白玉の露
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火鉢のあたたかさが恋しくなる晩秋の頃。さくらの室ではいつもの姫達が舞扇を片手に、舞の稽古に勤しんでいた。五人の姫達が帝の御前で奉じる舞のためだ。五節の舞と呼ばれ、豊明節会で行われる舞踊だ。公卿や殿上人などの娘達から選ばれる。帝のおぼえめでたく、ひいては寵愛を受ける絶好の機会であると、位のある親たちは娘を選出させようと躍起だ。しかし、時の帝の右腕である右大臣にとって、次期中宮である娘とその友人達を選出することなど、簡単なことであった。本来であればさくらほどの身分の娘が公達たちの衆目に触れるなど、と一部の仕える者たちはさくらの身を案じたが、全ては大殿のご意向だ。逆らえるものなど誰もいない。しかも、元がお転婆なさくらのことだ。今まで経験したことのない舞、そして宮中行事とあっては俄然乗り気であった。身内の小さな宴がさくらにとって経験のあるものだった。それが帝直々に舞をご覧になる、最も大きな行事だ。右大臣にとって、その反応も織り込み済みで五人の姫達の参加が決められたのだろう。
一通り、稽古が終わると姫達は腰を下ろし、侍女たちの用意したお菓子に手を伸ばした。花枝子とトメは長い稽古に疲れの色を滲ませている。ようやく腰掛けられる、と言った様子で長く息を吐くと、侍女たちから椀を受け取り、喉の渇きを癒している。対してさくら、お銀は息を整える様子は見られながらも、目を輝かせている。カノに至ってはいつも通りの済ました様子でいながら、花枝子とトメにこの果物は疲れが和らぎます、など助言をしている。初めて会った時からあまり感情を表に出さないカノであるが、一度身内と思った相手には心を砕くようだ。さくらは皆の様子を確かめながら、落ち着いたら白湯があるといいだろうと侍女たちに目配せをして指示を出しておく。
皆の息が整い、ゆったりと菓子をつまむ和やかな雰囲気に変わっていく。それを見計らったように、白猫が室へやってきた。皆に順に挨拶をして、最後にさくらの元にやって来て、膝の上に落ち着いた。膝に感じるあたたかさと、小鞠の艶のある毛並みを撫でると、さくらは自然と口元が緩んだ。
「小鞠、お前も休みに来たの?」
さくらの問いに答えるように小鞠は甘えた声を出した。それを見ている室の面々も笑みを浮かべている。花枝子は小鞠を見つめながら、
「小鞠様は癒しですわね。疲れたところでこうして甘えてくださるのが可愛らしいですわ。」
それにお銀が頷く。
「足元をすり抜けていく様も労ってくださっているようですわよね。本当に可愛らしいわ。」
とお銀は愛おしそうに見つめた。それにカノが問いかける。
「それほどお好きでしたらお銀様のご邸宅でも飼われてみては?」
「そうよ、いつも私の室で一番、小鞠を可愛がっていらっしゃいますものね。」
さくらもそれに続く。しかし、お銀は残念そうに首を横に振った。
「我が家は代々、武門の家系。狩のために鷹や犬を飼っているのです。そこに、こんな愛らしく柔らかい子が来たら……」
言葉の先を想像して姫たちはサッと顔を青くした。そこで花枝子が慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば五節の舞は本番前に帝にご披露するのですよね。トメ様のお父上は帝とお会いしたことがあるとか。」
「ええ、父とは勅撰和歌集のご相談もあって、歌の事ばかり…熱心なご様子だったと。あ、それに…」
トメは思い出したように話を続けた。
「たまに東宮様もお話に入っていらしたと。東宮様が父に色々とお聞きくださる時の帝のお顔が、なんともお優しいそうで…たいそう可愛がっていらっしゃるご様子だと聞きましたわ。」
そこまで聞くと、さくらは口を開いた。
「帝と仲のよろしいことですのね。もしかして、帝のご披露に東宮様もいらっしゃるのかしら…。」
それに花枝子とお銀が目を輝かせた。
「未来の妃がいらっしゃるんですもの…!」
「もしかしなくても、ですわ…!」
さくらは二人の息巻いた様子と、自身の言葉のあけすけな有様に顔を赤らめた。それを扇で隠してしまうと、他の姫君たちは内心(あらあら…)と口元を緩めてさくらの様子を見守った。
そして五節の舞、当日。
朝から姫やお付きの者たちは支度に終われ、ようやく昼には宮中へ参内がかなった。広い謁見の間には楽士たちが傍に控えている。そこへさくらを含めた姫君五人が帝へのお目どおりのため頭を下げ、その時を待っている。普段、扇のように広がる濡羽色の髪を緩く結い上げ、頭には金色の宝冠が輝いている。豪華な装束も相まって、五人の天女が舞い降りたかのようだった。御簾の向こうで布擦れの音がすると、最も高い位置に帝が腰を下ろした。そして、帝が従者に合図を送ると、それと共に楽士たちがそれぞれに楽器を構えた。さくらたちは立ち上がると、位置につき、楽の音と共に舞を始めた。始まってしまえば、練習通りに動くだけだ。皆、落ち着いた様子で舞っている。共に踊る姫たちとの息遣い、布の飜る様、それらに目を向けていれば、最後まで滞りなく舞い終えることができた。そして、再びさくらを筆頭に首を垂れて、帝からのお言葉を待った。御簾越しに帝から声がかかる。
「素晴らしき舞であった。篤志郎が娘、さくらであったな。そちが勇作の伴侶となり、再び参内するのを楽しみにしている。」
低く、重厚感のある声だ。一瞬、厳しい口調に感じられるが、御簾越しに口元がわずかに上がっているのが見える。さくらは顔を上げた。
「勿体なきお言葉にございます。未来のお父上にお会いできたこと、大変嬉しく思いまする。」
「可愛らしい姫君である、のう、勇作。」
帝は体を後へ向けると、その奥にはもう一人の影があることが分かった。
「ええ、父上。私も未来の妃の美しい舞を拝見でき、嬉しく思います。」
凛とした、そして優しげな声がかかった。まさか、というように姫たちが目を見開いた。帝は悪びれもせず、しかし言葉では申し訳なさそうに言葉を続けた。
「…実はのぅ…お主たちが驚くと思い、言わなんだが、東宮もこちらで舞を見せてもらった。」
驚きで言葉を失う姫達であったが、唯一さくらだけは余裕そうな笑みを浮かべて受け答えを続けた。内心では、心臓が飛び出るほどの驚きではあったが、ここで自身まで怖気付いていてはいけない。鶴見家の娘であり、未来の中宮がこれしきのことで狼狽えていては、ここにいる者たち皆に、なんと噂されるか。一瞬で算盤を弾き出すと、さくらは帝と東宮…勇作の方へ順に視線を向けた。
「…そうでございましたか。東宮様がいらっしゃると知っていましたら、きっと無事に舞を終えることができなかったでしょう。ご配慮、感謝いたしまする。そして東宮様、こうしてお声がけいただけたこと、私たち今年の五節の舞の舞手たち最大の誉れですわ。」
そう返すと、勇作は帝とは違い、本当に申し訳なさそうに言葉を返した。まだまだ若い皇子だ。今上天皇のような図太さはないらしい。
「姫達には宴の前にいらぬ心配をかけさせてしまった。…これを、せめてもの詫びと、そして、この宮中で一番に素晴らしい舞を見せてくれた礼に受け取ってはくれぬだろうか。」
勇作の言葉で女官達が高杯に乗せた色とりどりの布を五人の前に差し出した。どれも上等な生地に染料の鮮やかさが映えている、一級品だ。予想外の褒美にどの姫君も先ほどまで青くなっていた顔に喜色を浮かべている。さくらの目の前にも同様に一級品の布が置かれ、その一番上には真っ赤な紐に鈴のついた首輪が乗せられていた。ちょうど白毛の小鞠に似合いそうだ。その首輪を持ち上げると、勇作は少し恥ずかしそうに言った。
「右大臣家でも猫を飼われたと聞いた。私の愛猫も同じ首輪をつけているのだ。…もし、姫が気に入ったなら、それを小鞠も付けて参内してくれるならば、嬉しいのだが…。」
揃いの首輪を準備して、今日を待っていてくれたのか。さくらは勇作の意地らしい様に、愛想笑いではなく、自然な笑顔を向けた。最初の美しいながらも隙のなかった表情とは違い、あたたかさのある表情が勇作の眼前に広がる。
「ええ…小鞠もきっと喜びますわ。東宮様、素敵な贈り物をありがとうございます。」
一瞬言葉を失うも、東宮という手前、人前での返答に窮することもなく、答えることができた。
「あ、ああ…喜んでくれたならよかった。」
これが、一介の貴族の男であったなら。きっと、言葉も出せずに赤くなっては固まっていたに違いない。若人のやり取りを横目で見ながら、帝や控えていた姫達も生暖かな視線を送っているのだった。
そして、その晩。
宴と五節の舞の本当の披露が行われ、それは盛大な宴であった都の夜。それとは対照的に、伊勢の夜は、ひっそりと過ぎていった。
皇族の女性から選ばれた斎王は、伊勢で帝の代わりに潔斎の日々を送る。それをお守りするため、杢太郎は右大臣の命によって単身伊勢へと向かったのだった。年若い杢太郎が斎宮寮の中核を担えるわけもなく、右大臣もそこまで手を回すわけもなく、自身より身分の低い者達を伴って、昼夜の警備に勤しんでいた。そして、わずかばかり仮眠の時間が取れれば泥のように眠った。暇になれば、さくらのことを思い出しては仕事にならないからだ。
腹違いの弟達は、父の言いつけを 『よく聞く』のだ。例えそれがさくらに酷なことであろうと、「さくら、お前のためだ」と甘い顔をして、どんどん絡め取っていく。そういう性質が鶴見の男達の中に根付いている。入内が近付けば、どうなるのか。まだ会った事もない、好きでもない男に嫁がされるのか。さくらの胸の内を思うと、居ても立ってもいられなくなった。
今宵は五節の舞だ。京においてきた夏太郎の知らせで、さくらが五節の舞に選ばれたのだと知った。宮中の男どもの汚い視線が美しい妹をとらえる。想像しただけではらわたが煮えくり返る。その場にいられたなら、その男どもの目をひとつ残らず……。
危険な思考の中に沈みそうなのを頭を振って、考えを打ち消した。そして、気を取り直して今日あった出来事を手紙にしたためていく。伊勢の五十鈴川が大変美しいこと。紅葉した赤い葉や黄色い葉が流れゆく様は打ち掛けを彩る染め模様のようでさくらにも見せてやりたいこと。自然の好きな妹のことだ。川の煌めきを瞳に映し、きらきらとした笑顔を向けてくれるに違いない。
一通り書き終えると、杢太郎は文箱を開いた。中には溢れそうになった文の山があった。さくらに届けられず溜まっていく文を、ひとつ上に重ねて蓋を閉じた。あれだけ慕ってくれていたのに、文のひとつさえ来ない。夏太郎に手紙で問うてみれば、「お会いした時に話す」と言って聞かないのだと書いてあった。都にいたときは返歌をしないのに何度も送ってきていたものだが。…一体、どんな心変わりがあったのか。
「さくら……」
杢太郎は愛おしい人の名をつぶやいた。
一通り、稽古が終わると姫達は腰を下ろし、侍女たちの用意したお菓子に手を伸ばした。花枝子とトメは長い稽古に疲れの色を滲ませている。ようやく腰掛けられる、と言った様子で長く息を吐くと、侍女たちから椀を受け取り、喉の渇きを癒している。対してさくら、お銀は息を整える様子は見られながらも、目を輝かせている。カノに至ってはいつも通りの済ました様子でいながら、花枝子とトメにこの果物は疲れが和らぎます、など助言をしている。初めて会った時からあまり感情を表に出さないカノであるが、一度身内と思った相手には心を砕くようだ。さくらは皆の様子を確かめながら、落ち着いたら白湯があるといいだろうと侍女たちに目配せをして指示を出しておく。
皆の息が整い、ゆったりと菓子をつまむ和やかな雰囲気に変わっていく。それを見計らったように、白猫が室へやってきた。皆に順に挨拶をして、最後にさくらの元にやって来て、膝の上に落ち着いた。膝に感じるあたたかさと、小鞠の艶のある毛並みを撫でると、さくらは自然と口元が緩んだ。
「小鞠、お前も休みに来たの?」
さくらの問いに答えるように小鞠は甘えた声を出した。それを見ている室の面々も笑みを浮かべている。花枝子は小鞠を見つめながら、
「小鞠様は癒しですわね。疲れたところでこうして甘えてくださるのが可愛らしいですわ。」
それにお銀が頷く。
「足元をすり抜けていく様も労ってくださっているようですわよね。本当に可愛らしいわ。」
とお銀は愛おしそうに見つめた。それにカノが問いかける。
「それほどお好きでしたらお銀様のご邸宅でも飼われてみては?」
「そうよ、いつも私の室で一番、小鞠を可愛がっていらっしゃいますものね。」
さくらもそれに続く。しかし、お銀は残念そうに首を横に振った。
「我が家は代々、武門の家系。狩のために鷹や犬を飼っているのです。そこに、こんな愛らしく柔らかい子が来たら……」
言葉の先を想像して姫たちはサッと顔を青くした。そこで花枝子が慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば五節の舞は本番前に帝にご披露するのですよね。トメ様のお父上は帝とお会いしたことがあるとか。」
「ええ、父とは勅撰和歌集のご相談もあって、歌の事ばかり…熱心なご様子だったと。あ、それに…」
トメは思い出したように話を続けた。
「たまに東宮様もお話に入っていらしたと。東宮様が父に色々とお聞きくださる時の帝のお顔が、なんともお優しいそうで…たいそう可愛がっていらっしゃるご様子だと聞きましたわ。」
そこまで聞くと、さくらは口を開いた。
「帝と仲のよろしいことですのね。もしかして、帝のご披露に東宮様もいらっしゃるのかしら…。」
それに花枝子とお銀が目を輝かせた。
「未来の妃がいらっしゃるんですもの…!」
「もしかしなくても、ですわ…!」
さくらは二人の息巻いた様子と、自身の言葉のあけすけな有様に顔を赤らめた。それを扇で隠してしまうと、他の姫君たちは内心(あらあら…)と口元を緩めてさくらの様子を見守った。
そして五節の舞、当日。
朝から姫やお付きの者たちは支度に終われ、ようやく昼には宮中へ参内がかなった。広い謁見の間には楽士たちが傍に控えている。そこへさくらを含めた姫君五人が帝へのお目どおりのため頭を下げ、その時を待っている。普段、扇のように広がる濡羽色の髪を緩く結い上げ、頭には金色の宝冠が輝いている。豪華な装束も相まって、五人の天女が舞い降りたかのようだった。御簾の向こうで布擦れの音がすると、最も高い位置に帝が腰を下ろした。そして、帝が従者に合図を送ると、それと共に楽士たちがそれぞれに楽器を構えた。さくらたちは立ち上がると、位置につき、楽の音と共に舞を始めた。始まってしまえば、練習通りに動くだけだ。皆、落ち着いた様子で舞っている。共に踊る姫たちとの息遣い、布の飜る様、それらに目を向けていれば、最後まで滞りなく舞い終えることができた。そして、再びさくらを筆頭に首を垂れて、帝からのお言葉を待った。御簾越しに帝から声がかかる。
「素晴らしき舞であった。篤志郎が娘、さくらであったな。そちが勇作の伴侶となり、再び参内するのを楽しみにしている。」
低く、重厚感のある声だ。一瞬、厳しい口調に感じられるが、御簾越しに口元がわずかに上がっているのが見える。さくらは顔を上げた。
「勿体なきお言葉にございます。未来のお父上にお会いできたこと、大変嬉しく思いまする。」
「可愛らしい姫君である、のう、勇作。」
帝は体を後へ向けると、その奥にはもう一人の影があることが分かった。
「ええ、父上。私も未来の妃の美しい舞を拝見でき、嬉しく思います。」
凛とした、そして優しげな声がかかった。まさか、というように姫たちが目を見開いた。帝は悪びれもせず、しかし言葉では申し訳なさそうに言葉を続けた。
「…実はのぅ…お主たちが驚くと思い、言わなんだが、東宮もこちらで舞を見せてもらった。」
驚きで言葉を失う姫達であったが、唯一さくらだけは余裕そうな笑みを浮かべて受け答えを続けた。内心では、心臓が飛び出るほどの驚きではあったが、ここで自身まで怖気付いていてはいけない。鶴見家の娘であり、未来の中宮がこれしきのことで狼狽えていては、ここにいる者たち皆に、なんと噂されるか。一瞬で算盤を弾き出すと、さくらは帝と東宮…勇作の方へ順に視線を向けた。
「…そうでございましたか。東宮様がいらっしゃると知っていましたら、きっと無事に舞を終えることができなかったでしょう。ご配慮、感謝いたしまする。そして東宮様、こうしてお声がけいただけたこと、私たち今年の五節の舞の舞手たち最大の誉れですわ。」
そう返すと、勇作は帝とは違い、本当に申し訳なさそうに言葉を返した。まだまだ若い皇子だ。今上天皇のような図太さはないらしい。
「姫達には宴の前にいらぬ心配をかけさせてしまった。…これを、せめてもの詫びと、そして、この宮中で一番に素晴らしい舞を見せてくれた礼に受け取ってはくれぬだろうか。」
勇作の言葉で女官達が高杯に乗せた色とりどりの布を五人の前に差し出した。どれも上等な生地に染料の鮮やかさが映えている、一級品だ。予想外の褒美にどの姫君も先ほどまで青くなっていた顔に喜色を浮かべている。さくらの目の前にも同様に一級品の布が置かれ、その一番上には真っ赤な紐に鈴のついた首輪が乗せられていた。ちょうど白毛の小鞠に似合いそうだ。その首輪を持ち上げると、勇作は少し恥ずかしそうに言った。
「右大臣家でも猫を飼われたと聞いた。私の愛猫も同じ首輪をつけているのだ。…もし、姫が気に入ったなら、それを小鞠も付けて参内してくれるならば、嬉しいのだが…。」
揃いの首輪を準備して、今日を待っていてくれたのか。さくらは勇作の意地らしい様に、愛想笑いではなく、自然な笑顔を向けた。最初の美しいながらも隙のなかった表情とは違い、あたたかさのある表情が勇作の眼前に広がる。
「ええ…小鞠もきっと喜びますわ。東宮様、素敵な贈り物をありがとうございます。」
一瞬言葉を失うも、東宮という手前、人前での返答に窮することもなく、答えることができた。
「あ、ああ…喜んでくれたならよかった。」
これが、一介の貴族の男であったなら。きっと、言葉も出せずに赤くなっては固まっていたに違いない。若人のやり取りを横目で見ながら、帝や控えていた姫達も生暖かな視線を送っているのだった。
そして、その晩。
宴と五節の舞の本当の披露が行われ、それは盛大な宴であった都の夜。それとは対照的に、伊勢の夜は、ひっそりと過ぎていった。
皇族の女性から選ばれた斎王は、伊勢で帝の代わりに潔斎の日々を送る。それをお守りするため、杢太郎は右大臣の命によって単身伊勢へと向かったのだった。年若い杢太郎が斎宮寮の中核を担えるわけもなく、右大臣もそこまで手を回すわけもなく、自身より身分の低い者達を伴って、昼夜の警備に勤しんでいた。そして、わずかばかり仮眠の時間が取れれば泥のように眠った。暇になれば、さくらのことを思い出しては仕事にならないからだ。
腹違いの弟達は、父の言いつけを 『よく聞く』のだ。例えそれがさくらに酷なことであろうと、「さくら、お前のためだ」と甘い顔をして、どんどん絡め取っていく。そういう性質が鶴見の男達の中に根付いている。入内が近付けば、どうなるのか。まだ会った事もない、好きでもない男に嫁がされるのか。さくらの胸の内を思うと、居ても立ってもいられなくなった。
今宵は五節の舞だ。京においてきた夏太郎の知らせで、さくらが五節の舞に選ばれたのだと知った。宮中の男どもの汚い視線が美しい妹をとらえる。想像しただけではらわたが煮えくり返る。その場にいられたなら、その男どもの目をひとつ残らず……。
危険な思考の中に沈みそうなのを頭を振って、考えを打ち消した。そして、気を取り直して今日あった出来事を手紙にしたためていく。伊勢の五十鈴川が大変美しいこと。紅葉した赤い葉や黄色い葉が流れゆく様は打ち掛けを彩る染め模様のようでさくらにも見せてやりたいこと。自然の好きな妹のことだ。川の煌めきを瞳に映し、きらきらとした笑顔を向けてくれるに違いない。
一通り書き終えると、杢太郎は文箱を開いた。中には溢れそうになった文の山があった。さくらに届けられず溜まっていく文を、ひとつ上に重ねて蓋を閉じた。あれだけ慕ってくれていたのに、文のひとつさえ来ない。夏太郎に手紙で問うてみれば、「お会いした時に話す」と言って聞かないのだと書いてあった。都にいたときは返歌をしないのに何度も送ってきていたものだが。…一体、どんな心変わりがあったのか。
「さくら……」
杢太郎は愛おしい人の名をつぶやいた。