白玉の露
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季節は巡り、藤の花が咲き誇る初夏を経て、暑さ厳しい夏を乗り越えると、夕暮れの風が肌寒く感じる季節となった。
鶴見家の立派な庭は赤く色づいたもみじが秋を告げている。池の水面に真っ赤な葉が浮かび、黄金色に輝く陽の光が波紋に合わせてきらきらと輝いている。釣殿でその様子を眺める公達が二人。一人は欄干に腰を置き、盃を傾けている。三島殿と慕われる左大臣が子の剣之助だ。精悍な顔つきの中に人懐こい甘さを含んだ容貌。百之助も同じく整った顔立ちであるが、どこか影のある色気を放つのと対照的に、剣之助はひなたの似合う男であった。
元服の儀を境に交流を深めるようになったが、学問も弓も、果ては宮中での女の扱いさえ、そつなくこなす。百之助の得意な弓だけは僅差で上だと自負しているが……。元中宮の血縁ということで左大臣含め、皆から持ち上げられていたと思っていた。しかし、その考えが間違っていたことに百之助は早々に気付かされた。目の前の男を苦々しく思いながら、杯を満たした白濁した酒を喉に流し込んだ。
「やはり、この庭は美しい。」
剣之助は陽の光を溜め込んだような瞳を庭に向け、ほうっと息をついた。
「お前の家も似たようなものだろう。」
左大臣家も右大臣家も似たようなものだ。絶大なる富を築いた家、というのは総じて似たような庭園を作っている。風流などと時の流行りに乗っていれば、みな同じような趣向になる。鼻で笑う百之助に剣之助は首を横に振った。
「百之助は見慣れているのかもしれないが、右大臣様の庭づくりは素晴らしいよ。水の流れ、岩や水草の配置、自然界と人の世を溶け込ませる妙よ。計算し尽くしたことを、そうと思わせぬ……素晴らしい。」
「剣之助殿は灌漑にもご興味があるようで…。素晴らしい為政者となりますでしょうな。」
多分に嫌味を込めて言ったつもりが、本人には効いていないようで、恥ずかしそうに首元をかいている。
「山に分け入っては草花にかまけているだけさ。兄達には分からん趣味だと首を傾げられるんだが……右大臣様とは話が合いそうな気がするよ。」
剣之助の言葉に百之助は小さく笑った。
あの父と気が合うだって?
一番近くで共に過ごしてきた息子でさえ、父親の本性が分からぬというのに。
百之助の嘲笑をどう捉えたのか、剣之助はその表情をみとめるとそばへ寄って来た。そして慰めるように肩を叩いて言葉をつげた。
「そう嫉妬してくれるな。父君は嫡男の君に盛大な元服の儀を執り行ったくらい子煩悩だし、俺は君の一番の友人さ。」
どうにも的外れな回答に、百之助は毒気を抜かれたように呆けた表情になった。聡明でありながら、どこか抜けている。そういうのが人を惹きつけるのかもしれない。
にゃあ
二人の間にどこからともなく白猫が現れた。
艶やかな毛並みの猫は剣之助の狩衣の裾にじゃれつくように遊び始めた。剣之助は顔を綻ばせて、猫を眺めた。
「可愛らしい子だ。飼い始めたのか?」
剣之助が頭を撫で始めると、すり寄るように頭を擦り付ける。まるで媚びるような仕草に、これの飼い主と思われるのは……と、百之助は眉間に皺を寄せた。
「妹の、だ。」
強調するように言うと、剣之助は納得したとばかりに深くうなづいた。
「百之助が、このような甘い香を漂わせることはないな。」
いつの間にか剣之助の腕で落ち着き始めた白猫。その首元に鼻を寄せて香りを確認するのに、白猫はさらに自身の体を擦り付けた。
「人懐っこい子だ。…お前の主人が心配しているぞ。」
剣之助の言葉に答えるように猫が「にゃあ」と短く鳴いた。しかし、その腕の中から動く気はないようだ。
「姫君も心配しているだろうに…。お届けに参ろうか。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて剣之助が提案するも、百之助は一瞬で「だめだ」と短く否定した。
「入内前の身だから、と俺を警戒しているのか?」
百之助は是とも否とも言わず、再び盃を傾け始める。
「俺が後から返しておく。そこらへんに転がしておけ。」
「そういうと思ったよ。だが、転がしておいたら、すぐそこは大きな池だ。酷いことになったら俺も寝覚が悪い。」
さっと、剣之助は立ち上がった。百之助が、あ、と思った時には釣殿を出て、さくらの住まう対屋へと足を進め始めていた。
ずんずん進んでいく剣之助の足が思ったより速く、百之助は絶妙に追いつけぬまま、「おい」だとか「待て」と言うが、暖簾に腕押しである。全く聞く耳も持たず、涼しい顔で闊歩していく。どちらがこの家の主人であるか分かったものではない。そして、屋敷の奥に続く渡殿まで来ると、さくらの侍女が通りを塞ぐように控えている。そこで人好きのする笑みを浮かべて剣之助が声をかけた。
「姫君の愛猫がこちらへ迷い込んでしまったようだ。大切にされているとお見受けする。姫君にお返ししたいのだが。」
剣之助の美貌に見惚れていた侍女だったが、思い出したように厳しい表情となった。
「私から姫様に事情をお伝えして、猫様はお返しいたしますわ。」
しかし、剣之助は侍女ににじり寄った。さらに端正な顔が近づくと、侍女は頬を赤らめた。
「この可愛らしい子が安全に主人の元にかえるか、私も見届けたいのだ。姫君に取り次いでくれないだろうか、ほら兄も一緒だと。」
息を切らしながら、ようやく追いついた百之助をだしに、説得を試みると侍女は渋々と言ったように奥へと引っ込んでいった。事情の掴めない百之助は断りの話をしていたのだろうと思っていたが、再び戻ってきた侍女が、
「お二方、こちらへ。」
と招き始めたので、ようやく事態を飲み込めた。
「おい、いい加減に」
百之助がそう言いながら剣之助の肩を掴もうとすると、すんでのところで躱され、「さあ、行こうか。」と剣之助は輝く笑顔を向けるのだった。
室の前に通されると、御簾ごしに色とりどりの打ち掛けが波打ち、年頃の姫達が扇で顔を隠し、こちらを伺うように涼やかな瞳を向けている。その最奥にここの主人であろう女が控えている。
「貴方様が小鞠を助けてくださったのね。」
御簾越しに通る鈴のような声。『小鞠』と呼ばれたのが腕の中でおとなしくしている白猫だろうと、剣之助はその言葉に昰と頷いた。
「とても人懐っこい子で、私は一瞬で小鞠様の虜となってしまいました。失礼を承知で、小鞠様をしかとお届けしたいと我儘を申しました。」
深く頭を下げると御簾の奥で「ふふ」と笑い合う姫達の声が聞こえた。
「小鞠は私達だけでなく、左大臣家の若君まで虜にしてしまったのですね。ただ、脱走ばかりのお転婆な子なのが悩みの種なのです。今回はお優しい方に見つけていただいて良かったですわ。」
さくらの言葉に百之助は、ふっと笑いながら言葉を返した。
「幼い頃の自分を見ているようで、肝が冷えますなぁ」
「もう、兄様ったら!」
「今は姫らしく成長して兄は嬉しいよ。…ご友人の皆様、さくらをどうかよろしく頼みます。」
百之助がわずかに頭を下げると、それに合わせて御簾越しの女達もこうべを垂れた。
そして、百之助は用が済んだ、とばかりに剣之助を促して室を後にした。剣之助は後髪がひかれる思いであったが、これ以上は百之助の機嫌を損ねてしまう。大人しく渡殿へ足を向けた。
「姫君は梅の香がお好きなのか?」
前をゆく百之助に剣之助が声をかけた。それに百之助は訝しそうな顔で振り返った。
「なんのことだ?」
「あの『小鞠』も室からも、わずかに梅の香がしたんだが…」
貴族であれば、季節によって香の調合をして身に纏うものだ。秋であれば、相応しい花々がいくつもあるのに、あえて梅の香を纏うとは。自身の香りとしてお使いになっているのだろうか。
宮中でも、この香りは誰某だ、と分かるように、一人一人の調合の仕方には個人差がある。そこで必ず使う香りに季節のものを足して、風雅を競っているのだ。姫君は、あえて春の花を自身の香りとしている。何か訳があるのだろうか、と思ってみたものの、兄の方はそのようなことに全く関心がないらしい。
「…いや、なんでもない。今日はお暇するよ。」
いつもの笑顔を乗せて、剣之助は右大臣邸を後にした。
さくらの室では客人の見送りや、夕餉時ということで侍女達が忙しく動いている。その喧騒の中、隅の欄干にもたれるようにさくらは脱力していた。小言の多いあさひが見れば「姫様!」と声がかかるが、そのような余裕はないらしい。
欄干の下から男が声をかける。
「姫様、いくら俺だからって力抜きすぎですよ。」
夏太郎が眉を顰めた。
「いいのよ、この方が誰かと話しているなんて思われないから。」
梅の花が散る頃、杢太郎ではなく、夏太郎が一人忍んでやってきた。あの時の下男だとさくらは一目で気がついた。少し警戒しながらも用を尋ねれば、懐から包みを取り出した。
『若様からです』
手渡されたのは香であった。開けば鼻をつく匂い。
『何、これは…』
さくらが顔を顰めると夏太郎は慌てたように説明を始めた。
『若様から香を届けるように、と仰せつかりましたんで。その…、次は春の花でも「菜の花」がいいだろうと、その』
『これ、杢太郎お兄様が選んだもの?』
さくらの視線が鋭くなる。やはり、鶴見家の娘なだけある。美人のなじるような視線は美しくもあり、同時に鋭い剣のように鋭利だ。夏太郎は、まだ肌寒い中、額に汗を流した。
『…申し訳ありません、俺…私が若様の代わりに』
そこまで言うと、さくらは包みを投げ返した。
『なぜ、お前がお兄様の代わりを…!無礼な!』
さくらが声を荒げると、夏太郎は怯えたように地面に頭を擦り付け、謝罪の言葉を口にした。
『申し訳ありません…!私は若様の言付け通りにしているだけなのです。「代わりに香を届けてくれ」と、そうおっしゃられて。』
夏太郎の言葉から、不意に不安が掻き立てられた。この前も「忍んで」やってきた。それが父に気づかれたのだとしたら?
『…なぜ杢太郎お兄様は来れないの?あの後、お父様が、またお兄様を』
さくらが言葉に詰まると、夏太郎は首を横に振った。
『いいえ、すでにあの時、若様は伊勢へ旅立つよう右大臣様から言い含められていました。斎宮で任を任され、鶴見家の男児として斎王様にお仕えするように、と』
宮中は百之助が出仕をしている。そこで地盤を固めている間、伊勢の斎王
様にお仕えする栄誉さえ鶴見が手にできるように。時の天皇が東宮様にその位をお譲りになるまで、斎王様は代が変わることはない。杢太郎も、いつ伊勢を離れられるか…。
さくらは自身の過ちが、杢太郎の人生まで変えてしまったのだと気がついた。慣れぬ土地に、見知らぬ者たち。お仕えする身であれば、供できるものは限られる。
『私のせいだわ…』
打ち掛けを涙で濡らす様子を見て、夏太郎が慌てた。
『若様は心配させるから、姫君には内緒にしろと仰せでした。だから気付かれぬように香を届けろ、と。』
『そうね…お兄様なら、そう言うわね。』
『申し訳ありません…』
『あなたが謝ることではないのよ。そうね、…気が咎めると言うなら、私のお願いを聞いてくれる?』
「それで、今回の分です。」
夏太郎がさくらに包みを手渡した。そこからは嗅ぎ慣れた梅の香がする。
「しかし、年中、梅の香りを所望されるなんて、俺は方々駆け回って大変ですよ、姫様。」
「兄からもらった香りを身につけていたいのよ。可愛らしい妹が考えることよ。許してちょうだい。」
本当の美人にそう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「これも毎回言いますけど、若様への手紙は宜しいんですか?」
伊勢行きの荷に忍び込ませて運ぶこともできないことはない。しかし、さくらは首を横に振った。
「これ以上お兄様に迷惑はかけられないわ。お会いした時に話したいことは全部話すから、いいの。」
寂しそうに笑うさくらに夏太郎は何も言えなかった。
鶴見家の立派な庭は赤く色づいたもみじが秋を告げている。池の水面に真っ赤な葉が浮かび、黄金色に輝く陽の光が波紋に合わせてきらきらと輝いている。釣殿でその様子を眺める公達が二人。一人は欄干に腰を置き、盃を傾けている。三島殿と慕われる左大臣が子の剣之助だ。精悍な顔つきの中に人懐こい甘さを含んだ容貌。百之助も同じく整った顔立ちであるが、どこか影のある色気を放つのと対照的に、剣之助はひなたの似合う男であった。
元服の儀を境に交流を深めるようになったが、学問も弓も、果ては宮中での女の扱いさえ、そつなくこなす。百之助の得意な弓だけは僅差で上だと自負しているが……。元中宮の血縁ということで左大臣含め、皆から持ち上げられていたと思っていた。しかし、その考えが間違っていたことに百之助は早々に気付かされた。目の前の男を苦々しく思いながら、杯を満たした白濁した酒を喉に流し込んだ。
「やはり、この庭は美しい。」
剣之助は陽の光を溜め込んだような瞳を庭に向け、ほうっと息をついた。
「お前の家も似たようなものだろう。」
左大臣家も右大臣家も似たようなものだ。絶大なる富を築いた家、というのは総じて似たような庭園を作っている。風流などと時の流行りに乗っていれば、みな同じような趣向になる。鼻で笑う百之助に剣之助は首を横に振った。
「百之助は見慣れているのかもしれないが、右大臣様の庭づくりは素晴らしいよ。水の流れ、岩や水草の配置、自然界と人の世を溶け込ませる妙よ。計算し尽くしたことを、そうと思わせぬ……素晴らしい。」
「剣之助殿は灌漑にもご興味があるようで…。素晴らしい為政者となりますでしょうな。」
多分に嫌味を込めて言ったつもりが、本人には効いていないようで、恥ずかしそうに首元をかいている。
「山に分け入っては草花にかまけているだけさ。兄達には分からん趣味だと首を傾げられるんだが……右大臣様とは話が合いそうな気がするよ。」
剣之助の言葉に百之助は小さく笑った。
あの父と気が合うだって?
一番近くで共に過ごしてきた息子でさえ、父親の本性が分からぬというのに。
百之助の嘲笑をどう捉えたのか、剣之助はその表情をみとめるとそばへ寄って来た。そして慰めるように肩を叩いて言葉をつげた。
「そう嫉妬してくれるな。父君は嫡男の君に盛大な元服の儀を執り行ったくらい子煩悩だし、俺は君の一番の友人さ。」
どうにも的外れな回答に、百之助は毒気を抜かれたように呆けた表情になった。聡明でありながら、どこか抜けている。そういうのが人を惹きつけるのかもしれない。
にゃあ
二人の間にどこからともなく白猫が現れた。
艶やかな毛並みの猫は剣之助の狩衣の裾にじゃれつくように遊び始めた。剣之助は顔を綻ばせて、猫を眺めた。
「可愛らしい子だ。飼い始めたのか?」
剣之助が頭を撫で始めると、すり寄るように頭を擦り付ける。まるで媚びるような仕草に、これの飼い主と思われるのは……と、百之助は眉間に皺を寄せた。
「妹の、だ。」
強調するように言うと、剣之助は納得したとばかりに深くうなづいた。
「百之助が、このような甘い香を漂わせることはないな。」
いつの間にか剣之助の腕で落ち着き始めた白猫。その首元に鼻を寄せて香りを確認するのに、白猫はさらに自身の体を擦り付けた。
「人懐っこい子だ。…お前の主人が心配しているぞ。」
剣之助の言葉に答えるように猫が「にゃあ」と短く鳴いた。しかし、その腕の中から動く気はないようだ。
「姫君も心配しているだろうに…。お届けに参ろうか。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて剣之助が提案するも、百之助は一瞬で「だめだ」と短く否定した。
「入内前の身だから、と俺を警戒しているのか?」
百之助は是とも否とも言わず、再び盃を傾け始める。
「俺が後から返しておく。そこらへんに転がしておけ。」
「そういうと思ったよ。だが、転がしておいたら、すぐそこは大きな池だ。酷いことになったら俺も寝覚が悪い。」
さっと、剣之助は立ち上がった。百之助が、あ、と思った時には釣殿を出て、さくらの住まう対屋へと足を進め始めていた。
ずんずん進んでいく剣之助の足が思ったより速く、百之助は絶妙に追いつけぬまま、「おい」だとか「待て」と言うが、暖簾に腕押しである。全く聞く耳も持たず、涼しい顔で闊歩していく。どちらがこの家の主人であるか分かったものではない。そして、屋敷の奥に続く渡殿まで来ると、さくらの侍女が通りを塞ぐように控えている。そこで人好きのする笑みを浮かべて剣之助が声をかけた。
「姫君の愛猫がこちらへ迷い込んでしまったようだ。大切にされているとお見受けする。姫君にお返ししたいのだが。」
剣之助の美貌に見惚れていた侍女だったが、思い出したように厳しい表情となった。
「私から姫様に事情をお伝えして、猫様はお返しいたしますわ。」
しかし、剣之助は侍女ににじり寄った。さらに端正な顔が近づくと、侍女は頬を赤らめた。
「この可愛らしい子が安全に主人の元にかえるか、私も見届けたいのだ。姫君に取り次いでくれないだろうか、ほら兄も一緒だと。」
息を切らしながら、ようやく追いついた百之助をだしに、説得を試みると侍女は渋々と言ったように奥へと引っ込んでいった。事情の掴めない百之助は断りの話をしていたのだろうと思っていたが、再び戻ってきた侍女が、
「お二方、こちらへ。」
と招き始めたので、ようやく事態を飲み込めた。
「おい、いい加減に」
百之助がそう言いながら剣之助の肩を掴もうとすると、すんでのところで躱され、「さあ、行こうか。」と剣之助は輝く笑顔を向けるのだった。
室の前に通されると、御簾ごしに色とりどりの打ち掛けが波打ち、年頃の姫達が扇で顔を隠し、こちらを伺うように涼やかな瞳を向けている。その最奥にここの主人であろう女が控えている。
「貴方様が小鞠を助けてくださったのね。」
御簾越しに通る鈴のような声。『小鞠』と呼ばれたのが腕の中でおとなしくしている白猫だろうと、剣之助はその言葉に昰と頷いた。
「とても人懐っこい子で、私は一瞬で小鞠様の虜となってしまいました。失礼を承知で、小鞠様をしかとお届けしたいと我儘を申しました。」
深く頭を下げると御簾の奥で「ふふ」と笑い合う姫達の声が聞こえた。
「小鞠は私達だけでなく、左大臣家の若君まで虜にしてしまったのですね。ただ、脱走ばかりのお転婆な子なのが悩みの種なのです。今回はお優しい方に見つけていただいて良かったですわ。」
さくらの言葉に百之助は、ふっと笑いながら言葉を返した。
「幼い頃の自分を見ているようで、肝が冷えますなぁ」
「もう、兄様ったら!」
「今は姫らしく成長して兄は嬉しいよ。…ご友人の皆様、さくらをどうかよろしく頼みます。」
百之助がわずかに頭を下げると、それに合わせて御簾越しの女達もこうべを垂れた。
そして、百之助は用が済んだ、とばかりに剣之助を促して室を後にした。剣之助は後髪がひかれる思いであったが、これ以上は百之助の機嫌を損ねてしまう。大人しく渡殿へ足を向けた。
「姫君は梅の香がお好きなのか?」
前をゆく百之助に剣之助が声をかけた。それに百之助は訝しそうな顔で振り返った。
「なんのことだ?」
「あの『小鞠』も室からも、わずかに梅の香がしたんだが…」
貴族であれば、季節によって香の調合をして身に纏うものだ。秋であれば、相応しい花々がいくつもあるのに、あえて梅の香を纏うとは。自身の香りとしてお使いになっているのだろうか。
宮中でも、この香りは誰某だ、と分かるように、一人一人の調合の仕方には個人差がある。そこで必ず使う香りに季節のものを足して、風雅を競っているのだ。姫君は、あえて春の花を自身の香りとしている。何か訳があるのだろうか、と思ってみたものの、兄の方はそのようなことに全く関心がないらしい。
「…いや、なんでもない。今日はお暇するよ。」
いつもの笑顔を乗せて、剣之助は右大臣邸を後にした。
さくらの室では客人の見送りや、夕餉時ということで侍女達が忙しく動いている。その喧騒の中、隅の欄干にもたれるようにさくらは脱力していた。小言の多いあさひが見れば「姫様!」と声がかかるが、そのような余裕はないらしい。
欄干の下から男が声をかける。
「姫様、いくら俺だからって力抜きすぎですよ。」
夏太郎が眉を顰めた。
「いいのよ、この方が誰かと話しているなんて思われないから。」
梅の花が散る頃、杢太郎ではなく、夏太郎が一人忍んでやってきた。あの時の下男だとさくらは一目で気がついた。少し警戒しながらも用を尋ねれば、懐から包みを取り出した。
『若様からです』
手渡されたのは香であった。開けば鼻をつく匂い。
『何、これは…』
さくらが顔を顰めると夏太郎は慌てたように説明を始めた。
『若様から香を届けるように、と仰せつかりましたんで。その…、次は春の花でも「菜の花」がいいだろうと、その』
『これ、杢太郎お兄様が選んだもの?』
さくらの視線が鋭くなる。やはり、鶴見家の娘なだけある。美人のなじるような視線は美しくもあり、同時に鋭い剣のように鋭利だ。夏太郎は、まだ肌寒い中、額に汗を流した。
『…申し訳ありません、俺…私が若様の代わりに』
そこまで言うと、さくらは包みを投げ返した。
『なぜ、お前がお兄様の代わりを…!無礼な!』
さくらが声を荒げると、夏太郎は怯えたように地面に頭を擦り付け、謝罪の言葉を口にした。
『申し訳ありません…!私は若様の言付け通りにしているだけなのです。「代わりに香を届けてくれ」と、そうおっしゃられて。』
夏太郎の言葉から、不意に不安が掻き立てられた。この前も「忍んで」やってきた。それが父に気づかれたのだとしたら?
『…なぜ杢太郎お兄様は来れないの?あの後、お父様が、またお兄様を』
さくらが言葉に詰まると、夏太郎は首を横に振った。
『いいえ、すでにあの時、若様は伊勢へ旅立つよう右大臣様から言い含められていました。斎宮で任を任され、鶴見家の男児として斎王様にお仕えするように、と』
宮中は百之助が出仕をしている。そこで地盤を固めている間、伊勢の斎王
様にお仕えする栄誉さえ鶴見が手にできるように。時の天皇が東宮様にその位をお譲りになるまで、斎王様は代が変わることはない。杢太郎も、いつ伊勢を離れられるか…。
さくらは自身の過ちが、杢太郎の人生まで変えてしまったのだと気がついた。慣れぬ土地に、見知らぬ者たち。お仕えする身であれば、供できるものは限られる。
『私のせいだわ…』
打ち掛けを涙で濡らす様子を見て、夏太郎が慌てた。
『若様は心配させるから、姫君には内緒にしろと仰せでした。だから気付かれぬように香を届けろ、と。』
『そうね…お兄様なら、そう言うわね。』
『申し訳ありません…』
『あなたが謝ることではないのよ。そうね、…気が咎めると言うなら、私のお願いを聞いてくれる?』
「それで、今回の分です。」
夏太郎がさくらに包みを手渡した。そこからは嗅ぎ慣れた梅の香がする。
「しかし、年中、梅の香りを所望されるなんて、俺は方々駆け回って大変ですよ、姫様。」
「兄からもらった香りを身につけていたいのよ。可愛らしい妹が考えることよ。許してちょうだい。」
本当の美人にそう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「これも毎回言いますけど、若様への手紙は宜しいんですか?」
伊勢行きの荷に忍び込ませて運ぶこともできないことはない。しかし、さくらは首を横に振った。
「これ以上お兄様に迷惑はかけられないわ。お会いした時に話したいことは全部話すから、いいの。」
寂しそうに笑うさくらに夏太郎は何も言えなかった。