白玉の露
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元服の儀はつつがなく執り行われた。
烏帽子親は北の方の父が務めた。降嫁した皇女の系譜を継ぐとして、右大臣家にとっては帝と縁を繋ぐために重要な家だ。しかも、身分もそこらの貴族には遠く及ばぬ。長子の百之助の烏帽子親となってもらうには十分すぎる人選だった。今は現役を退いているとはいえ、元々は帝の側近として侍っていた男だ。宴にやってきた者どもはその姿を捉えると恭しく頭を下げた。
室の中央は一段高く畳を重ね、そこに右大臣と今日の主役の百之助が控えている。そこへ姿を現した義父は、現役を退いた今も、皆に畏怖の念を感じさせる雰囲気を纏っていた。庇の下に居並ぶ烏帽子の下では、ここぞとばかりに右大臣への嘲りの笑みを浮かべているに違いない。この義父があってこそ、鶴見は帝の覚えめでたく、『運良く』右大臣へと上り詰めたのだろう、と。
そんなもの百も承知だ。何を使ってでも権力のその頂へ上り詰めたかった。帝に仕える身として誰もが思う夢ではないか。だから、己の知略を以て、美しさを以て、妻と身分を手に入れたのだ。
右大臣は義父に親しげな笑顔を向けた。
「お義父上様。本日は我が跡取りのために、お力添えいただきありがたく存じます。」
「可愛い孫のために力になれるのならば、これほど嬉しいことはない。孫が立派に育って娘も嬉しかろう。」
百之助の座る畳の下で右大臣の妻であり、義父の娘である女が扇で口元を隠して入るものの、目元は弧を描いていた。百之助は両親の嬉しそうな表情をみとめると、祖父の方へ体を向け、頭を下げた。
「おじじ様、私もおじじ様に烏帽子親になっていただき嬉しく思います。このハレの日を慕っている方に最も近くで祝って頂けるとは…ありがとうございます。」
百之助がふと溢れてしまったかのように、はにかむ。来客の折りから澄ました顔で対応していたのを見ていた者たちは、その年相応な表情に温かい目を向けている。義父も同じように愛孫をみる好好爺のように破顔した。
髷を結い直し、烏帽子を被れば、可愛らしい童から凛々しい公達へと変わる。鶴見家の長子として、宮中の覇権を握る家門を率いていく。百之助の元服は鶴見家の更なる勢力拡大の一手となったのだった。
儀式が終われば皆に酒と食事を振る舞う。
父も母もそれは嬉しそうだ。祖父も嬉しそうに周りの貴族からの酌をもらっては杯を傾けている。皆が宴を楽しむ最中で、百之助はそっと自身の襟足に手を当てた。引き結んだ髪とかたい烏帽子の感触。それを確かめるとわずかに口端を上げた。
夜が更けてくれば、酒が進み皆が思い思いに語り合うようになる。姿勢を崩しては歌を詠み始める者、侍女に声をかける者。そういう雰囲気になってくると母は奥へと下がり、あとは男達だけとなった。裏では相変わらず侍従共が忙しそうに駆け回っている。……ただ、忙しいだけというには顔を青ざめさせて。ちらり、と父をみれば目が合う。目配せをされ人目のない渡殿までやってくると、父は口を開いた。
「さくらが出掛けてしまったようだ。」
「一人で…ですか?」
屋敷を出たことがない妹だ。腹の底から冷えていく感覚に襲われる。世間知らずで見目も良い…騙してどこかへ売り飛ばすことだって。そこまで思考が進んだところで父が返答した。
「いや杢太郎が連れ出したそうだ。」
「あいつは…今日は体調がすぐれないから療養すると父上に嘘の言伝をしたのですね。」
卑しい妾腹の分際で。我らが父を愚弄し、鶴見家を軽く見ているのか。怒りが込み上げ、百之助のこめかみに筋が浮かんだ。
「大方、あのお転婆が頼んで断れなかったんだろう。だが、兄ならば妹を正しい道に導いてやるのも大切な務めだ。…百之助、お前は兄弟の中で唯一、私の後を継ぐ者だ。一族を…二人を正しい道へ導いてやってくれ。」
右大臣は百之助の肩を叩いた。百之助は敬愛する父に頼られた喜びで深くうなづいた。
「しかし、さくらには困りましたね。あれも裳着まで幾ばくもないというのに…」
百之助の言葉に右大臣は余裕の笑みを浮かべた。
「あれは空を舞う鳥と同じなのだ。飛べると分かってしまえば、どこまでも飛んでいってしまう。」
「ならば今よりも厳重に…」
「いいや、それではわずかな隙に今日のようなことが起こってしまう。だから、自ら籠に入るようにするんだよ。」
右大臣の笑みが毒を含んだものへと変わっていく。陰謀渦巻く宮中でのし上がってきた男の顔へ。
「人を従えるには大きく三つある。友好的に接し、または金銭で好意を得ること。その者自身の命が危険に晒された時。そして、家族や大切なモノの命が危険に晒された時。だが、お前が画策していると思われてはいけない。真意を真綿に包んで、そのかんばせで優しく囁き、汚れ仕事は人を介し、収穫はお前が手にする。…それを手にするには、まずは兄弟たちからだ。血の結束は何よりも尊い。」
右大臣は百之助と鼻が擦れるほどの距離まで顔を寄せた。
「どれが最も相応しいか。我が息子のお手並みを拝見させてもらおうか。」
百之助は、まず時重に事態を相談した。
「父上にとって大切な日」にお転婆な妹の我儘を宥めることもせず「本家に嘘をついて」夜の都へと姿を消してしまった、と。そうすれば時重は簡単に杢太郎への怒りを募らせた。これも父を慕っている。そこに火をつければ後は勝手にやってくれるだろう。
そして父が用意した「従者」に二人の居所まで馬で案内させた。破れかぶれの屋敷を進めば井戸の近くではしゃぐさくらと、それを優しい目で見つめる杢太郎がいた。
あれは危険だ。
あれは妹を見つめる目ではない…。
「あの男、悪びれもせず鶴見家の姫を連れ回して…」
呟くように言えば時重の琴線にふれたらしい。百之助と同じように、こめかみに大きく筋が浮かんだ。
あとの顛末は知ったものだ。
大切な兄を守るため、妹は自ら籠の中へ戻っていった。
屋敷に戻り、さくらは力尽きるように自室の寝室へとなだれ込んだ。兄はどうなるのか。さくらは牛車に乗り杢太郎と引き離されると、後は侍女達が駆け寄りそれは丁寧に身を清められ、着物を替えさせられた。誰かに杢太郎のことを聞きたくとも、事情を知るものはそばに侍ることはなかった。そして、父の住まう室へ向かおうとすれば、やんわりと侍女達に止められる。自身の対屋で過ごすより他なかった。百之助に外に出ない、と約束はしたが、自身の屋敷さえ満足に歩けないのか。不安と不満が入り混じった気持ちをどうすることもできずにいると、寝室の扉が開く音が聞こえた。うつ伏せになっていた体を入り口の方へと向けた。
「体がつらいのかい?さくら」
父である右大臣が眉を下げ心配そうな顔でこちらをうかがっている。
「お父様…!杢太郎お兄様は?!ご無事なのですか?!」
さくらは右大臣に縋るように、その足元へ体を寄せた。右大臣は娘の体を支えるように跪いた。
「心配ない。少し打ち身がある程度だから、安静にしていればすぐに良くなる。それより、お前は怪我はないかい?」
「私はなにも…。お父様、杢太郎お兄様は私のせいで時重お兄様に打たれたのです。よく手当をしてくださいませ。お兄様は悪くないの…。」
美しいかんばせが、宝石のような涙の粒で輝く。悲しみの表情でさえ我が娘ながら美しい。
「分かっているよ。あの子は優しいからね。それに、大切な妹に何かあったらと時重も気が気じゃなかったんだろう。兄達の思いは分かってくれるね?」
言い聞かせるとさくらは素直に頷いた。
「お前も大切な身の上だ。自分のことを大切にしておくれ。……私も知らせを聞いた時は生きた心地がしなかったよ。」
優しい父の瞳が悲しげに揺れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい父上。こんな大事になるなんて思わなかったの。少し町をみたらすぐに戻ろうと…帰り道に馬が突然暴れてしまって。」
「杢太郎の馬だろう。あの子の育てた子は賢く穏やかな馬のはずだよ。」
「帰るまではとても穏やかな馬でしたわ。それが帰る道を歩きはじめた途端に暴れ始めてしまって。人混みで怪我人が出なかっただけ幸いでしたけれど…」
そこまで言うと右大臣は少し思案するように顎を撫でた。しかし、すぐに良き父親の顔を娘に向けた。
「お前に何もなくて本当によかったよ。さあ、今日は疲れただろう。少し休みなさい。杢太郎は治療をしたら牛車で帰そう。」
父の言葉に安心するとさくらはほっと胸を撫で下ろした。
屋敷の中央、主殿の最も奥には右大臣が控え、その前に息子達三人が居並んでいた。右大臣は顔に傷の残る杢太郎に声を掛けた。
「傷の具合はどうだ?」
「父上!こんな奴の心配なんかする必要ありませんよ!」
時重は、鋭い視線を杢太郎に向けた。杢太郎は痛みを堪えながら深々と頭を下げた。
「…大切な姫君を危険に晒してしまい、大変申し訳ございません。」
その隣で百之助が鼻で笑った。
「鶴見家の大切な姫だと言うことは認識していたのか…お前にまだ正しい判断をする頭があってよかったよ。」
杢太郎は頭を下げたまま動かない。右大臣は兄弟達を宥めるように優しく語りかけた。
「さくらはまだまだお転婆だ。私たちで守ってやらなければならない。それは、分かるね?」
右大臣の言葉に杢太郎は顔を上げると頷いた。それに右大臣は言葉をつづける。
「これから屋敷に百之助の友人を招くことが増えるだろう。帝の伴侶となられる身は何よりも守らねばならない。」
「私たちが男共をしっかり見張りましょう!さくらに手を出すとは鶴見に…ひいては帝に仇なす大罪。私や兄上でしっかり出入りを固くしましょう。」
時重の言葉に百之助も是と頷いた。
「忍んで来られてはたまったものではないですからね。」
と、百之助はちらりと杢太郎に視線を向けた。暗に女房達の目をかいくぐってさくらのもとへ遊びに来ていた杢太郎へも向けられた言葉だった。それに気が付かない者は誰もいない。右大臣も深く頷いた。
「お前達が目を光らせてくれるならば安心だ。」
右大臣は杢太郎に視線を向けながら、そう言った。
烏帽子親は北の方の父が務めた。降嫁した皇女の系譜を継ぐとして、右大臣家にとっては帝と縁を繋ぐために重要な家だ。しかも、身分もそこらの貴族には遠く及ばぬ。長子の百之助の烏帽子親となってもらうには十分すぎる人選だった。今は現役を退いているとはいえ、元々は帝の側近として侍っていた男だ。宴にやってきた者どもはその姿を捉えると恭しく頭を下げた。
室の中央は一段高く畳を重ね、そこに右大臣と今日の主役の百之助が控えている。そこへ姿を現した義父は、現役を退いた今も、皆に畏怖の念を感じさせる雰囲気を纏っていた。庇の下に居並ぶ烏帽子の下では、ここぞとばかりに右大臣への嘲りの笑みを浮かべているに違いない。この義父があってこそ、鶴見は帝の覚えめでたく、『運良く』右大臣へと上り詰めたのだろう、と。
そんなもの百も承知だ。何を使ってでも権力のその頂へ上り詰めたかった。帝に仕える身として誰もが思う夢ではないか。だから、己の知略を以て、美しさを以て、妻と身分を手に入れたのだ。
右大臣は義父に親しげな笑顔を向けた。
「お義父上様。本日は我が跡取りのために、お力添えいただきありがたく存じます。」
「可愛い孫のために力になれるのならば、これほど嬉しいことはない。孫が立派に育って娘も嬉しかろう。」
百之助の座る畳の下で右大臣の妻であり、義父の娘である女が扇で口元を隠して入るものの、目元は弧を描いていた。百之助は両親の嬉しそうな表情をみとめると、祖父の方へ体を向け、頭を下げた。
「おじじ様、私もおじじ様に烏帽子親になっていただき嬉しく思います。このハレの日を慕っている方に最も近くで祝って頂けるとは…ありがとうございます。」
百之助がふと溢れてしまったかのように、はにかむ。来客の折りから澄ました顔で対応していたのを見ていた者たちは、その年相応な表情に温かい目を向けている。義父も同じように愛孫をみる好好爺のように破顔した。
髷を結い直し、烏帽子を被れば、可愛らしい童から凛々しい公達へと変わる。鶴見家の長子として、宮中の覇権を握る家門を率いていく。百之助の元服は鶴見家の更なる勢力拡大の一手となったのだった。
儀式が終われば皆に酒と食事を振る舞う。
父も母もそれは嬉しそうだ。祖父も嬉しそうに周りの貴族からの酌をもらっては杯を傾けている。皆が宴を楽しむ最中で、百之助はそっと自身の襟足に手を当てた。引き結んだ髪とかたい烏帽子の感触。それを確かめるとわずかに口端を上げた。
夜が更けてくれば、酒が進み皆が思い思いに語り合うようになる。姿勢を崩しては歌を詠み始める者、侍女に声をかける者。そういう雰囲気になってくると母は奥へと下がり、あとは男達だけとなった。裏では相変わらず侍従共が忙しそうに駆け回っている。……ただ、忙しいだけというには顔を青ざめさせて。ちらり、と父をみれば目が合う。目配せをされ人目のない渡殿までやってくると、父は口を開いた。
「さくらが出掛けてしまったようだ。」
「一人で…ですか?」
屋敷を出たことがない妹だ。腹の底から冷えていく感覚に襲われる。世間知らずで見目も良い…騙してどこかへ売り飛ばすことだって。そこまで思考が進んだところで父が返答した。
「いや杢太郎が連れ出したそうだ。」
「あいつは…今日は体調がすぐれないから療養すると父上に嘘の言伝をしたのですね。」
卑しい妾腹の分際で。我らが父を愚弄し、鶴見家を軽く見ているのか。怒りが込み上げ、百之助のこめかみに筋が浮かんだ。
「大方、あのお転婆が頼んで断れなかったんだろう。だが、兄ならば妹を正しい道に導いてやるのも大切な務めだ。…百之助、お前は兄弟の中で唯一、私の後を継ぐ者だ。一族を…二人を正しい道へ導いてやってくれ。」
右大臣は百之助の肩を叩いた。百之助は敬愛する父に頼られた喜びで深くうなづいた。
「しかし、さくらには困りましたね。あれも裳着まで幾ばくもないというのに…」
百之助の言葉に右大臣は余裕の笑みを浮かべた。
「あれは空を舞う鳥と同じなのだ。飛べると分かってしまえば、どこまでも飛んでいってしまう。」
「ならば今よりも厳重に…」
「いいや、それではわずかな隙に今日のようなことが起こってしまう。だから、自ら籠に入るようにするんだよ。」
右大臣の笑みが毒を含んだものへと変わっていく。陰謀渦巻く宮中でのし上がってきた男の顔へ。
「人を従えるには大きく三つある。友好的に接し、または金銭で好意を得ること。その者自身の命が危険に晒された時。そして、家族や大切なモノの命が危険に晒された時。だが、お前が画策していると思われてはいけない。真意を真綿に包んで、そのかんばせで優しく囁き、汚れ仕事は人を介し、収穫はお前が手にする。…それを手にするには、まずは兄弟たちからだ。血の結束は何よりも尊い。」
右大臣は百之助と鼻が擦れるほどの距離まで顔を寄せた。
「どれが最も相応しいか。我が息子のお手並みを拝見させてもらおうか。」
百之助は、まず時重に事態を相談した。
「父上にとって大切な日」にお転婆な妹の我儘を宥めることもせず「本家に嘘をついて」夜の都へと姿を消してしまった、と。そうすれば時重は簡単に杢太郎への怒りを募らせた。これも父を慕っている。そこに火をつければ後は勝手にやってくれるだろう。
そして父が用意した「従者」に二人の居所まで馬で案内させた。破れかぶれの屋敷を進めば井戸の近くではしゃぐさくらと、それを優しい目で見つめる杢太郎がいた。
あれは危険だ。
あれは妹を見つめる目ではない…。
「あの男、悪びれもせず鶴見家の姫を連れ回して…」
呟くように言えば時重の琴線にふれたらしい。百之助と同じように、こめかみに大きく筋が浮かんだ。
あとの顛末は知ったものだ。
大切な兄を守るため、妹は自ら籠の中へ戻っていった。
屋敷に戻り、さくらは力尽きるように自室の寝室へとなだれ込んだ。兄はどうなるのか。さくらは牛車に乗り杢太郎と引き離されると、後は侍女達が駆け寄りそれは丁寧に身を清められ、着物を替えさせられた。誰かに杢太郎のことを聞きたくとも、事情を知るものはそばに侍ることはなかった。そして、父の住まう室へ向かおうとすれば、やんわりと侍女達に止められる。自身の対屋で過ごすより他なかった。百之助に外に出ない、と約束はしたが、自身の屋敷さえ満足に歩けないのか。不安と不満が入り混じった気持ちをどうすることもできずにいると、寝室の扉が開く音が聞こえた。うつ伏せになっていた体を入り口の方へと向けた。
「体がつらいのかい?さくら」
父である右大臣が眉を下げ心配そうな顔でこちらをうかがっている。
「お父様…!杢太郎お兄様は?!ご無事なのですか?!」
さくらは右大臣に縋るように、その足元へ体を寄せた。右大臣は娘の体を支えるように跪いた。
「心配ない。少し打ち身がある程度だから、安静にしていればすぐに良くなる。それより、お前は怪我はないかい?」
「私はなにも…。お父様、杢太郎お兄様は私のせいで時重お兄様に打たれたのです。よく手当をしてくださいませ。お兄様は悪くないの…。」
美しいかんばせが、宝石のような涙の粒で輝く。悲しみの表情でさえ我が娘ながら美しい。
「分かっているよ。あの子は優しいからね。それに、大切な妹に何かあったらと時重も気が気じゃなかったんだろう。兄達の思いは分かってくれるね?」
言い聞かせるとさくらは素直に頷いた。
「お前も大切な身の上だ。自分のことを大切にしておくれ。……私も知らせを聞いた時は生きた心地がしなかったよ。」
優しい父の瞳が悲しげに揺れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい父上。こんな大事になるなんて思わなかったの。少し町をみたらすぐに戻ろうと…帰り道に馬が突然暴れてしまって。」
「杢太郎の馬だろう。あの子の育てた子は賢く穏やかな馬のはずだよ。」
「帰るまではとても穏やかな馬でしたわ。それが帰る道を歩きはじめた途端に暴れ始めてしまって。人混みで怪我人が出なかっただけ幸いでしたけれど…」
そこまで言うと右大臣は少し思案するように顎を撫でた。しかし、すぐに良き父親の顔を娘に向けた。
「お前に何もなくて本当によかったよ。さあ、今日は疲れただろう。少し休みなさい。杢太郎は治療をしたら牛車で帰そう。」
父の言葉に安心するとさくらはほっと胸を撫で下ろした。
屋敷の中央、主殿の最も奥には右大臣が控え、その前に息子達三人が居並んでいた。右大臣は顔に傷の残る杢太郎に声を掛けた。
「傷の具合はどうだ?」
「父上!こんな奴の心配なんかする必要ありませんよ!」
時重は、鋭い視線を杢太郎に向けた。杢太郎は痛みを堪えながら深々と頭を下げた。
「…大切な姫君を危険に晒してしまい、大変申し訳ございません。」
その隣で百之助が鼻で笑った。
「鶴見家の大切な姫だと言うことは認識していたのか…お前にまだ正しい判断をする頭があってよかったよ。」
杢太郎は頭を下げたまま動かない。右大臣は兄弟達を宥めるように優しく語りかけた。
「さくらはまだまだお転婆だ。私たちで守ってやらなければならない。それは、分かるね?」
右大臣の言葉に杢太郎は顔を上げると頷いた。それに右大臣は言葉をつづける。
「これから屋敷に百之助の友人を招くことが増えるだろう。帝の伴侶となられる身は何よりも守らねばならない。」
「私たちが男共をしっかり見張りましょう!さくらに手を出すとは鶴見に…ひいては帝に仇なす大罪。私や兄上でしっかり出入りを固くしましょう。」
時重の言葉に百之助も是と頷いた。
「忍んで来られてはたまったものではないですからね。」
と、百之助はちらりと杢太郎に視線を向けた。暗に女房達の目をかいくぐってさくらのもとへ遊びに来ていた杢太郎へも向けられた言葉だった。それに気が付かない者は誰もいない。右大臣も深く頷いた。
「お前達が目を光らせてくれるならば安心だ。」
右大臣は杢太郎に視線を向けながら、そう言った。
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