白玉の露
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きん、と冷えた寒空に月がかかっている。
それを一人の男が透き渡殿から見上げている。月光に照らさせた上質な衣が光を集めて鈍く光っている。まるで一枚絵のような佇まいに、女たちがいれば目を奪われていることだろう。
右大臣である篤四郎は整えられた口髭に指を這わせ、幾度か撫でた。しばらく月を見つめていれば、足元で玉砂利を踏み締める音が聞こえる。音の方へ目をやれば綿の衣を纏った一人の下人のような風体の男がやって来た。
「それで、くだんの女は?」
男に聞くと、その場で腰を折り、頭をたれて話し始めた。
「明らかになる前に自身で…」
言葉を濁す男に、篤四郎はわずかに眉を寄せた。
「そなたら得意の術も効かぬようならば、そやつは随分と位の高い『妖』なのだろうな。」
篤四郎の軽口に男はぐっと口をつぐんだ。
「いや、戯れだ。よく躾けられたのが潜り込んだということか。それで?」
視線で「何もないとは言わせまい」と男に圧をかけると、男は口を開いた。
「下女が含んだ毒が残っており、あらためたところ、質の良い薬でございました。市井ではまずお目に掛かれない類のものでございます。…おそらくは」
「高位の貴族で私を恨まない者などいないだろう。特定の難しいことよ。」
篤四郎は愉快そうに笑った。
娘の命が狙われたこと。それを手引きした下女が間者であったこと。父親ならば怒りを露わにしていいものを、篤四郎は扇で口元を隠すようにして、貴族然とした笑みを浮かべている。相対する男は今に始まったことでもないと静観を続けた。この家の歪さを感じながらも、仕事と割り切る。師の受け売りだが、人を呪うだの星読みだの祝いだの、人の清濁からは一線を引くことが身を守る術である、と。男はその言葉に従い、雇い主の機嫌のいい笑い声をひとしきり聞き、声が止んだころで視線をあげた。
整ったかんばせに鋭い視線。見目だけで圧倒される。
「たしか左大臣殿にお子がお生まれになるとか。…祝いの品を用意せねばな。」
その「祝い」が何を指すのか。男は短く是と答えると屋敷を後にした。
元服の儀から数日が経ち、鶴見家の子供たちの元には宮中へ上がる前に関係を持とうと、数々の子息、子女が訪れていた。もちろんさくらの対屋へ続く渡殿は厳重に管理され、決められた子女のみが立ち入りを許されていた。
帝の元へ侍るまで、一人屋敷に押し込められるのだと思っていたさくらにとっては、予想外の展開だった。歳の頃の近い同性と過ごせることに、朝から胸を躍らせていた。何となく落ち着かず、侍女たちに幾度も菓子の準備を確認したり、室の香は障りないか、と忙しなく動いていた。そんなさくらを見かねて、女房のあさひに釘をさされると、しぶしぶ上座で用意された座に腰を下ろした。
しばらくすると、渡殿から布擦れの音が聞こえてくる。数人の足音が重なり近づいてくる。どのような娘たちだろうか。内心落ち着かない心を隠すように扇で口元を隠した。さくらの佇まいは一見すると歳若くとも屋敷の主人の威厳を放っている。蝶よ花よと育てられた姫といっても鶴見家の者。見目の麗しさも相まって存在感を放っていた。さくらのもとに現れた四人の少女達は、さくらの姿を認めると、一瞬息を呑んだ。しかし、そこは躾けられ子女たちだ。優雅に腰を折ると室の主人へと恭順の姿勢を見せた。
訪れた順に、花枝子、トメ、お銀、カノと室の主人へ挨拶を述べる。さくらは余裕そうな笑みを浮かべて、それぞれの挨拶に短く言葉を返した。皆、高官の娘や学士の娘だ。冬の寒さの残る初春。草木は黒々とした枝を残し寒々しい姿であるが、さくらの室はひと足先に春の花が咲き誇るような鮮やかな打ち掛けが彩られている。菓子を振る舞い、世間話に花を咲かせ、場が温まったところで今日の指南役が現れた。柔和な雰囲気の女で、名はヒロと言った。手には厚みのある紙束を持ち、その中身は今も人気の高い源氏物語の一部だった。皆、一度は見聞きしたことのある題材。互いの人柄を把握するには最適だ。ヒロは「そう」とは言ずとも、少女たちに
「読み終わりましたら、皆様のお考えをお聞かせくださいませ」と柔和な雰囲気と同様に優しげな声音で伝えた。花枝子とお銀は澄ました表情を取り繕いながらも恋愛小説が好みなのか頬を僅かばかり上気させ、瞳が輝いている。一方、トメは入室した時と同様に貴族然とした微笑みを浮かべて相槌を打つ。カノに至っては真面目な表情を変えることなく、トメと同じく相槌を打った。さくらはそれぞれの様子を見とめ、四人はどの様に語るのだろう、と楽しみに思っていた。
ヒロが語ったのは「源氏物語 夕顔」の場面であった。光源氏が通りがかった人家に咲く白い花が夕顔との出会いを引き寄せる。互いの素性を明かさぬまま恋人になった2人は愛を育んでいく。しかし、幸せは長くは続かなかった。ある日、二人の元に光源氏に深い思いを持つ女の生き霊が現れる。それに怯え、そのまま儚くなった夕顔。世間の目を恐れて愛しい人の死を隠すほかなかった光源氏。せめて、彼女が頭中将との間に設けた娘を忘れ形見と引き取ろうとするが叶わず、一人悲しみに暮れる光源氏であったーー。
ヒロが語り終わると、花枝子とお銀は手を取り合って今にも涙をこぼしそうな勢いだ。花枝子は「何度聞いても悲しいお話ですわ。」と言い、お銀も頷きながら「夕顔も光源氏もお可哀想ですわ。愛する者が引き裂かれるなんて…!」と続く。二人の初々しい様子にヒロは微笑みかけ、「序盤のお二人の出会いからお幸せなご様子が、余計に結末を悲しくさせますね」と返答を返した。さくらは三人の会話に言葉を続けた。
「それにしても、この生き霊はなんと執念深いのでしょうね。恨みつらみを吐き出すより、他にもやり方はあったでしょうに。」
いくら好いた男だとしても、相手の女を取り殺すなんて。さくらには想像ができなかった。好きな人には思いを伝えて、互いに心を通わせ、相手の心が離れたならば、今一度、思いを伝える。恋とはそういうものではないか。するとトメが口を開いた。
「でも、私は生き霊の気持ちに心を寄せてしまいますわ。…愛する方が他の女を愛してしまう。優しいお手も、甘く名前を呼ぶお声も忘れることができない。苦しく、歯がゆい気持ちで、幾度も一人で夜を過ごした女を思うと…。」
静かに微笑みをたたえていたトメの深い考察に皆、引き込まれる。先程まで光源氏と夕顔に寄っていた花枝子とお銀も、「女の独寝ほど寂しいものはないですわね」と、トメの言葉に頷いた。
そして、ヒロはまだ意見を述べていないカノへ顔を向けた。
「カノさんはどうお思いになりますか?」
問いかけられると、今まで真面目な顔で皆の話を聞いていたカノが口を開いた。
「目先の思いに溺れると身を滅ぼす、のだと教訓になりした。」
短く話し終えたカノに花枝子が問うた。
「二人の関係が終わってしまったのは生き霊のせいではなくって?」
「元は光源氏の不始末が招いた結果でしょう。お相手との関係を清算して夕顔と逢瀬をすれば良いものを、その場の雰囲気に流されて恋人になった。夕顔に至っては釣り合いの取れぬ身分と知りながら、一時の寵愛に溺れた。頭中将の正妻から身を隠し、子を守る母であるべきが、女の幸せを優先したのです。」
カノにとっては大衆に人気の源氏物語も不誠実な者同士の色恋沙汰にしか思えないようだった。
「確かに……カノさんのおっしゃる通りかもしれませんわね。」
さくらはカノの言葉に同意するように言葉を続けた。
「光源氏が本当に夕顔を思うのなら、ご自身の埃を払って後顧の憂いなく夕顔と逢瀬を楽しめば良かったでしょう。それに、夕顔は自身の身の上と娘の安全を思うのなら、世を騒がせる貴公子ではなく、子を守ってくれる確固たる後ろ盾を求めるべきだったでしょう。」
互いに安全策を講じていれば、最悪の事態は起こらなかっただろう。
「ですが…」と、さくらは一旦言葉を切り、花枝子、お銀、トメの方へ目線を向けた。
「世の理よりも、二人を結びつける深い縁があったのかもしれませんわ。理性だけで抗えないのが人の心、というもの。恋する者のままならぬ有様を書いたのが源氏物語なのかしらね。」
三人は深く頷いた。さくらは皆の様子を確かめると、脱力したようにため息をついた。
「でも、お話の要旨は分かっても、私は恋というものがよく分かりませんわ。珍しい菓子に心躍ることはありますけれど、似たようなものかしら。」
その様子に皆が小さく笑うと穏やかな雰囲気が場に漂った。ヒロはさくらへ微笑みながら返した。
「きっと東宮様とお会いになられたら、恋というものをお知りになられますわ。」
さくらの未来の夫であり、未来の帝。ヒロは乳母として仕えていたことがあるのだ。さくらはヒロに問うた。
「…東宮様はどんなお方ですの?」
緊張の面持ちのさくらと同じような表情でヒロを見つめる少女たち。まだあどけなさの残る態度に、ヒロは内心かわいらしく思いながら答えた。
「見目麗しく、聡明で、お優しいお方です。…室で飼っていらした猫を大変可愛がっておられて。」
その様子を思い出しながら話すヒロは我が子のことのように柔らかな表情で続けた。
「どこへ行くにも連れてらしたんですよ。学問にも…果てには狩りにもお連れしようとして、皆に止められておりました。」
東宮様は無類の猫好きなのかもしれない。少女たちは「かわいらしいお人ね」などと言いながら微笑みあった。さくらもまだ見ぬ東宮を想像すると、かわいらしく思えて口元を上げた。
「私も猫を飼ってみようかしら」
呟くようなさくらの言葉に少女たちは「それがいいですわ」「きっと東宮様もお喜びになりますよ」だとか「お二人とお猫様が寄り添うのは大変絵になりそうですわ」と友人の恋愛相談に乗るような雰囲気で口々に答えた。
初対面とは思えぬほど和やかに進んだ会もお開きとなり、姫たちは帰路へ着いた。
さくらの室では侍女たちが後片付けに奔走していた。それを横目に、さくらは室の外廊下にあたる濡れ縁で、高欄にもたれかかっていた。同じ年頃の少女達と交流できたことが嬉しくもあるが、慣れないことで体は気だるさを感じていた。招いた者たちがさくらを、ひいては鶴見家に魅力を感じてもらうために。そして、官位の上下こそあれ、実力者の家長を我が家門の力にするためにも。少女たちを懐柔することはさくらの責務でもある。父から許しを得られたといって、ただお遊戯を楽しむほどさくらは何も知らぬ姫ではない。…父の及第点はあっただろうか。そう思いながらも、今日の姫達の楽しそうな様子を思い出すと、自然とさくらは柔らかい表情になった。
「疲れているのか嬉しいのか…忙しい姫様だな。」
見知った声にさくらはとっさに背中を伸ばして声のする方へ体を向けた。
「杢太郎お兄様…!」
杢太郎は高欄の下から身を乗り出すと、そのまま欄干に腰を下ろした。
「まあ、はしたないこと。」
さくらが冗談めかしていうと、杢太郎は「育ちが悪いもんでね」と、にやりと返した。
あの一件以来、姿も見えず、手紙を出しても音沙汰がなかったのだ。嫌味のひとつくらい許されるだろう。さくらの表情から感じ取ったのか、杢太郎は「そう怒らんでくれよ。」と困ったように眉を下げた。
「父上に外出禁止を命じられていたんだ。いや…今もそうなんだが、お前が心配しているのではと思って、こうして皆の目を掻い潜って可愛い妹の様子を見に来たんだよ。」
あの一件以来、さくらの対屋に続く渡殿には常に人がいるのだ。それはさくらの行動だけでなく、杢太郎まで監視するものだったのか。自身の招いたことだ。我が身に降りかかるものは容認できても、巻き込んでしまった兄にまで不利益が生じていると分かると、自然と顔を下げた。
「ごめんなさい…私のせいだわ」
悲しげな表情の妹を見ると杢太郎は優しく頭を撫でた。
「お前が気に病むことじゃないさ。そのうち父上の機嫌も治るだろう。」
父は自身の機嫌ひとつで子供たちに罰を与えるような人ではない。必要ならば飴も鞭も理性的に使いこなす男だ。だから今回の監視がいつまで続くのか、父の計略に不要となるまでとしか分からないのだ。お互いにそれは分かっていた。ただ杢太郎は気休めに言ったに過ぎなかったが、そういうより他にない。
杢太郎は懐から小さな香合を取り出した。杢太郎の無骨な手の中に白磁のつるんとした器が何とも不釣り合いな様子だ。それをさくらの白く繊細な手に移した。そこには本当の主人を得たかのように白梅の形をした香合が佇んでいる。さくらは「きれい」とうっとりした表情で見つめ、蓋を開けた。
その場に梅の香が広がった。
冬の凛とした空気のなかで、僅かに甘い芳香が際立って華やかに思える。さくらの表情がいつもの様子に戻ったことで、杢太郎は内心、安堵のため息をついた。
「素敵な香りね。でもお兄様、梅ならばもうすぐですわ。」
そう言って中庭にある梅の木に目を向ける。黒々とした枝に小さな芽がつき始めている。訝しげに問うと、杢太郎は恥ずかしそうに頭をかいた。
「…次は夏の香でも準備してくるか。」
「それじゃあ早過ぎます」
そうして二人笑い合うと、室の奥から侍女たちの足音が近づいてくる。途端、杢太郎は欄干からひらりと飛び降りた。
「…また来る」
そう短く言う杢太郎にさくらは頷いた。
杢太郎が屋敷から出ると、付き従っていた下男が口を開いた。
「…伊勢へ向かわれること、お伝えしなくてよかったのですか?」
「夏太郎…これ以上、妹に心配はかけさせられんよ。俺がいない間は定期的に香を届けてやってくれ。」
そう言うと、夏太郎と呼ばれた下男はしおしおと項垂れた。
「若様、そんな……。今日忍び込むのも大変だったのに…」
「心付けは弾んでやるさ。」
涙目の夏太郎を労うように杢太郎は肩を叩いた。
それを一人の男が透き渡殿から見上げている。月光に照らさせた上質な衣が光を集めて鈍く光っている。まるで一枚絵のような佇まいに、女たちがいれば目を奪われていることだろう。
右大臣である篤四郎は整えられた口髭に指を這わせ、幾度か撫でた。しばらく月を見つめていれば、足元で玉砂利を踏み締める音が聞こえる。音の方へ目をやれば綿の衣を纏った一人の下人のような風体の男がやって来た。
「それで、くだんの女は?」
男に聞くと、その場で腰を折り、頭をたれて話し始めた。
「明らかになる前に自身で…」
言葉を濁す男に、篤四郎はわずかに眉を寄せた。
「そなたら得意の術も効かぬようならば、そやつは随分と位の高い『妖』なのだろうな。」
篤四郎の軽口に男はぐっと口をつぐんだ。
「いや、戯れだ。よく躾けられたのが潜り込んだということか。それで?」
視線で「何もないとは言わせまい」と男に圧をかけると、男は口を開いた。
「下女が含んだ毒が残っており、あらためたところ、質の良い薬でございました。市井ではまずお目に掛かれない類のものでございます。…おそらくは」
「高位の貴族で私を恨まない者などいないだろう。特定の難しいことよ。」
篤四郎は愉快そうに笑った。
娘の命が狙われたこと。それを手引きした下女が間者であったこと。父親ならば怒りを露わにしていいものを、篤四郎は扇で口元を隠すようにして、貴族然とした笑みを浮かべている。相対する男は今に始まったことでもないと静観を続けた。この家の歪さを感じながらも、仕事と割り切る。師の受け売りだが、人を呪うだの星読みだの祝いだの、人の清濁からは一線を引くことが身を守る術である、と。男はその言葉に従い、雇い主の機嫌のいい笑い声をひとしきり聞き、声が止んだころで視線をあげた。
整ったかんばせに鋭い視線。見目だけで圧倒される。
「たしか左大臣殿にお子がお生まれになるとか。…祝いの品を用意せねばな。」
その「祝い」が何を指すのか。男は短く是と答えると屋敷を後にした。
元服の儀から数日が経ち、鶴見家の子供たちの元には宮中へ上がる前に関係を持とうと、数々の子息、子女が訪れていた。もちろんさくらの対屋へ続く渡殿は厳重に管理され、決められた子女のみが立ち入りを許されていた。
帝の元へ侍るまで、一人屋敷に押し込められるのだと思っていたさくらにとっては、予想外の展開だった。歳の頃の近い同性と過ごせることに、朝から胸を躍らせていた。何となく落ち着かず、侍女たちに幾度も菓子の準備を確認したり、室の香は障りないか、と忙しなく動いていた。そんなさくらを見かねて、女房のあさひに釘をさされると、しぶしぶ上座で用意された座に腰を下ろした。
しばらくすると、渡殿から布擦れの音が聞こえてくる。数人の足音が重なり近づいてくる。どのような娘たちだろうか。内心落ち着かない心を隠すように扇で口元を隠した。さくらの佇まいは一見すると歳若くとも屋敷の主人の威厳を放っている。蝶よ花よと育てられた姫といっても鶴見家の者。見目の麗しさも相まって存在感を放っていた。さくらのもとに現れた四人の少女達は、さくらの姿を認めると、一瞬息を呑んだ。しかし、そこは躾けられ子女たちだ。優雅に腰を折ると室の主人へと恭順の姿勢を見せた。
訪れた順に、花枝子、トメ、お銀、カノと室の主人へ挨拶を述べる。さくらは余裕そうな笑みを浮かべて、それぞれの挨拶に短く言葉を返した。皆、高官の娘や学士の娘だ。冬の寒さの残る初春。草木は黒々とした枝を残し寒々しい姿であるが、さくらの室はひと足先に春の花が咲き誇るような鮮やかな打ち掛けが彩られている。菓子を振る舞い、世間話に花を咲かせ、場が温まったところで今日の指南役が現れた。柔和な雰囲気の女で、名はヒロと言った。手には厚みのある紙束を持ち、その中身は今も人気の高い源氏物語の一部だった。皆、一度は見聞きしたことのある題材。互いの人柄を把握するには最適だ。ヒロは「そう」とは言ずとも、少女たちに
「読み終わりましたら、皆様のお考えをお聞かせくださいませ」と柔和な雰囲気と同様に優しげな声音で伝えた。花枝子とお銀は澄ました表情を取り繕いながらも恋愛小説が好みなのか頬を僅かばかり上気させ、瞳が輝いている。一方、トメは入室した時と同様に貴族然とした微笑みを浮かべて相槌を打つ。カノに至っては真面目な表情を変えることなく、トメと同じく相槌を打った。さくらはそれぞれの様子を見とめ、四人はどの様に語るのだろう、と楽しみに思っていた。
ヒロが語ったのは「源氏物語 夕顔」の場面であった。光源氏が通りがかった人家に咲く白い花が夕顔との出会いを引き寄せる。互いの素性を明かさぬまま恋人になった2人は愛を育んでいく。しかし、幸せは長くは続かなかった。ある日、二人の元に光源氏に深い思いを持つ女の生き霊が現れる。それに怯え、そのまま儚くなった夕顔。世間の目を恐れて愛しい人の死を隠すほかなかった光源氏。せめて、彼女が頭中将との間に設けた娘を忘れ形見と引き取ろうとするが叶わず、一人悲しみに暮れる光源氏であったーー。
ヒロが語り終わると、花枝子とお銀は手を取り合って今にも涙をこぼしそうな勢いだ。花枝子は「何度聞いても悲しいお話ですわ。」と言い、お銀も頷きながら「夕顔も光源氏もお可哀想ですわ。愛する者が引き裂かれるなんて…!」と続く。二人の初々しい様子にヒロは微笑みかけ、「序盤のお二人の出会いからお幸せなご様子が、余計に結末を悲しくさせますね」と返答を返した。さくらは三人の会話に言葉を続けた。
「それにしても、この生き霊はなんと執念深いのでしょうね。恨みつらみを吐き出すより、他にもやり方はあったでしょうに。」
いくら好いた男だとしても、相手の女を取り殺すなんて。さくらには想像ができなかった。好きな人には思いを伝えて、互いに心を通わせ、相手の心が離れたならば、今一度、思いを伝える。恋とはそういうものではないか。するとトメが口を開いた。
「でも、私は生き霊の気持ちに心を寄せてしまいますわ。…愛する方が他の女を愛してしまう。優しいお手も、甘く名前を呼ぶお声も忘れることができない。苦しく、歯がゆい気持ちで、幾度も一人で夜を過ごした女を思うと…。」
静かに微笑みをたたえていたトメの深い考察に皆、引き込まれる。先程まで光源氏と夕顔に寄っていた花枝子とお銀も、「女の独寝ほど寂しいものはないですわね」と、トメの言葉に頷いた。
そして、ヒロはまだ意見を述べていないカノへ顔を向けた。
「カノさんはどうお思いになりますか?」
問いかけられると、今まで真面目な顔で皆の話を聞いていたカノが口を開いた。
「目先の思いに溺れると身を滅ぼす、のだと教訓になりした。」
短く話し終えたカノに花枝子が問うた。
「二人の関係が終わってしまったのは生き霊のせいではなくって?」
「元は光源氏の不始末が招いた結果でしょう。お相手との関係を清算して夕顔と逢瀬をすれば良いものを、その場の雰囲気に流されて恋人になった。夕顔に至っては釣り合いの取れぬ身分と知りながら、一時の寵愛に溺れた。頭中将の正妻から身を隠し、子を守る母であるべきが、女の幸せを優先したのです。」
カノにとっては大衆に人気の源氏物語も不誠実な者同士の色恋沙汰にしか思えないようだった。
「確かに……カノさんのおっしゃる通りかもしれませんわね。」
さくらはカノの言葉に同意するように言葉を続けた。
「光源氏が本当に夕顔を思うのなら、ご自身の埃を払って後顧の憂いなく夕顔と逢瀬を楽しめば良かったでしょう。それに、夕顔は自身の身の上と娘の安全を思うのなら、世を騒がせる貴公子ではなく、子を守ってくれる確固たる後ろ盾を求めるべきだったでしょう。」
互いに安全策を講じていれば、最悪の事態は起こらなかっただろう。
「ですが…」と、さくらは一旦言葉を切り、花枝子、お銀、トメの方へ目線を向けた。
「世の理よりも、二人を結びつける深い縁があったのかもしれませんわ。理性だけで抗えないのが人の心、というもの。恋する者のままならぬ有様を書いたのが源氏物語なのかしらね。」
三人は深く頷いた。さくらは皆の様子を確かめると、脱力したようにため息をついた。
「でも、お話の要旨は分かっても、私は恋というものがよく分かりませんわ。珍しい菓子に心躍ることはありますけれど、似たようなものかしら。」
その様子に皆が小さく笑うと穏やかな雰囲気が場に漂った。ヒロはさくらへ微笑みながら返した。
「きっと東宮様とお会いになられたら、恋というものをお知りになられますわ。」
さくらの未来の夫であり、未来の帝。ヒロは乳母として仕えていたことがあるのだ。さくらはヒロに問うた。
「…東宮様はどんなお方ですの?」
緊張の面持ちのさくらと同じような表情でヒロを見つめる少女たち。まだあどけなさの残る態度に、ヒロは内心かわいらしく思いながら答えた。
「見目麗しく、聡明で、お優しいお方です。…室で飼っていらした猫を大変可愛がっておられて。」
その様子を思い出しながら話すヒロは我が子のことのように柔らかな表情で続けた。
「どこへ行くにも連れてらしたんですよ。学問にも…果てには狩りにもお連れしようとして、皆に止められておりました。」
東宮様は無類の猫好きなのかもしれない。少女たちは「かわいらしいお人ね」などと言いながら微笑みあった。さくらもまだ見ぬ東宮を想像すると、かわいらしく思えて口元を上げた。
「私も猫を飼ってみようかしら」
呟くようなさくらの言葉に少女たちは「それがいいですわ」「きっと東宮様もお喜びになりますよ」だとか「お二人とお猫様が寄り添うのは大変絵になりそうですわ」と友人の恋愛相談に乗るような雰囲気で口々に答えた。
初対面とは思えぬほど和やかに進んだ会もお開きとなり、姫たちは帰路へ着いた。
さくらの室では侍女たちが後片付けに奔走していた。それを横目に、さくらは室の外廊下にあたる濡れ縁で、高欄にもたれかかっていた。同じ年頃の少女達と交流できたことが嬉しくもあるが、慣れないことで体は気だるさを感じていた。招いた者たちがさくらを、ひいては鶴見家に魅力を感じてもらうために。そして、官位の上下こそあれ、実力者の家長を我が家門の力にするためにも。少女たちを懐柔することはさくらの責務でもある。父から許しを得られたといって、ただお遊戯を楽しむほどさくらは何も知らぬ姫ではない。…父の及第点はあっただろうか。そう思いながらも、今日の姫達の楽しそうな様子を思い出すと、自然とさくらは柔らかい表情になった。
「疲れているのか嬉しいのか…忙しい姫様だな。」
見知った声にさくらはとっさに背中を伸ばして声のする方へ体を向けた。
「杢太郎お兄様…!」
杢太郎は高欄の下から身を乗り出すと、そのまま欄干に腰を下ろした。
「まあ、はしたないこと。」
さくらが冗談めかしていうと、杢太郎は「育ちが悪いもんでね」と、にやりと返した。
あの一件以来、姿も見えず、手紙を出しても音沙汰がなかったのだ。嫌味のひとつくらい許されるだろう。さくらの表情から感じ取ったのか、杢太郎は「そう怒らんでくれよ。」と困ったように眉を下げた。
「父上に外出禁止を命じられていたんだ。いや…今もそうなんだが、お前が心配しているのではと思って、こうして皆の目を掻い潜って可愛い妹の様子を見に来たんだよ。」
あの一件以来、さくらの対屋に続く渡殿には常に人がいるのだ。それはさくらの行動だけでなく、杢太郎まで監視するものだったのか。自身の招いたことだ。我が身に降りかかるものは容認できても、巻き込んでしまった兄にまで不利益が生じていると分かると、自然と顔を下げた。
「ごめんなさい…私のせいだわ」
悲しげな表情の妹を見ると杢太郎は優しく頭を撫でた。
「お前が気に病むことじゃないさ。そのうち父上の機嫌も治るだろう。」
父は自身の機嫌ひとつで子供たちに罰を与えるような人ではない。必要ならば飴も鞭も理性的に使いこなす男だ。だから今回の監視がいつまで続くのか、父の計略に不要となるまでとしか分からないのだ。お互いにそれは分かっていた。ただ杢太郎は気休めに言ったに過ぎなかったが、そういうより他にない。
杢太郎は懐から小さな香合を取り出した。杢太郎の無骨な手の中に白磁のつるんとした器が何とも不釣り合いな様子だ。それをさくらの白く繊細な手に移した。そこには本当の主人を得たかのように白梅の形をした香合が佇んでいる。さくらは「きれい」とうっとりした表情で見つめ、蓋を開けた。
その場に梅の香が広がった。
冬の凛とした空気のなかで、僅かに甘い芳香が際立って華やかに思える。さくらの表情がいつもの様子に戻ったことで、杢太郎は内心、安堵のため息をついた。
「素敵な香りね。でもお兄様、梅ならばもうすぐですわ。」
そう言って中庭にある梅の木に目を向ける。黒々とした枝に小さな芽がつき始めている。訝しげに問うと、杢太郎は恥ずかしそうに頭をかいた。
「…次は夏の香でも準備してくるか。」
「それじゃあ早過ぎます」
そうして二人笑い合うと、室の奥から侍女たちの足音が近づいてくる。途端、杢太郎は欄干からひらりと飛び降りた。
「…また来る」
そう短く言う杢太郎にさくらは頷いた。
杢太郎が屋敷から出ると、付き従っていた下男が口を開いた。
「…伊勢へ向かわれること、お伝えしなくてよかったのですか?」
「夏太郎…これ以上、妹に心配はかけさせられんよ。俺がいない間は定期的に香を届けてやってくれ。」
そう言うと、夏太郎と呼ばれた下男はしおしおと項垂れた。
「若様、そんな……。今日忍び込むのも大変だったのに…」
「心付けは弾んでやるさ。」
涙目の夏太郎を労うように杢太郎は肩を叩いた。
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