本編
廊下をひとり、
『えへへっごめんなオージ!』
一緒に帰ろうとした矢先、悠弥の母親から、連絡が入ったのだ。
『かーさん心配だから、とーさんのとこ行くって!』
医者の父親に診てもらって、大丈夫そうなら、そのまま食事に行くらしい。「何食べよっかな〜」と悠弥の口ぶりは弾んでいた。
「もう校門にいるって! うぜー!ほんとおーげさだよなっ」
悠弥の母親に連絡したのは應治だ。心配するのは別にかまわない。来ないほうが変だ。應治は自嘲する。
『ま、最近飯も食えなくて、心配かけてたし? めんどくせーけど親孝行してくんわっ』
そう言う悠弥の目には、應治への非難がハッキリと込められていた。「忘れないぞ」の証だ。この数日、自分のせいで本当に苦しかったのだと。
應治はせめて、校門まで送ると言ったが、悠弥が頑として聞き入れなかった。
『お前来るとかーさんはしゃいでうぜーんだもんっ!』
そう言って一人、うきうきと体を跳ねさせながら校門へ向かった。
應治は、ひとり取り残された。
また日常が帰ってきた。そう思う。悠弥の目には、自分への恨みこそあれど、不安はなかった。悪いなんて言う気持ちなど言わずもがなだ。
應治は来た道を引き返す。このまますぐ、一人で帰る気にはなれなかった。憂さ晴らしの相手がほしい。
馬鹿だな。何度、俺はくり返す?
自嘲をさらに自嘲する。
わかっているだろう。永遠にだ。
今回ばかりは、もう許せないと思ったはずだった。悠弥は龍堂ばかりを構って、忠告も聞かずに應治をないがしろにし続けた。
『うるせーなっ! 俺には友達作る権利もねーのかよっ!』
お前にはマリヤがいるくせに!
そう涙をためて怒られると、應治はどんなに腹が立っても、結局のんでしまう。
けれど。
『リュードーに負けたくせにっ!』
さすがに、衆目の場で貶められたことは許せなかった。
悠弥はどうして、自分の傍にいて、こんなに自分の嫌がることがわからないのだろう?
それまでのつもりつもったストレスもあり、應治は悠弥と距離を置くことにした。と言うよりも、もう触れたくなかった。
だから、悠弥に思うところがあって、自分を取り込もうとするマオの誘いに乗った。
悠弥の、「自分を應治がほうっておくはずない」という余裕の表情が、裏切られ呆然と崩れるのは快感だった。
ざまをみろ。お前がいなくて俺はむしろ快適なんだ。そんな真っ黒な気持ちでいっぱいだった。――実際、悠弥がいない方が、應治の生活は楽に回った。
なのに夜になると、どうしても悠弥の傷ついた顔を思い出さずにはいられなかった。悠弥が傷つくと、まるで自分が傷ついたように、應治の心は傷んで傷んで、苦しくて仕方なかった。
なのにまた、日が昇り悠弥の顔を見ると、許せなくなった。
自分を省みることもせず、「自分は選ばれて、優遇されてしかるべきだ。間違っているのはお前なのだ」という顔に、腹が立って仕方なかった。
悠弥のいない生活は快適で、何でも自分のペースで進められた。何にも煩わされることはない。なのに、なにか欠けている。足元が、いきなり消えるような不安があって、心に空白を作っていった。空白は焦燥に似て、應治をせかした。
――どうあっても、俺の人生は悠弥に支配されている。應治の悠弥への情は敗北に似て、とぐろをまいて應治に絡みつく。息さえままならないほどの締め付けに、應治は前さえ見えない。逃げたかった。もう、解放されたかった。
だって、悠弥は俺に、何ひとつ返してくれない――。
『一ノ瀬くんが倒れました!』
悠弥が倒れたと聞いたとき、自分は悠弥から逃げられないと悟った。その感覚は、絶望に似ていた。
悠弥が倒れた。――悠弥がいなくなるかもしれない。そう思うと、体の芯から凍るような恐怖に、應治は襲われた。
『フジタカ!?』
何もかも白くなり――気がつけば、應治は悠弥を助け出していた。
汗に冷えた悠弥の手を握りしめ、應治はふるえていた。心のなかにあるのは、恐怖と悔恨だけだった。
――馬鹿だった。くだらない意地で、悠弥のことを傷つけた。龍堂のことだって、許せばよかった。今なら、全部許せるのに。
このときばかり、應治は殊勝な反省をすることができた。そんな自分の感情に、脳が自己嫌悪にふわふわする。それは一種の自傷行為だった。
いつも、こんなときでないと、悠弥に優しくなれない。殊勝にもなれない。素直に、こうして手を取ってやることもできなかった。 目が覚めてくれ、何でもする。おいていかないでくれ。
死にそうな気持ちだった。
『オージィ』
目を覚ました悠弥が、顔をくしゃくしゃにして泣いた。「ひとりにしないで」と、すがってくれた。
ぞっとするような恍惚が、應治の脳に駆け巡る。悠弥が、俺にすがっている。必要としている。
愛しかった。大切だった。やっぱり離れられない。
絶望的な感慨は、應治の思考を真っ白にかき消すほど、眩しかった。絶対に俺は、悠弥から逃げられない。
くしゃくしゃに泣く悠弥。本当に泣きたいのは、應治の方だった。笑われるとわかっていて見せたい涙じゃなかった。悠弥はきっと笑うだろう。でも、――俺にはその笑顔だけでも、必要だった。
悠弥がひとしきり泣いて、自分に「絶対、一生ゆるさねーからっ」と悪態をつけるようになり、應治は安心した。
多分、もう大丈夫だ。應治は安心した。もう大丈夫だ、これで日常に戻るのだ。
悠弥の中の自分との「一生許さない出来事」は増えたけど、離れない限り、償えるのだから。