白玉の露
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夜闇に馬を走らせていると、様々な匂いがさくらの鼻腔に届く。湿った土の香り、薪の燃える煙、煮炊きする食べ物の匂い。家々の間隔が狭くなるにつれ生活する者達の匂いが濃くなっていく。それと同じように聞こえてくる音も変わっていく。雅楽の雅な調べから、琵琶の音、笛の音、拍を打つ音、人々の笑い声。密度の濃い空間に近付くにつれ、さくらの期待感は高まっていった。
しばらく馬を走らせると人通りの多いところへと出た。日が暮れた道端には篝火が焚かれ、その合間に即席の露店が立ち並んでいる。
「やはり正月は賑わっているな。」
馬上から街の様子を見渡すと杢太郎が言った。
「今日は特別ですの?」
「ああ。いつもなら皆、床についているか家で内職をしているところだ。めでたい日だから祭をして、皆で年越しを祝うのさ。」
杢太郎に視線を向けると目尻を下げて我が事のように嬉しそうにしている。兄にとって市中の者たちは、身分は違えど気にかける存在だということなのかもしれない。道ゆく人々は、皆が楽しそうに笑っている。立ち並ぶ露店の品々は素朴な食べ物や、少し鮮やかな布や糸、日常に使うような小物と雑多に立ち並んでいる。さくらは人々の様子を、馬上から降りて見てみようと身じろぎした。しかし、杢太郎はその体を支えるようにして引き留めた。
「この人混みではお前が潰されてしまうよ。」
確かに人混みは多いが、言うほどひしめき合っているような状況でもない。さくらはむっとして杢太郎に鋭い視線を向けた。
「迷子になるとでもお思い?お兄様、私、子供ではないわ。」
「……分かってるよ。だから心配なんだ。今日みたいな日は気が大きくなるものなんだよ。つまらん男に絡まれて嫌な思いをしてほしくない。」
困ったように眉を下げて杢太郎はさくらの顔を覗き込むようにして言った。
「お前の美しさに魅せられる者の気持ちも分かってくれ。」
そこまで言われてしまうと、さくらもその視線を和らげるより他ない。はあ、と小さく息をつくと「分かりました」としぶしぶ首を縦に振った。
杢太郎の体に背を預けてゆっくりと馬を進める。屋敷では感じることのない人々の活気。自然な表情。さくらの周囲にいる侍女や兄たちの侍従のつくる笑顔とは違う、ただ「今」を楽しむ人々の表情が輝いて見える。ここでならば、さくらも自分らしくいれるのかもしれない。親しい者たちと触れたいものに触れ、食べたいものを食し、笑い合う。そんな状況を想像するだけで、胸の中が温かくなった。
兄にとっても同じなのかもしれない。妾の子だ、などという身分を取り払って自分でいられる場所。だから、幾度も市中に出て、その人々に感情を寄せてしまうほど近しく感じてしまうのかもしれない。
「杢太郎お兄様、あれはなあに?」
ふと、店先で売られた朱色のものが気になった。筆の先のように尻すぼみした、食べ物のようなもの。
「あれは干し柿だな。秋のうちに取った柿を干して冬の間も食べられるようにしているんだよ。…少し待っててくれ。」
杢太郎は軽い身のこなしで馬から降りると店先で干し柿を買い求める。ひとつさくらに差し出した。深いしわの刻まれた干し柿。触れると干しあわびのような感触。少しかじると、みずみずしい柿よりも強い甘味が口の中に広がった。
「…おいしい!」
感嘆の声を上げると杢太郎も店主も嬉しそうに笑った。
「お姫様に褒めていただけるなんて嬉しいねぇ」
と破顔する店主。さくらはその言葉に内心、驚いていた。下女から借りた着物は、確実に身分を明らかにしている。町に溶け込める着物を準備していたはずなのだ。しかし…、杢太郎は驚いたさくらの表情に気がつくと、おかしそうに笑った。
「豊かな髪に健康的な体躯で下女と言うのは難しいな。お忍びの貴族の娘には見えるよ。」
そして口元を隠してさくらに近づくのに耳を傾けると、杢太郎は続きを小声で話した。
「まさか大臣様の娘とはだれも思わないだろうがな。」
「まあ…!」
兄は変装なんぞ意味がないことは初めから分かっていたのだ。その言葉を聞いて、なんだか色々と準備したのが恥ずかしくなってくる。
「さあ、今日は俺が侍従だ。好きなところへ連れて行きますよ、姫様。」
杢太郎が馬を引く。さくらは半ば開き直って、店で気になるものは「お兄様、あれは?」と次々と聞くようになった。見慣れぬ品を杢太郎は丁寧に説明してくれる。
「お兄様は博識ね。」
「放蕩息子なだけさ。」
軽口を言い合いながら、祭を楽しむ。この時間がずっと続けばいい。さくらはすこしでもこの時間が続くようにと願うことしかできなかった。しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。百之助の宴が終わる前に屋敷に戻らねばならない。進めていた馬の方向が転換される。来た道を戻らねばならない。さくらの表情が曇った。杢太郎は言いづらそうに声を上げた。
「そろそろ…帰ろう。皆が気付く前に部屋へ。」
そして杢太郎が馬に飛び乗った。行きと同じくさくらの後ろで支えるように二人並んで騎乗する。その瞬間、馬の尻を叩く様な音がしたのと同時に、馬がいななきとともに前足を上げた。誰かのいたずらか、確認したくともそれができる状況ではない。杢太郎はさくらを抱き込み、振り落とされないようにれするのが精一杯だった。馬の暴れ様に周囲からも人がはけていく。馬は首を振りながら思い切り駆けはじめた。二人は姿勢を低くして馬に縋りつくことしかできない。どこへ向かうのか。馬が落ち着くまでなすがままだ。馬は人通りの多い道から寂れた雰囲気の場所へと駆けていく。少しでも刺激の少ない場所へと本能的に進んでいる様だった。行きに駆けていた速度とは違い、二人の頬を鋭く刺す様な風が突き抜けていく。目を開けることさえできない。冷たさと頬の痛みと激しい揺れ。それらをしばらく耐えていると、馬の速度が緩んできた。二人、姿勢を上げると、目の前には破れかぶれの廃屋と手付かずの草むらばかりある寂れた屋敷があった。…おそらく都の外れの方まで来てしまったのだろう。息の荒い馬の首を杢太郎が優しく撫でて落ち着かせる。
「少し水を飲ませてやろう。」
杢太郎は馬から降りると廃屋の中へと馬を引き入れて行った。まだ井戸が使えるかもしれない。その屋敷の隅にあった古井戸までやってくると、馬の上にいるさくらに手を差し出した。さくらはその胸に寄るように重心を下げる。それを抱き止めるように杢太郎はさくらを地面へ下ろした。
古井戸から水を汲めば、まだ使えそうだ。杢太郎は桶の水を手のひらで掬うと口につけた。味も問題ない。
「さくら…お前も少し飲むか?」
こんなところで汲んだ水を飲むなんて、女房に知られれば叱咤されるところである。しかし、ここには二人と馬一頭だけ。喉が乾けば自ら手ずで飲んだって誰も何も言わない。さくらは桶の水を覗き込んだ。月明かりが反射した水はきらきらと輝いて見える。その輝きに白い細い指を引き入れる。肌を刺すような冷たさに一瞬体が強張る。しかし、そのまま手のひらに水を掬って口元へと持って行った。手のひらに溜まった水を口に含ませた。冷たく、心なしか甘く感じる。
「…おいしいわ。」
呟くように口に出た言葉に杢太郎は困ったように笑った。
「…きっと喉が渇いてたんだ。屋敷の水も井戸からひいてるんだから、一緒のはずだぞ。」
そう言われてさくらはもう一度水を掬い上げて口にしてみる。
「やっぱり、おいしいわ。なんでかしら、手で飲む方がおいしいのかしら?」
しかし、屋敷で飲む味気ないただの水と違い、やはり甘く美味しく感じるのだ。
「そうか、……なにか、あるのだろうな。」
不思議に思っているさくらの様子にそれ以上何か言うこともなく、杢太郎は残りの水を馬にやった。馬は桶の水の飛沫が上がるほど勢いよく飲み始めた。
「おいおい、飛ばしすぎだ…!」
「いいの。宝石みたいでとっても綺麗。」
その飛び散った水滴が月の光に照らされてまるで宝石のようによう輝いて見える。さくらはその様子を熱心に見つめた。
杢太郎は言われるがまま馬のしたいように水を飲ませてやる。なんの特別でもない光景をさくらは興味深そうに見つめている。屋敷では、こんな光景でさえ、妹の目に触れることさえないのか。幼い頃から何にでも興味があった好奇心旺盛なこの子が、今では見られる世界はほんのわずかだ。今日を皮切りに百之助の交友が増えれば、さらにさくらの締め付けは増すだろう。自由に羽を伸ばし空を飛ぶ鳥が、その風切羽を奪われて、ただ美しさだけを愛でられる。
目の前で馬の様子を愛おしそうに見つめる様子をぼんやり見つめる。
……ここから自由になれたならば。
この娘は、真に心の底から幸せを感じられるのではないだろうか。
馬はある、ここから二人駆けていけば、どこにだって行けるだろう。
杢太郎の心の隅で、そのような考えが湧き出てきた。
「さくら……」
美しい妹の名を呼ぶ。馬へ向けていた優しげな表情がこちらへ向けられる。
「なあに?杢太郎お兄…」
そう言いかけたところでさくらの顔が強張った。視線の方へ顔を向けると、そこには二人の兄たちが立っていた。
「さくらいなくなって心配したじゃないか。お前はまだお転婆だなあ。」
時重が腰に手を当て、仕方ない奴だな!と呆れ顔で言った。
百之助の方はゆっくりとさくらの前へしゃがみ込むと心配そうな顔を浮かべた。その手がさくらの肩に触れた。
「体が冷たい。父上も心配している。早く屋敷へ戻ろう。」
「…はい、百之助お兄様。」
しぶしぶさくらは返事をする。百之助が肩を抱くようにしてさくらが立ち上がるのに体を支えてくれる。
「お前の身は何にも変え難い。何かあったらと、気が気でなかったよ」
さくらは耳元で聞こえる声が、自身を叱責するのではなく、優しげな声であることに居心地の悪さを感じる。余計に自分の行いを責められているようで、「…ごめんなさい、」と謝った。それに百之助は優しい声で返した。
「いいんだ、お前はまだ幼い。俺たち兄がしっかり導いてやらなきゃいけないんだ。」
百之助の言葉に続けるように時重が口を開いた。
「それを『こいつ』は怠ったんだよ。しかもわざわざ町に下りるなんて!」
時重は勢いよく杢太郎の腹を蹴った。不意のことで杢太郎は勢いのまま地面に転がった。時重は倒れた杢太郎に追い打ちをかけるように何度も足蹴にした。
「この日に合わせて!面倒ごとを起こすなんて!妾腹は頭が回らないのか!本当に馬鹿だな!!」
蹴られるのに抵抗するでもなく、杢太郎は痛みを堪えるようなくぐもった声を出すだけだ。さくらは二人の間に入ろうとするも、肩を抱いたままの百之助が、その手をぐっと肩に食い込ませた。
「あれは、仕方ないんだ。誰かが責を負わねば。」
「ならば…私です!お兄様、百之助お兄様、時重お兄様!私が悪いのです!今日ならば侍女たちの目を盗んで抜け出せるだろうと言ったのは私です!」
さくらが声を上げるも時重の暴行は止まない。鈍い音があたりに響く。時重の足が腹や胸、背中と狙っては勢いよく蹴っていく。とうとう杢太郎が地面に血を吐くと、さくらは悲鳴のような声で叫んだ。
「お願い…!もうやめて!…さくらが悪いのです!もう二度と外に出ません!二度と屋敷から出ません!だから…!」
そこまで言うと百之助が時重に「もういい」と声を掛けた。
「約束だ、さくら。」
百之助がさくらに優しく笑いかけた。その瞳には涙で頬を濡らした美しい娘が映っていた。
しばらく馬を走らせると人通りの多いところへと出た。日が暮れた道端には篝火が焚かれ、その合間に即席の露店が立ち並んでいる。
「やはり正月は賑わっているな。」
馬上から街の様子を見渡すと杢太郎が言った。
「今日は特別ですの?」
「ああ。いつもなら皆、床についているか家で内職をしているところだ。めでたい日だから祭をして、皆で年越しを祝うのさ。」
杢太郎に視線を向けると目尻を下げて我が事のように嬉しそうにしている。兄にとって市中の者たちは、身分は違えど気にかける存在だということなのかもしれない。道ゆく人々は、皆が楽しそうに笑っている。立ち並ぶ露店の品々は素朴な食べ物や、少し鮮やかな布や糸、日常に使うような小物と雑多に立ち並んでいる。さくらは人々の様子を、馬上から降りて見てみようと身じろぎした。しかし、杢太郎はその体を支えるようにして引き留めた。
「この人混みではお前が潰されてしまうよ。」
確かに人混みは多いが、言うほどひしめき合っているような状況でもない。さくらはむっとして杢太郎に鋭い視線を向けた。
「迷子になるとでもお思い?お兄様、私、子供ではないわ。」
「……分かってるよ。だから心配なんだ。今日みたいな日は気が大きくなるものなんだよ。つまらん男に絡まれて嫌な思いをしてほしくない。」
困ったように眉を下げて杢太郎はさくらの顔を覗き込むようにして言った。
「お前の美しさに魅せられる者の気持ちも分かってくれ。」
そこまで言われてしまうと、さくらもその視線を和らげるより他ない。はあ、と小さく息をつくと「分かりました」としぶしぶ首を縦に振った。
杢太郎の体に背を預けてゆっくりと馬を進める。屋敷では感じることのない人々の活気。自然な表情。さくらの周囲にいる侍女や兄たちの侍従のつくる笑顔とは違う、ただ「今」を楽しむ人々の表情が輝いて見える。ここでならば、さくらも自分らしくいれるのかもしれない。親しい者たちと触れたいものに触れ、食べたいものを食し、笑い合う。そんな状況を想像するだけで、胸の中が温かくなった。
兄にとっても同じなのかもしれない。妾の子だ、などという身分を取り払って自分でいられる場所。だから、幾度も市中に出て、その人々に感情を寄せてしまうほど近しく感じてしまうのかもしれない。
「杢太郎お兄様、あれはなあに?」
ふと、店先で売られた朱色のものが気になった。筆の先のように尻すぼみした、食べ物のようなもの。
「あれは干し柿だな。秋のうちに取った柿を干して冬の間も食べられるようにしているんだよ。…少し待っててくれ。」
杢太郎は軽い身のこなしで馬から降りると店先で干し柿を買い求める。ひとつさくらに差し出した。深いしわの刻まれた干し柿。触れると干しあわびのような感触。少しかじると、みずみずしい柿よりも強い甘味が口の中に広がった。
「…おいしい!」
感嘆の声を上げると杢太郎も店主も嬉しそうに笑った。
「お姫様に褒めていただけるなんて嬉しいねぇ」
と破顔する店主。さくらはその言葉に内心、驚いていた。下女から借りた着物は、確実に身分を明らかにしている。町に溶け込める着物を準備していたはずなのだ。しかし…、杢太郎は驚いたさくらの表情に気がつくと、おかしそうに笑った。
「豊かな髪に健康的な体躯で下女と言うのは難しいな。お忍びの貴族の娘には見えるよ。」
そして口元を隠してさくらに近づくのに耳を傾けると、杢太郎は続きを小声で話した。
「まさか大臣様の娘とはだれも思わないだろうがな。」
「まあ…!」
兄は変装なんぞ意味がないことは初めから分かっていたのだ。その言葉を聞いて、なんだか色々と準備したのが恥ずかしくなってくる。
「さあ、今日は俺が侍従だ。好きなところへ連れて行きますよ、姫様。」
杢太郎が馬を引く。さくらは半ば開き直って、店で気になるものは「お兄様、あれは?」と次々と聞くようになった。見慣れぬ品を杢太郎は丁寧に説明してくれる。
「お兄様は博識ね。」
「放蕩息子なだけさ。」
軽口を言い合いながら、祭を楽しむ。この時間がずっと続けばいい。さくらはすこしでもこの時間が続くようにと願うことしかできなかった。しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。百之助の宴が終わる前に屋敷に戻らねばならない。進めていた馬の方向が転換される。来た道を戻らねばならない。さくらの表情が曇った。杢太郎は言いづらそうに声を上げた。
「そろそろ…帰ろう。皆が気付く前に部屋へ。」
そして杢太郎が馬に飛び乗った。行きと同じくさくらの後ろで支えるように二人並んで騎乗する。その瞬間、馬の尻を叩く様な音がしたのと同時に、馬がいななきとともに前足を上げた。誰かのいたずらか、確認したくともそれができる状況ではない。杢太郎はさくらを抱き込み、振り落とされないようにれするのが精一杯だった。馬の暴れ様に周囲からも人がはけていく。馬は首を振りながら思い切り駆けはじめた。二人は姿勢を低くして馬に縋りつくことしかできない。どこへ向かうのか。馬が落ち着くまでなすがままだ。馬は人通りの多い道から寂れた雰囲気の場所へと駆けていく。少しでも刺激の少ない場所へと本能的に進んでいる様だった。行きに駆けていた速度とは違い、二人の頬を鋭く刺す様な風が突き抜けていく。目を開けることさえできない。冷たさと頬の痛みと激しい揺れ。それらをしばらく耐えていると、馬の速度が緩んできた。二人、姿勢を上げると、目の前には破れかぶれの廃屋と手付かずの草むらばかりある寂れた屋敷があった。…おそらく都の外れの方まで来てしまったのだろう。息の荒い馬の首を杢太郎が優しく撫でて落ち着かせる。
「少し水を飲ませてやろう。」
杢太郎は馬から降りると廃屋の中へと馬を引き入れて行った。まだ井戸が使えるかもしれない。その屋敷の隅にあった古井戸までやってくると、馬の上にいるさくらに手を差し出した。さくらはその胸に寄るように重心を下げる。それを抱き止めるように杢太郎はさくらを地面へ下ろした。
古井戸から水を汲めば、まだ使えそうだ。杢太郎は桶の水を手のひらで掬うと口につけた。味も問題ない。
「さくら…お前も少し飲むか?」
こんなところで汲んだ水を飲むなんて、女房に知られれば叱咤されるところである。しかし、ここには二人と馬一頭だけ。喉が乾けば自ら手ずで飲んだって誰も何も言わない。さくらは桶の水を覗き込んだ。月明かりが反射した水はきらきらと輝いて見える。その輝きに白い細い指を引き入れる。肌を刺すような冷たさに一瞬体が強張る。しかし、そのまま手のひらに水を掬って口元へと持って行った。手のひらに溜まった水を口に含ませた。冷たく、心なしか甘く感じる。
「…おいしいわ。」
呟くように口に出た言葉に杢太郎は困ったように笑った。
「…きっと喉が渇いてたんだ。屋敷の水も井戸からひいてるんだから、一緒のはずだぞ。」
そう言われてさくらはもう一度水を掬い上げて口にしてみる。
「やっぱり、おいしいわ。なんでかしら、手で飲む方がおいしいのかしら?」
しかし、屋敷で飲む味気ないただの水と違い、やはり甘く美味しく感じるのだ。
「そうか、……なにか、あるのだろうな。」
不思議に思っているさくらの様子にそれ以上何か言うこともなく、杢太郎は残りの水を馬にやった。馬は桶の水の飛沫が上がるほど勢いよく飲み始めた。
「おいおい、飛ばしすぎだ…!」
「いいの。宝石みたいでとっても綺麗。」
その飛び散った水滴が月の光に照らされてまるで宝石のようによう輝いて見える。さくらはその様子を熱心に見つめた。
杢太郎は言われるがまま馬のしたいように水を飲ませてやる。なんの特別でもない光景をさくらは興味深そうに見つめている。屋敷では、こんな光景でさえ、妹の目に触れることさえないのか。幼い頃から何にでも興味があった好奇心旺盛なこの子が、今では見られる世界はほんのわずかだ。今日を皮切りに百之助の交友が増えれば、さらにさくらの締め付けは増すだろう。自由に羽を伸ばし空を飛ぶ鳥が、その風切羽を奪われて、ただ美しさだけを愛でられる。
目の前で馬の様子を愛おしそうに見つめる様子をぼんやり見つめる。
……ここから自由になれたならば。
この娘は、真に心の底から幸せを感じられるのではないだろうか。
馬はある、ここから二人駆けていけば、どこにだって行けるだろう。
杢太郎の心の隅で、そのような考えが湧き出てきた。
「さくら……」
美しい妹の名を呼ぶ。馬へ向けていた優しげな表情がこちらへ向けられる。
「なあに?杢太郎お兄…」
そう言いかけたところでさくらの顔が強張った。視線の方へ顔を向けると、そこには二人の兄たちが立っていた。
「さくらいなくなって心配したじゃないか。お前はまだお転婆だなあ。」
時重が腰に手を当て、仕方ない奴だな!と呆れ顔で言った。
百之助の方はゆっくりとさくらの前へしゃがみ込むと心配そうな顔を浮かべた。その手がさくらの肩に触れた。
「体が冷たい。父上も心配している。早く屋敷へ戻ろう。」
「…はい、百之助お兄様。」
しぶしぶさくらは返事をする。百之助が肩を抱くようにしてさくらが立ち上がるのに体を支えてくれる。
「お前の身は何にも変え難い。何かあったらと、気が気でなかったよ」
さくらは耳元で聞こえる声が、自身を叱責するのではなく、優しげな声であることに居心地の悪さを感じる。余計に自分の行いを責められているようで、「…ごめんなさい、」と謝った。それに百之助は優しい声で返した。
「いいんだ、お前はまだ幼い。俺たち兄がしっかり導いてやらなきゃいけないんだ。」
百之助の言葉に続けるように時重が口を開いた。
「それを『こいつ』は怠ったんだよ。しかもわざわざ町に下りるなんて!」
時重は勢いよく杢太郎の腹を蹴った。不意のことで杢太郎は勢いのまま地面に転がった。時重は倒れた杢太郎に追い打ちをかけるように何度も足蹴にした。
「この日に合わせて!面倒ごとを起こすなんて!妾腹は頭が回らないのか!本当に馬鹿だな!!」
蹴られるのに抵抗するでもなく、杢太郎は痛みを堪えるようなくぐもった声を出すだけだ。さくらは二人の間に入ろうとするも、肩を抱いたままの百之助が、その手をぐっと肩に食い込ませた。
「あれは、仕方ないんだ。誰かが責を負わねば。」
「ならば…私です!お兄様、百之助お兄様、時重お兄様!私が悪いのです!今日ならば侍女たちの目を盗んで抜け出せるだろうと言ったのは私です!」
さくらが声を上げるも時重の暴行は止まない。鈍い音があたりに響く。時重の足が腹や胸、背中と狙っては勢いよく蹴っていく。とうとう杢太郎が地面に血を吐くと、さくらは悲鳴のような声で叫んだ。
「お願い…!もうやめて!…さくらが悪いのです!もう二度と外に出ません!二度と屋敷から出ません!だから…!」
そこまで言うと百之助が時重に「もういい」と声を掛けた。
「約束だ、さくら。」
百之助がさくらに優しく笑いかけた。その瞳には涙で頬を濡らした美しい娘が映っていた。