ」

 ハスキーな低音が、優しい響きで届く。隼人ははにかんで笑った。それから、少し話して、通話を切った。隼人はスマホをぎゅっと握りしめる。――今、すごく、会いたかった。
 自然と、向かった歩道橋の上で、隼人は空を見上げていた。足元には、車や建物のライトがきらきら光っている。ふいに、ポケットの中でスマホが震える。
 スマホを取ると、龍堂だった。

『中条』
「龍堂くん」

 外なのか、さっきと声の響きが変わっていた。歩道橋の階段の音がする。軽やかでしっかりした響きが、外と耳元で反響する。
 隼人が思わずそちらを見ると、龍堂がそこに立っていた。

「龍堂くん」
「会いたかったから、来た」

 通話を切って、龍堂が歩いてくる。隼人も、龍堂の方へ歩き出す。そうして、向かい合う。龍堂の肌は少し汗ばんでいて、走ってきてくれたのだとわかった。隼人は胸がいっぱいになる。じわり、目が熱くなった。

「俺も、すごく会いたかった」
「へえ」
「明日も会えるのに。待ちきれなくて」

 その言葉が、とても贅沢なものだと、隼人は知っている。
 明日も、龍堂に会える――そう、自分が感じられること――それは途方もない幸せで、奇跡みたいに素晴らしいことだと。
 だから、隼人は、その気持ちをぎゅっと抱きしめた。願わくばずっと、こうしていられるように。

 ずっと友達がいなかった。それでも家族と、ハヤトロクがあれば、やってこれた。
 お話の中では、隼人は勇者にだって、星にだって、ダークヒーローにだって、なんにでもなれたから。
 けれど、今――隼人は、ただの中条隼人がいちばん好きだ。
 皆がいて、龍堂が隣にいる――そんな自分が、いちばん。

「ありがとう」

 龍堂を見上げる。そして、心の中で、くり返した。
 ありがとう。俺と出会って、好きになってくれて――。

 龍堂は何も言わなかった。ただ、わかっている。そう目で言って、隼人の頭を優しく、ぽんぽんと叩いた。そして、そっと――隼人の目元に触れる。くすぐったさに笑うと、龍堂も笑っていた。
 龍堂が、そっと隼人の肩を組む。隼人は、その手をぎゅっと握った。そうして、二人で空を見上げる。空は高い。でも、自分たちはここにいる。

「好きだ」

 そう言って、どちらからともなく、笑いあった。夜の光は優しく、ふたりの影を照らしていた。

《完》
90/91ページ
スキ