本編
ホームルームのチャイムが鳴る。
隼人はよろよろと立ち上がる。ぼんやりと昇降口へ戻った。どこへ行きたいわけでもない。とにかく離れたかった。
逃げているだけだとわかっている。けれど、どうしても怖かった。自分の靴箱へたどり着いて、そこでうずくまる。体中が痛かった。
隼人は耳を塞いで、目を閉じた。こうして、何もかも夢になってしまえばいいのに。全部が嘘になって、戻ればいいのに。世界が、ノートを閉じるように全部、しゃ断されてしまえばいいのに――
しかし、現実は、そんなことは叶わない。ただ、自分がそこから動けないだけで、皆は変わらず前に進んでいく。
「う……っ」
涙が止まらなかった。今泣いたら、目も当てられない、理性はそう止めるのに、ぐちゃぐちゃに壊された心の堰が、とめどなく溢れてしまっていた。
どうしてこんなことになったんだろう。昨日にひたすら帰りたかった。いや、ハヤトロクを書き始めた、あの日に帰るべきなのだろうか?
意味のない問いかけだった。タイムマシンなんてないし、ハヤトロクは書き出されてしまった。
あんなものを書いたから、こんなことになったんだ。だから。
なんとか自分を、奮い立たせ、隼人は立ち上がった。よろよろと来た道を引き返す。
行くあてなんてない。行かなきゃいけないところは教室で、行きたいところには、怖くて行けない。
自分は卑怯者だ。怖がるばかりで、ちゃんと謝ることもできないなんて――
「中条」
◇
時が止まった気がした。
教室に続く廊下。龍堂は、そこに立って、隼人と向かい合っていた。
龍堂くん。隼人は心のなかで彼の名を呼ぶ。実際は、微動だにできなかった。
ホームルームもあるのにどうして……そんなことを、動かない頭で考えていた。
「やっと見つけた」
龍堂は、隼人に向かって歩いてきた。隼人は呆然とそのさまを見ていたが、ふいに龍堂の手が、一冊のノートを持っていることに気づいた。
――ハヤトロクだ。
次の瞬間、隼人は踵を返し、駆け出した。
「中条!」
痛む体は、思うように動かなくて、何度もよろけた。それでも必死で隼人は逃げた。逃げてどうなるかわからない。けれども、逃げたくて仕方なかった。
バレた。見られた。龍堂くんに――
「中条!」
龍堂の腕が、後ろから抱えるように隼人を止めた。その時には、隼人はただ泣きじゃくっていた。終わった。終わった。終わった――。
「中条、逃げないで。顔を見せて」
龍堂の声は、死刑宣告のように思えた。隼人は震えながら、ひたすらに首を振った。
「ごめんなさい」
どうにか口をついて出たのは、そのひとことだけだった。
「ごめんなさい、勝手にこんな……」
『気持ち悪い』
何度も言葉が繰り返される。体が凍えたように寒くて仕方ない。ぶるぶる震えながら、隼人はひたすら謝った。
「ごめんなさい……」
書くんじゃなかった。
こんなもの、書かなければ。
楽しくハヤトロクを書いていた自分がよみがえる。固く目を閉じて、バツを打った。
見せられないものなんて、書いたから。
龍堂と過ごした日々、龍堂の笑顔。
全部、自分が壊してしまった。
「本当に、ごめんなさい」
嫌いにならないで。絞り出された願いは、身勝手すぎて形になったかもわからなかった。もう消えたかった。