テミス√ss
♦︎
テミスは魔女だ。
人間の形をした兵器。おぞましい呪いに満たされた肉の器。人智もこの世の法則も超えた何か。それが少女を説明する全てだった。
平和な国に突如として現れた魔女は、その力で瞬く間に王城を支配した。手始めに門兵を石に変え、重い扉を容易く砕き、そして王を殺した。血塗れの玉座から汚れた男の肉を消し去って、テミスはそこに君臨した。
テミスが何者であるか──それを知る者はどこにもいない。今や恐怖の象徴である魔女が、ただの名もなき少女であったことを憶えているのは、とうの魔女ただ一人であった。
テミスは時々、瞑目して自分の過去を──『テミス』になる前のことを思い返す。突如として奪われた平穏を、失われた自分を、身勝手に歪められた人生を、余すことなく穢された尊厳を。今の『テミス』があるのは、きっと全てに対する復讐のためだ。全身を絶え間なく駆け巡る疼痛が、身の内で激しく暴れる呪いの奔流が、いつだってテミスの正気を蝕んでいる。耐え難い苦痛に気が触れそうになるたびに、テミスは焼け焦げそうなほどの怒りがまだ自分のうちにあることを再確認する。
魔女テミスは人造兵器だ。『ある目的』のため、非人道的な手法で生み出された存在。全てを奪われた復讐のために、己を穢し貶めた者を殺しても、その怒りは絶えず彼女の脳髄を焼いている。兵器として完成されてしまったテミスにとって、死は永遠に手の届かない安息だ。決して壊れることのないようプログラムされた少女には『目的』を果たすまで死が訪れることはない。とっくの昔に憎い相手を手にかけて、成したい復讐を終わらせてしまった。いつ終わるかもわからない苦痛に身を晒して、褪せることのない怒りに命を燃やす。絶望と屈辱を薪に汚れた煙を吐き続ける、そんな壊れかけの──されど決して壊れることのない兵器が、テミスだった。
王を殺して玉座を奪い取ったその日から、テミスは全ての敵になった。たくさんの人間がテミスの命を狙っては返り討ちにあった。テミスの気分によって、刺客たちは無惨な肉片に変わったり、使命も何もかも忘れた愚か者に身をやつしたり、さまざまな結末を辿った。いつしか表立ってテミスの命を狙う者はいなくなった。そしてテミスは己に課された『目的』を遂げるため、ただただ玉座でその日を待ち続けていた。
♦︎
テミスの前にその男が現れたのは、数週間前のことだ。王もその寵臣も死に、玉座に居座る理外の化け物をどうすることもできなかった国は、短気な魔女の癇癪に触れないように、魔女の言葉に阿り始めた。王国は魔女の統べる国へとつくりかわっていた。といっても、テミスの要望を叶える代わりに命だけは助けてほしいと、無駄に大仰な命乞いを儀礼的にこなしただけだ。自身を穢した者を全て殺したテミスにとって、最早復讐すべき相手もいない。『目的』を遂げるため、ただ待ち続けるだけのテミスにとって、他者はどうでもいい存在でしかなかった。
男の名前はエクトルといった。それが偽名なのか、本名なのかはどうでもよいことだった。ただ遠く昔に失った誰かの響きと同じそれは、テミスのうちの何かをくすぐった。陰鬱な内面を鋼鉄の面持ちに隠したような、昏く深く、こちらを呑みこまんとする男の眼差しに、テミスは興味を持った。テミスの『目的』のため、暇つぶし程度に集めた人間たちの中に、エクトルは紛れていた。年はきっとテミスと変わらないくらいであろう青年は、テミスの想像のつかないような経験をしてきたのだろう。泥濘に似た絡みつくような重たい視線と、妙に完成された佇まいの不均衡が、どうしようもなくテミスを惹きつけた。
テミスはエクトルに、自分と同じ苦痛に虐げられた者の諦念と、果てることのない身を焦がす怒りを見た。ただの暇つぶしと思って、魔女は男を側に置きはじめた。
エクトルを身近に置くうちに、テミスは彼の怒りがテミスただ一人に向けられていることに気づいた。エクトルは、確かにテミスを憎んでいた。それでも傍若無人なテミスの振る舞いに、青年が感情を見せることはなかった。どんな我儘にも歯向かうことなく男は従った。ちぐはぐな男の鉄面皮を、いつか引き剥がしてやりたいとテミスは思うようになっていた。
♦︎
その日もテミスは自らの身の内を食い荒らす呪いに苛まれていた。苦痛に身を捩り、のたうち回るようにして寝台を転げ落ちる。静まり返った夜の城で、僭主は声を殺して苦悶の波が遠のく瞬間を待っていた。噛み締めたくちびるから、生臭い鉄の味が広がる。いつものようにテミスは瞑目して、己を保つための儀式をなぞろうとした。今まで受けたあらゆる苦痛を、屈辱を──その憎しみが、怒りがテミスをテミスたらしめる。脳髄がぐらぐらと沸騰しそうなくらいの憤怒が、気が狂うような苦痛の中で正気を保つ、唯一の楔だった。
気がつけば人の気配がすぐそこにあった。
例え苦痛に苛まれていようと、テミスを弑することは不可能だ。テミスに流れる『天秤の魔力』はちっぽけな人間の殺意など瞬く間に消し去ってしまう。おおかた、暫くぶりの刺客が苦しむテミスを見て好機と捉えたのだろう。人間の諦めの悪さに、テミスは辟易とするような思いを覚えた。
「……私は……ッお前じゃ、殺せないわ」
普段なら八つ当たりに殺しているはずの刺客に、テミスは声をかけていた。苦痛に息も絶え絶えになりながら、気が弱っているときには思いがけないことをするものだと、テミスは他人事のように考える自分がいるのに気づいた。
ピントの合わないぼやけた視線の先で、何者かは立ち尽くしている。汗か涙か。何かが、テミスの頬から首筋を伝うのがわかった。
「……どこか、苦しいのか」
その声が、ここ数週間で聞き慣れた男のものだと気づくまで時間はかからなかった。いつも感情を見せないはずのエクトルの声音は、随分と深刻にテミスを慮っているように聞こえた。珍しいこともあるものだと思って、テミスは少し愉快な気持ちになった。しかし思考はすぐに苦痛に塗りつぶされていた。
答えずに荒い呼吸を繰り返すテミスに、目の前の男は逡巡しているようだった。テミスを深く憎んでいるはずのエクトルが、一体何を悩むのだろうか。苦痛をこらえ荒く息をするだけで、今のテミスには精一杯だった。この男も他と同じように、テミスに刃を向けるのだろう。そして無惨に死んでいく。暇つぶしは、何ともつまらない結末を迎えるものだとテミスは自嘲した。
そのとき、突然あたたかいものがテミスを包んだ。それが人間──エクトルの体だと気づくまで少女は何が起きたのかわからず、呆然としていた。抱きすくめられるように支えられて、テミスはふと自分の体から力が抜けるのを感じた。ぬるい青年の体温は、自分の体がずいぶんと冷え切っていたことをテミスに教えた。じわじわと広がる温度に、解けるように苦痛が遠のく。壊れ物を抱くように、けれどしっかりとテミスの体を支えるエクトルの体に、テミスは思わず重心を委ねていた。
目を覚ましたとき、テミスの体は寝台に横たわっていた。あの出来事が嘘だったかのように、テミスを支えたぬくもりは忽然と消えていて、薄いシーツと寝台の感触だけがテミスを包んでいた。
──一瞬、何かを恋しく思う自分がいた。テミスはその事実を振り払うように首を振って、寝台から身を起こした。そして、その手を何か大きなものが包んでいることに気がついた。ふしくれだってごつごつとした手のひらはテミスの滑らかな指先とは何もかもが違って、けれど初めからひとつの塊だったのではないかと錯覚するくらい、ふたつの体温は溶けて混ざり合っていた。
指の先、手のひらの向こう。難しい顔をした青年が眠っていた。いつもの鉄面皮に、少しだけ眉間の皺があって、テミスはこの男はこんな顔で眠るんだ、と思った。体を蠢く不快感はいつもより控えめで、テミスは再び寝台に体を横たえた。少しだけ握った手のひらに、しっかりとしたぬくもりが応える。魔女は目を閉じて、また微睡のなかに意識を手放した。
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それからエクトルは、テミスの前でかすかな表情を見せるようになった。鉄面皮の、感情のかけらもない男がたまに見せる柔らかい何かに、テミスの心は掻き乱された。自分を憎んでいるはずの男の内心が理解できなくて、それでもエクトルの表情のその先を知りたいと思う自分が抑えきれなくて。テミスは自分がエクトルの前では『魔女』ではいられなくなっていることを感じていた。
♦︎
エクトルもまた、自分の変化に驚いていた。エクトルには過去がない。厳密に言えば、強烈な体験の末に記憶も何もかもを失ってしまったのがエクトルだ。記憶を失った青年に残ったのは焦げついて離れない憎しみと、精神をぐずぐずに打ち砕く喪失感だけだった。しかしそれもまた、自分のものではないような、どこか俯瞰したような感覚がついて回っていた。自分が何者であるのか。あの日からずっと、空虚なだけの心象風景で、一人自分を探し続けている。
紆余曲折を経て、エクトルは魔女に蹂躙された村の生き残りとして、ただ魔女を討つことだけを支えに生きてきた。何を失ったのかもわからないまま、残された憎しみを自分の存在証明にしてきた空っぽの人間。過去は遠く、残ったものはかつて受けた苦痛の残滓だけ。脱色して色を失った頭髪も、いつの間にか元の黒色を取り戻し始めている。
鏡を見るたびに、青年は自分の薄情さに苦しんだ。一人だけ生き残った自分が遂げるべきはきっと、惨劇を忘れず、復讐の炎を絶やさずにいることなのだろう。けれども青年の脳から過去は跡形もなく掻き消えて、悲しむ相手すらわからなくなってしまった。薄情な男の薄情な肉体は打ちひしがれた人間とは思えないほど健全で、今では色を失った毛先と燻る憎しみだけが、エクトルの身に起こった惨劇の証だった。
気まぐれで残忍な魔女は、皮肉なことに薄情なエクトルに挽回の機会を与えた。持て余した憎しみを晴らす機会──腕の立つ若者を城に集める、という触れ書きにエクトルは躊躇なく手を挙げた。
魔女の棲む城に入ることができる。城は魔女の魔力によって基本的に封鎖されている。その場に足を踏み入れるということは、魔女の命を奪う機会が得られるということだ。勿論その前に無惨に殺されることも大いにあり得るだろうが、それでも空っぽのエクトルには魔女に立ち向かったという事実が喉から手が出るほど欲しいものだった。
選ばれた数人の若者たちは皆、それぞれの事情を背負っていたが、誰もが魔女の命を狙っていることは共通していた。何もないエクトルと違って、魔女を弑虐するために特殊な訓練を積んだ者が大半を占めていた。城に入る前に、一人一人自分の話をした。途中で死んでも、誰かがその思いを、人生を継いでいけるように。寄せ集めの彼らは、あのとき確かに仲間になった。
♦︎
初めて魔女と対面した日のことをエクトルは鮮明に覚えている。
魔女はまだ少女と呼ぶべき齢の娘だった。小柄な肉体のどこにも狂気は感じられないのに、魔女の発する空気は広間を圧迫し、そこは完璧なまでに魔女の場と化していた。泰然と玉座に腰掛けていた魔女に、一人が飛びかかった。仇を前に怒りのままに飛び出した青年の振るう刃が女の胸を貫く寸前、その動きはぴたりと止まった。
「お前」
女の低い、怒りに満ちた呟きが広間に響く。底冷えするような殺気と渦巻くような怒気が、魔女の小さな体から発されているのを感じた。
「お前。自分が何をしているかわかっているの」
「……ッ黙れ魔女!お前のせいで、お前のせいでッ」
彼が全てを口にするより先に、魔女の指先が中空をなぞっていた。──悲鳴も名乗りも残らず、彼は弾けて死んだ。広間は静まり返っていた。
「……ッ!ああ!」
魔女は地団駄を踏むように怒りのままに体を揺すった。ビリビリと震える、質量を伴うような怒気が広間に充満する。魔女の激情に抱えきれなくなった魔力が漏れ出て、広間全体を圧迫しているのを感じた。真紅の瞳が憤怒に歪んで、じっとりとした視線が一人一人の顔を睨めつけた。
「……せいぜい、無謀はやめることね」
──お前たちは来る日のために鍛錬をなさい。魔女は震える声でそう言い放って、エクトルたちを追い払った。退出するとき、エクトルは魔女が飛びかかった彼だったものを──千々に爆ぜた肉片を消し去るのを見た。生臭い鉄の匂いとちかちかするほどの赤色が、瞼に焼きついて離れなかった。
恐ろしい魔女。ただの人間には到底手の届かない超常の存在。残忍で情のかけらもない魔性。魔女の手で無惨に殺された彼は、魔女に家族を奪われたという。空っぽのエクトルの中に、あの日彼が語った、彼の人生分の憎しみが積まれたような気がした。
それから魔女がエクトルたちを集めることはなかった。魔女に指定されたのは日に数時間鍛錬をすることで、魔女の手でぐちゃぐちゃに整地された庭で、それぞれが思うままに鍛錬をした。与えられた居室に引き篭もっていても、魔女は何も言わなかった。魔女は時折遠くからこちらの様子を伺っていた。
城に入って一週間が経つ頃、エクトルは魔女と再び相対した。深夜に一人、自分が均した庭に佇む魔女をエクトルが見つけたのだ。無防備な後ろ姿に、気配を消して近づけば殺せはしないだろうかと、そう思った。自分の中に燻る憎しみを、背景のない漠然とした怒りをぶつけるまたとない機会だと思った。
エクトルが一本踏み出そうとしたその瞬間、魔女の視線が青年を射抜いていた。白銀の頭髪は月明かりを受けて、青年には魔女の様相が神秘的なまでに映った。途端に、エクトルは自分の中から殺気が抜け落ちていくのを感じた。全て失って何もないはずの脳内で、何かが存在を主張している。確かな憎悪が全身を支配しているのに、少しも身体が動かない。なまぬるい何かが、脈打つように胸中を満たしていく。
「お前、名前は」
「……エクトルだ」
魔女は片目を瞑って、小さく返事をした。そしてエクトルのすぐそばを通って、居室へ消えた。翌る日から、魔女はエクトルを呼びつけるようになった。近くで見る魔女は気まぐれで、短気な少女のようだった。呼びつけては城の蔵書を探させたり、一歩も動くなとただ立たせたり、魔女は気の赴くままにエクトルを使った。ころころと変わる魔女の表情は討つべき化け物のものとまるで思えなくて、エクトルは魔女の前では努めて自分を押し殺すよう心がけた。
魔女のそばで過ごすうちに、エクトルは魔女が得体の知れない苦痛に苛まれていることを知った。魔女はそのせいか常に寝不足で、不機嫌だった。それでもその振る舞いに隙はなく、いつだって気を張りつめていた。我儘な少女のような魔性──人間性のかけらもないはずだった化け物は、間近で見るとあまりに人間らしく、エクトルに混乱をもたらした。
その日はいつにも増して魔女の機嫌が悪かった。乱雑に全身を掻きむしり、時折聞くに耐えない苦悶の声を漏らしていた。刺々しい魔力が彼女の周りを充満して、いつになくやけになっていた魔女はエクトルを雑に使った。魔女の癇癪で柱にひびが入り、食器は一式が使えなくなった。呼びつけたと思えば、出ていけと叫ぶ。狂気の裏に見え隠れする少女の姿に、エクトルは言葉にできない感情が──言葉にしてはならない、抱いてはならない感情が生まれるのを感じていた。
♦︎
その夜、朦朧とした様子の魔女はエクトルへ寝室の外にいろ、と言いつけた。憔悴しきった魔女の様子に、エクトルは今なら彼女を殺せるのではないかと思った。魔女を守る魔力には波がある。魔力に守られた普段の魔女は傷ひとつつけることすら叶わないが、今の弱った魔女なら隙をつくことが可能かもしれない。仇を取るなら、今日だと確信めいたものがあった。
激しい物音に紛れてエクトルは魔女の寝室に侵入した。そこには悶え苦しみ寝台から転がり落ちた、少女がいた。おぞましく残虐な、強者として君臨するあの魔女とは似ても似つかない、強さのかけらも感じられない少女がいた。倒れ伏した魔女は侵入者の判別さえついていないようだった。掠れた声の忠告はあまりに弱々しく、エクトルは思わず魔女の前で呆然と、間抜けな質問を溢した。魔女は何も答えず、エクトルも何も言うことができなかった。
荒い呼吸音だけが響く寝室でエクトルは何かに突き動かされるように、咄嗟に魔女を抱きすくめた。あの残忍で、残虐で、血も涙もない、我儘だけを煮詰めた災害のような女を。エクトルから全てを奪って、多くに不幸を振り撒いた魔性を。敵ばかりの孤独のなかで常に苦痛に耐え続ける少女を、青年は抱きしめていた。
得体の知れない、名前をつけてはいけない感情が胸中を渦巻いている。魔女はエクトルに身を預けて、冷え切った少女の体温が解けるようにエクトルへ移る。
──気づいてはいけない。エクトルの肩に頬を寄せて身体を預ける少女の弱さに。
──触れてはいけない。少し力を込めれば簡単に壊れてしまうだろう華奢なかたちに。
──絆されてはいけない。
そう、頭はわかっているのに。身体がいうことを聞かない。空っぽの青年にとって、それは初めての経験だった
テミスは魔女だ。
人間の形をした兵器。おぞましい呪いに満たされた肉の器。人智もこの世の法則も超えた何か。それが少女を説明する全てだった。
平和な国に突如として現れた魔女は、その力で瞬く間に王城を支配した。手始めに門兵を石に変え、重い扉を容易く砕き、そして王を殺した。血塗れの玉座から汚れた男の肉を消し去って、テミスはそこに君臨した。
テミスが何者であるか──それを知る者はどこにもいない。今や恐怖の象徴である魔女が、ただの名もなき少女であったことを憶えているのは、とうの魔女ただ一人であった。
テミスは時々、瞑目して自分の過去を──『テミス』になる前のことを思い返す。突如として奪われた平穏を、失われた自分を、身勝手に歪められた人生を、余すことなく穢された尊厳を。今の『テミス』があるのは、きっと全てに対する復讐のためだ。全身を絶え間なく駆け巡る疼痛が、身の内で激しく暴れる呪いの奔流が、いつだってテミスの正気を蝕んでいる。耐え難い苦痛に気が触れそうになるたびに、テミスは焼け焦げそうなほどの怒りがまだ自分のうちにあることを再確認する。
魔女テミスは人造兵器だ。『ある目的』のため、非人道的な手法で生み出された存在。全てを奪われた復讐のために、己を穢し貶めた者を殺しても、その怒りは絶えず彼女の脳髄を焼いている。兵器として完成されてしまったテミスにとって、死は永遠に手の届かない安息だ。決して壊れることのないようプログラムされた少女には『目的』を果たすまで死が訪れることはない。とっくの昔に憎い相手を手にかけて、成したい復讐を終わらせてしまった。いつ終わるかもわからない苦痛に身を晒して、褪せることのない怒りに命を燃やす。絶望と屈辱を薪に汚れた煙を吐き続ける、そんな壊れかけの──されど決して壊れることのない兵器が、テミスだった。
王を殺して玉座を奪い取ったその日から、テミスは全ての敵になった。たくさんの人間がテミスの命を狙っては返り討ちにあった。テミスの気分によって、刺客たちは無惨な肉片に変わったり、使命も何もかも忘れた愚か者に身をやつしたり、さまざまな結末を辿った。いつしか表立ってテミスの命を狙う者はいなくなった。そしてテミスは己に課された『目的』を遂げるため、ただただ玉座でその日を待ち続けていた。
♦︎
テミスの前にその男が現れたのは、数週間前のことだ。王もその寵臣も死に、玉座に居座る理外の化け物をどうすることもできなかった国は、短気な魔女の癇癪に触れないように、魔女の言葉に阿り始めた。王国は魔女の統べる国へとつくりかわっていた。といっても、テミスの要望を叶える代わりに命だけは助けてほしいと、無駄に大仰な命乞いを儀礼的にこなしただけだ。自身を穢した者を全て殺したテミスにとって、最早復讐すべき相手もいない。『目的』を遂げるため、ただ待ち続けるだけのテミスにとって、他者はどうでもいい存在でしかなかった。
男の名前はエクトルといった。それが偽名なのか、本名なのかはどうでもよいことだった。ただ遠く昔に失った誰かの響きと同じそれは、テミスのうちの何かをくすぐった。陰鬱な内面を鋼鉄の面持ちに隠したような、昏く深く、こちらを呑みこまんとする男の眼差しに、テミスは興味を持った。テミスの『目的』のため、暇つぶし程度に集めた人間たちの中に、エクトルは紛れていた。年はきっとテミスと変わらないくらいであろう青年は、テミスの想像のつかないような経験をしてきたのだろう。泥濘に似た絡みつくような重たい視線と、妙に完成された佇まいの不均衡が、どうしようもなくテミスを惹きつけた。
テミスはエクトルに、自分と同じ苦痛に虐げられた者の諦念と、果てることのない身を焦がす怒りを見た。ただの暇つぶしと思って、魔女は男を側に置きはじめた。
エクトルを身近に置くうちに、テミスは彼の怒りがテミスただ一人に向けられていることに気づいた。エクトルは、確かにテミスを憎んでいた。それでも傍若無人なテミスの振る舞いに、青年が感情を見せることはなかった。どんな我儘にも歯向かうことなく男は従った。ちぐはぐな男の鉄面皮を、いつか引き剥がしてやりたいとテミスは思うようになっていた。
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その日もテミスは自らの身の内を食い荒らす呪いに苛まれていた。苦痛に身を捩り、のたうち回るようにして寝台を転げ落ちる。静まり返った夜の城で、僭主は声を殺して苦悶の波が遠のく瞬間を待っていた。噛み締めたくちびるから、生臭い鉄の味が広がる。いつものようにテミスは瞑目して、己を保つための儀式をなぞろうとした。今まで受けたあらゆる苦痛を、屈辱を──その憎しみが、怒りがテミスをテミスたらしめる。脳髄がぐらぐらと沸騰しそうなくらいの憤怒が、気が狂うような苦痛の中で正気を保つ、唯一の楔だった。
気がつけば人の気配がすぐそこにあった。
例え苦痛に苛まれていようと、テミスを弑することは不可能だ。テミスに流れる『天秤の魔力』はちっぽけな人間の殺意など瞬く間に消し去ってしまう。おおかた、暫くぶりの刺客が苦しむテミスを見て好機と捉えたのだろう。人間の諦めの悪さに、テミスは辟易とするような思いを覚えた。
「……私は……ッお前じゃ、殺せないわ」
普段なら八つ当たりに殺しているはずの刺客に、テミスは声をかけていた。苦痛に息も絶え絶えになりながら、気が弱っているときには思いがけないことをするものだと、テミスは他人事のように考える自分がいるのに気づいた。
ピントの合わないぼやけた視線の先で、何者かは立ち尽くしている。汗か涙か。何かが、テミスの頬から首筋を伝うのがわかった。
「……どこか、苦しいのか」
その声が、ここ数週間で聞き慣れた男のものだと気づくまで時間はかからなかった。いつも感情を見せないはずのエクトルの声音は、随分と深刻にテミスを慮っているように聞こえた。珍しいこともあるものだと思って、テミスは少し愉快な気持ちになった。しかし思考はすぐに苦痛に塗りつぶされていた。
答えずに荒い呼吸を繰り返すテミスに、目の前の男は逡巡しているようだった。テミスを深く憎んでいるはずのエクトルが、一体何を悩むのだろうか。苦痛をこらえ荒く息をするだけで、今のテミスには精一杯だった。この男も他と同じように、テミスに刃を向けるのだろう。そして無惨に死んでいく。暇つぶしは、何ともつまらない結末を迎えるものだとテミスは自嘲した。
そのとき、突然あたたかいものがテミスを包んだ。それが人間──エクトルの体だと気づくまで少女は何が起きたのかわからず、呆然としていた。抱きすくめられるように支えられて、テミスはふと自分の体から力が抜けるのを感じた。ぬるい青年の体温は、自分の体がずいぶんと冷え切っていたことをテミスに教えた。じわじわと広がる温度に、解けるように苦痛が遠のく。壊れ物を抱くように、けれどしっかりとテミスの体を支えるエクトルの体に、テミスは思わず重心を委ねていた。
目を覚ましたとき、テミスの体は寝台に横たわっていた。あの出来事が嘘だったかのように、テミスを支えたぬくもりは忽然と消えていて、薄いシーツと寝台の感触だけがテミスを包んでいた。
──一瞬、何かを恋しく思う自分がいた。テミスはその事実を振り払うように首を振って、寝台から身を起こした。そして、その手を何か大きなものが包んでいることに気がついた。ふしくれだってごつごつとした手のひらはテミスの滑らかな指先とは何もかもが違って、けれど初めからひとつの塊だったのではないかと錯覚するくらい、ふたつの体温は溶けて混ざり合っていた。
指の先、手のひらの向こう。難しい顔をした青年が眠っていた。いつもの鉄面皮に、少しだけ眉間の皺があって、テミスはこの男はこんな顔で眠るんだ、と思った。体を蠢く不快感はいつもより控えめで、テミスは再び寝台に体を横たえた。少しだけ握った手のひらに、しっかりとしたぬくもりが応える。魔女は目を閉じて、また微睡のなかに意識を手放した。
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それからエクトルは、テミスの前でかすかな表情を見せるようになった。鉄面皮の、感情のかけらもない男がたまに見せる柔らかい何かに、テミスの心は掻き乱された。自分を憎んでいるはずの男の内心が理解できなくて、それでもエクトルの表情のその先を知りたいと思う自分が抑えきれなくて。テミスは自分がエクトルの前では『魔女』ではいられなくなっていることを感じていた。
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エクトルもまた、自分の変化に驚いていた。エクトルには過去がない。厳密に言えば、強烈な体験の末に記憶も何もかもを失ってしまったのがエクトルだ。記憶を失った青年に残ったのは焦げついて離れない憎しみと、精神をぐずぐずに打ち砕く喪失感だけだった。しかしそれもまた、自分のものではないような、どこか俯瞰したような感覚がついて回っていた。自分が何者であるのか。あの日からずっと、空虚なだけの心象風景で、一人自分を探し続けている。
紆余曲折を経て、エクトルは魔女に蹂躙された村の生き残りとして、ただ魔女を討つことだけを支えに生きてきた。何を失ったのかもわからないまま、残された憎しみを自分の存在証明にしてきた空っぽの人間。過去は遠く、残ったものはかつて受けた苦痛の残滓だけ。脱色して色を失った頭髪も、いつの間にか元の黒色を取り戻し始めている。
鏡を見るたびに、青年は自分の薄情さに苦しんだ。一人だけ生き残った自分が遂げるべきはきっと、惨劇を忘れず、復讐の炎を絶やさずにいることなのだろう。けれども青年の脳から過去は跡形もなく掻き消えて、悲しむ相手すらわからなくなってしまった。薄情な男の薄情な肉体は打ちひしがれた人間とは思えないほど健全で、今では色を失った毛先と燻る憎しみだけが、エクトルの身に起こった惨劇の証だった。
気まぐれで残忍な魔女は、皮肉なことに薄情なエクトルに挽回の機会を与えた。持て余した憎しみを晴らす機会──腕の立つ若者を城に集める、という触れ書きにエクトルは躊躇なく手を挙げた。
魔女の棲む城に入ることができる。城は魔女の魔力によって基本的に封鎖されている。その場に足を踏み入れるということは、魔女の命を奪う機会が得られるということだ。勿論その前に無惨に殺されることも大いにあり得るだろうが、それでも空っぽのエクトルには魔女に立ち向かったという事実が喉から手が出るほど欲しいものだった。
選ばれた数人の若者たちは皆、それぞれの事情を背負っていたが、誰もが魔女の命を狙っていることは共通していた。何もないエクトルと違って、魔女を弑虐するために特殊な訓練を積んだ者が大半を占めていた。城に入る前に、一人一人自分の話をした。途中で死んでも、誰かがその思いを、人生を継いでいけるように。寄せ集めの彼らは、あのとき確かに仲間になった。
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初めて魔女と対面した日のことをエクトルは鮮明に覚えている。
魔女はまだ少女と呼ぶべき齢の娘だった。小柄な肉体のどこにも狂気は感じられないのに、魔女の発する空気は広間を圧迫し、そこは完璧なまでに魔女の場と化していた。泰然と玉座に腰掛けていた魔女に、一人が飛びかかった。仇を前に怒りのままに飛び出した青年の振るう刃が女の胸を貫く寸前、その動きはぴたりと止まった。
「お前」
女の低い、怒りに満ちた呟きが広間に響く。底冷えするような殺気と渦巻くような怒気が、魔女の小さな体から発されているのを感じた。
「お前。自分が何をしているかわかっているの」
「……ッ黙れ魔女!お前のせいで、お前のせいでッ」
彼が全てを口にするより先に、魔女の指先が中空をなぞっていた。──悲鳴も名乗りも残らず、彼は弾けて死んだ。広間は静まり返っていた。
「……ッ!ああ!」
魔女は地団駄を踏むように怒りのままに体を揺すった。ビリビリと震える、質量を伴うような怒気が広間に充満する。魔女の激情に抱えきれなくなった魔力が漏れ出て、広間全体を圧迫しているのを感じた。真紅の瞳が憤怒に歪んで、じっとりとした視線が一人一人の顔を睨めつけた。
「……せいぜい、無謀はやめることね」
──お前たちは来る日のために鍛錬をなさい。魔女は震える声でそう言い放って、エクトルたちを追い払った。退出するとき、エクトルは魔女が飛びかかった彼だったものを──千々に爆ぜた肉片を消し去るのを見た。生臭い鉄の匂いとちかちかするほどの赤色が、瞼に焼きついて離れなかった。
恐ろしい魔女。ただの人間には到底手の届かない超常の存在。残忍で情のかけらもない魔性。魔女の手で無惨に殺された彼は、魔女に家族を奪われたという。空っぽのエクトルの中に、あの日彼が語った、彼の人生分の憎しみが積まれたような気がした。
それから魔女がエクトルたちを集めることはなかった。魔女に指定されたのは日に数時間鍛錬をすることで、魔女の手でぐちゃぐちゃに整地された庭で、それぞれが思うままに鍛錬をした。与えられた居室に引き篭もっていても、魔女は何も言わなかった。魔女は時折遠くからこちらの様子を伺っていた。
城に入って一週間が経つ頃、エクトルは魔女と再び相対した。深夜に一人、自分が均した庭に佇む魔女をエクトルが見つけたのだ。無防備な後ろ姿に、気配を消して近づけば殺せはしないだろうかと、そう思った。自分の中に燻る憎しみを、背景のない漠然とした怒りをぶつけるまたとない機会だと思った。
エクトルが一本踏み出そうとしたその瞬間、魔女の視線が青年を射抜いていた。白銀の頭髪は月明かりを受けて、青年には魔女の様相が神秘的なまでに映った。途端に、エクトルは自分の中から殺気が抜け落ちていくのを感じた。全て失って何もないはずの脳内で、何かが存在を主張している。確かな憎悪が全身を支配しているのに、少しも身体が動かない。なまぬるい何かが、脈打つように胸中を満たしていく。
「お前、名前は」
「……エクトルだ」
魔女は片目を瞑って、小さく返事をした。そしてエクトルのすぐそばを通って、居室へ消えた。翌る日から、魔女はエクトルを呼びつけるようになった。近くで見る魔女は気まぐれで、短気な少女のようだった。呼びつけては城の蔵書を探させたり、一歩も動くなとただ立たせたり、魔女は気の赴くままにエクトルを使った。ころころと変わる魔女の表情は討つべき化け物のものとまるで思えなくて、エクトルは魔女の前では努めて自分を押し殺すよう心がけた。
魔女のそばで過ごすうちに、エクトルは魔女が得体の知れない苦痛に苛まれていることを知った。魔女はそのせいか常に寝不足で、不機嫌だった。それでもその振る舞いに隙はなく、いつだって気を張りつめていた。我儘な少女のような魔性──人間性のかけらもないはずだった化け物は、間近で見るとあまりに人間らしく、エクトルに混乱をもたらした。
その日はいつにも増して魔女の機嫌が悪かった。乱雑に全身を掻きむしり、時折聞くに耐えない苦悶の声を漏らしていた。刺々しい魔力が彼女の周りを充満して、いつになくやけになっていた魔女はエクトルを雑に使った。魔女の癇癪で柱にひびが入り、食器は一式が使えなくなった。呼びつけたと思えば、出ていけと叫ぶ。狂気の裏に見え隠れする少女の姿に、エクトルは言葉にできない感情が──言葉にしてはならない、抱いてはならない感情が生まれるのを感じていた。
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その夜、朦朧とした様子の魔女はエクトルへ寝室の外にいろ、と言いつけた。憔悴しきった魔女の様子に、エクトルは今なら彼女を殺せるのではないかと思った。魔女を守る魔力には波がある。魔力に守られた普段の魔女は傷ひとつつけることすら叶わないが、今の弱った魔女なら隙をつくことが可能かもしれない。仇を取るなら、今日だと確信めいたものがあった。
激しい物音に紛れてエクトルは魔女の寝室に侵入した。そこには悶え苦しみ寝台から転がり落ちた、少女がいた。おぞましく残虐な、強者として君臨するあの魔女とは似ても似つかない、強さのかけらも感じられない少女がいた。倒れ伏した魔女は侵入者の判別さえついていないようだった。掠れた声の忠告はあまりに弱々しく、エクトルは思わず魔女の前で呆然と、間抜けな質問を溢した。魔女は何も答えず、エクトルも何も言うことができなかった。
荒い呼吸音だけが響く寝室でエクトルは何かに突き動かされるように、咄嗟に魔女を抱きすくめた。あの残忍で、残虐で、血も涙もない、我儘だけを煮詰めた災害のような女を。エクトルから全てを奪って、多くに不幸を振り撒いた魔性を。敵ばかりの孤独のなかで常に苦痛に耐え続ける少女を、青年は抱きしめていた。
得体の知れない、名前をつけてはいけない感情が胸中を渦巻いている。魔女はエクトルに身を預けて、冷え切った少女の体温が解けるようにエクトルへ移る。
──気づいてはいけない。エクトルの肩に頬を寄せて身体を預ける少女の弱さに。
──触れてはいけない。少し力を込めれば簡単に壊れてしまうだろう華奢なかたちに。
──絆されてはいけない。
そう、頭はわかっているのに。身体がいうことを聞かない。空っぽの青年にとって、それは初めての経験だった
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