本編
廊下にのびる長い影に、應治はひとり、どこへ向かっているかわからなくなる。昔は、はっきり自分の行く先は悠弥だと言えただろう。今は、どうしてこんなにも、先が見えないのだろう。
悠弥が元気になった。もう泣かせない。優しくできるように頑張る。それでいいのだ。心の整理がつかなかったが、應治は教室の扉を開けた。
「――あっ、オージくん」
そこにいたのは、マリヤだった。手にしていた教科書を、慌てて閉じる。
その不審な行動に、應治が目を眇めた。すると、マリヤは焦ったように言い繕い出す。
「私のじゃないの。これ、中条くんのなの」
ほら、とマリヤは教科書に書かれた名前を示す。たしかに中条の教科書のようだ。應治の納得に気づいたか、マリヤはカバンを前に差し出して言い募る。
「カバンを押し付けられたから、そこで待っていたの。困っちゃって……」
それで人のカバンの中身を見て、漁ったってわけか。應治は冷めた目で、マリヤを見下ろす。その視線の意図を汲んだマリヤが、「違うの」と否定した。
「たまたまなの。カバンがひっくり返ったから、拾おうとしたら……この、教科書が出てきてっ」
と、マリヤは数学の教科書を開き示した。ぱらぱらと中身をめくってみせる。
「こんなひどい落書きがあったから、固まっちゃったの」
と、顔を赤くして気まずげに、言った。
應治は目を見開く。
「意味は、よくわからないけど、こんなこと、教科書に……駄目だよね? 中条くんって……」
と、應治をうかがう。應治は、マリヤの話など聞いていなかった。その「落書き」から、目が離せなかった。
数学の教科書に目一杯書かれた卑猥な落書き、それは、間違いなく悠弥の字だった。
――あいつ、こんなことまでしていたのか……!
いきすぎているから、中条からは手を引けと言ったのに。龍堂が絡むまでは、悠弥は珍しく自分の言うことを聞いてくれたと思っていたのに。
應治の中で、感情がぐるぐると回る。
中条のカバンを開けて、急ぎ他の教科書も調べだす。
「え、オージ、くん?」
マリヤが困惑した目で自分を見ているが、構っていられなかった。カバンには、その日の授業分の教科書がぎっちり詰まっていて、それは中条の「警戒」を如実に表していた。
カバンを持ち歩き始めたのも、大方ケンたちのためだと思っていたのに。とんだ誤算、油断だった。
幸い、駄目になっているのは数学の教科書だけだった。
――数学。悠弥が強引に、龍堂に教科書を貸そうとしていた日のことを思い出す。あの時から……
不味い。明らかに不味かった。これは度が過ぎた。
もし、この教科書を、中条が持って訴えたら――悠弥は普段から中条に暴力行為を行っていて、それは皆の知るところだ。この教科書は、いじめを立証する強力な手札となる。
いや、そもそも、証拠がこの教科書だけとも限らない――應治は目の前が暗くなる。
こうと決めたら、絶対に中条はひかないだろう。中条が今日見せた意志の強さは、應治の記憶に鮮明に残っている。こいつはただの底辺ではないと、思わされたのだ。
そんな男に、こんな証拠が。
あいつは、今日は悠弥を助けてくれた。けれども、それが何の安心になる? 明日のことはわからないし、悠弥は止まらない。そして受けた屈辱は絶対に恨みとして残るのだ。
どうすればいい。悠弥は止まらない。應治は、自分の怒りから、この数日悠弥を野放しにしていたことを悔いた。この数日だけでも、悠弥のいじめの証拠は積み上げられているのだ。
悠弥がやられる。社会的に終わる――甘ったれで社会的名誉に弱い悠弥だ。きっと耐えられない。壊れる。
應治は怒りに似た寒気を覚えた。――守らなければ。
何とか、中条の口を塞がねばならない。塞がずとも、中条の言葉が、届かないようにしなければならない。
中条の、弱みを探さなければ。
應治はカバンをひたすらに漁った。
「……?」
カバンの奥底に、ノートが一冊、押しつぶされて入っていた。應治はそれを取り、開いた。
「え、何? これ……」
後ろから覗き込んだマリヤが、声を上げる。その気配が困惑から嫌悪に変わっていく中、應治はじっとそれを見続けていた。
これだ。これしかない。
應治は立ち上がる。そして、カバンに教科書たちを戻し、もとに直した。ノートを持って立ち上がる。
「マリヤ、手伝ってくれ」
そうして、教室を後にしたのだった。