白玉の露
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灰色の雲が重たく広がる都の空。
ちらちらと雪が降り始め、鶴見家の庭はうっすらと雪化粧されていた。
正月は、宮中行事が連日連夜と行われる。右大臣ともなれば、その全てに参加をするため、当主は朝早くから夜深い宴の頃まで、宮中に通い詰めることとなる。しかし、今年はそれだけではない。鶴見家の長兄、百之助の元服の儀が行われるのだ。三が日を過ぎた頃と言っても、宮中の次は、高位貴族たちの年始の挨拶を出迎え、休む暇のない日程だ。その間を縫うように長兄の元服の儀が執り行われるのだ。めぼしい役職の者達は祝いにやって来る。宮中での勢力図はここでも反映されるのだ。だからこそ、鶴見家の権勢を示す絶好の機会に、右大臣を筆頭に鶴見家に仕える者達は準備に追われていた。
元旦から慌ただしく、屋敷の中はまるで戦場と化していた。しかし、屋敷の中心から離れた北西にある対屋は、その喧騒から離れてひっそりとしていた。
屋敷の最奥にある北西の対屋はさくらの居所だ。外界から守られるようにして建てられた対屋。そこから見える小さな中庭は四季折々の草木が植えられている。さくらが普段、「自然」と触れられるのは、この中庭だけだ。しかし、そこもさくらの身を第一に植栽が施されている。去年まで植えられていた柊木。今頃は白い可愛らしい花をつけてさくらの目を楽しませていたはずだった。それが、指先に小さな引っ掻き傷ができてから、父は柊木の根ごと抜き去ってしまった。
大切にされている。
父は忙しい中でもさくらの対屋に顔を出しては美しい布や鮮やかな紅を送ってくれる。そして好奇心旺盛な娘のために、宮中で起こった面白い話を聞かせてもくれる。しかし、さくらが傷付くことに関しては人一倍敏感だった。
そうして穴の空いた庭に紅白の梅が植えられ、今は固く実を閉ざしている。正月の様々な行事が落ち着き、屋敷に平穏が訪れる頃に、紅白の梅が咲き始める。白い雪だけが覆ってしまった庭に春がやってくる。それまで少しの辛抱だ。今日はさくらが御簾をあげて庇の下に出ても咎めるものは誰もいない。いつも口うるさい女房でさえ、宴の準備に駆り出されているのだ。束の間の一人の時間、庇の下の広い廊下に腰を下ろして、ぼんやりと雪の降るさまを見つめる。都の冬は体の芯から冷えるような寒さだ。火桶に抱きつきだくなるような寒さであるが、それさえもさくらにとっては、自身の身で四季を感じられるようで嬉しかった。
対屋を結ぶ渡殿から足音か近づいてくる。侍女達が戻ってきたのか、と目を遣ると、白地の直衣に蘇芳の深い赤がちらり、と目に映った。少年にしては背が高く、恰幅の良い体つき。さくらの慕う兄の一人である杢太郎が対屋へとやってきたのだ。
「なんだ、正月からつまらなそうだな。」
随分と砕けた物言いで杢太郎はさくらに声をかけた。
「だって、つまらないんですもの。お兄様、双六しましょう。貝合わせでもいいですわ。」
さくらも杢太郎の物言いを気にすることもなく、応える。
鶴見の本家に使える者、そして正当な血筋の兄達がいない場所では、杢太郎は親しげな様子を見せる。普段の堅苦しい接し方は、いわゆる「世間」用のものだ。母君の身分が幾分か落ちること、愛妾の子というのが杢太郎の鶴見家での言動を制限させている。さくらもそれはよく分かっている。だから、二人だけの、なんのしがらみも無い時間が一層、大切に思えてくる。
兄が唯一、この家で心を許してくれる。
優越感ともいえる気持ち。
小さな世界で生きるさくらにとって、女房達に内緒で、身分を超えて兄と戯れるのは、たいそう特別に感じられた。
「今日はいっそう寒いなぁ。」
杢太郎はさくらの隣に腰を下ろした。
「お兄様、今日は雪の中に咲く梅花のようね。お庭の景色みたい。」
「あの梅は正月も過ぎれば咲き始めるだろうな。香りを楽しみに、また忍んでこよう。」
「『あさひ』が怒りますよ。「私どもがご一緒できる時においでくださいませ!大切な御身なのですよ!」と、」
女房のあさひはさくらが幼少の頃より仕えている。さくらの奔放ぶりにも、杢太郎の柳のようなとらえ所のない態度にも、一番の気苦労をさせている。
「俺もあさひに心配をかけまい、と声をかけようと思っておるのだ。ただ、『間の悪い』ことに姿が見えん。」
神妙な表情だが、目が笑っている。その瞳がさくらの瞳を覗き込むようにしている。
「なんて『間の良い』ことですこと。」
そう返すと、二人して口端が上がる。
「今日は皆、忙しそうで丁度良かった。こうしてさくらと戯れられる。」
心底嬉しそうな笑顔がさくらに向けられる。百之助や時重とは違う、精悍さの中に見える甘い表情。なんとなく、直視するのが憚られ、ふい、と視線を庭の方へと向けた。
「杢太郎お兄様も、元服の儀にはいらっしゃるのでしょう?宴に…楽に…楽しそう。」
生まれてこの方、宴と呼ばれるものに参加が許されることはなかった。身内の小さな祝宴はあれど、多くの者が集う宴はさぞ華やかで、楽しいに違いない。
「…父上はお前の身を案じているんだよ。」
杢太郎は不自由を強いられるさくらの苦悩を知っているからこそ、歯切れの悪い物言いだ。幼いときは、一緒に蹴鞠をしたり、体を動かすことが好きな童だった。それが、入内の見込みが出てきた途端、さくらは慎ましい姫であることを求められた。
先ほどまで楽しそうに笑っていた顔に影が落ちる。雪のように透き通った肌に、けぶる様な黒いまつ毛の影が落ちる。
「お兄様達は沢山の方とお話しできて…日の光のもとで馬を走らせることもできる。お兄様が前にお話ししていた猿楽。それも、私は一生、目にすることができないのです。」
「あれは、下賎のものだよ。……土埃は舞うし、民達がひしめき合って息苦しいところだよ。」
「お兄様は、「あんな軽技、舞楽ではみられん!」と楽しそうにおっしゃっていたじゃない!」
「そ、それは……」
寒さで赤くなってきた頬を膨らませ、こちらを睨みつける。時重ほどではなくとも、兄弟だ。迫力はないが、言い出したら聞かないのはさくらにも言えることである。杢太郎がうーんと唸っていると、さくらは良いことを思いついたかのように声を上げた。
「元服の儀の日に少し姿を消しても、誰も気が付かないわ。」
「おい、まさか……」
我が妹ながら、突拍子のないことを考えついてしまった。焦った杢太郎はさくらを宥めるように言い含めた。
「近頃、唐の舞人が都にやってきたと聞く。その者たちも人とは思えん技を披露するらしい。父上に掛け合って、屋敷に連れてきてもらおう。」
これならば、興味をそらせるだろう。と思い口に出してみる。しかし、さくらは一瞬考えたそぶりを見せただけで、思いは変わらないようだ。
「私は外の世界が見てみたいのです。土埃の舞う猿楽が見てみたいのです。」
杢太郎は思わず額に手を当てて小さくため息をついた。
「…また、聞けぬことを」
「だって……!」
久しぶりに声を荒げる。珍しく思い、視線を遮っていた手をどかして、さくらの方に視線を向けた。
美しい玉のような瞳が涙を含んで、一層きらきらと輝いている。
少し成長して姫らしく落ち着いてきたと思ったが、皆の前ではうまく隠しているだけのようだ。こうして、堪えきれずに瞳を潤ませている。
さくらは絞り出すように言葉を続けた。
「百之助お兄様の元服が終われば、すぐに時重お兄様、杢太郎お兄様、……来年の今頃は、庇の下に出ることさえ叶わなくなるかもしれない。お父様のご様子を見れば、再来年の裳着を済ませてしまったら、部屋からも出られず、梅の木に触れることも憚られることになるでしょう。」
まだ成人もしない頃から、外部との接触は避けられているのだ。兄達が政界へと進み、若い公達との付き合いが出てくれば、屋敷の中とてさくらの身の安全のために、この対屋は固く閉ざされるだろう。そして、裳着を済ませ、成人となれば……。
「一度でいいのです。」
さくらの手が杢太郎の手に重ねられる、小さくたおやかな手が日に焼けた無骨な手のひらをそっと握った。
「入内すれば、万に一つも籠から抜け出すことなど叶わないのです。」
美しい妹の懇願に、杢太郎は首を横に振ることができなかった。
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ちらちらと雪が降り始め、鶴見家の庭はうっすらと雪化粧されていた。
正月は、宮中行事が連日連夜と行われる。右大臣ともなれば、その全てに参加をするため、当主は朝早くから夜深い宴の頃まで、宮中に通い詰めることとなる。しかし、今年はそれだけではない。鶴見家の長兄、百之助の元服の儀が行われるのだ。三が日を過ぎた頃と言っても、宮中の次は、高位貴族たちの年始の挨拶を出迎え、休む暇のない日程だ。その間を縫うように長兄の元服の儀が執り行われるのだ。めぼしい役職の者達は祝いにやって来る。宮中での勢力図はここでも反映されるのだ。だからこそ、鶴見家の権勢を示す絶好の機会に、右大臣を筆頭に鶴見家に仕える者達は準備に追われていた。
元旦から慌ただしく、屋敷の中はまるで戦場と化していた。しかし、屋敷の中心から離れた北西にある対屋は、その喧騒から離れてひっそりとしていた。
屋敷の最奥にある北西の対屋はさくらの居所だ。外界から守られるようにして建てられた対屋。そこから見える小さな中庭は四季折々の草木が植えられている。さくらが普段、「自然」と触れられるのは、この中庭だけだ。しかし、そこもさくらの身を第一に植栽が施されている。去年まで植えられていた柊木。今頃は白い可愛らしい花をつけてさくらの目を楽しませていたはずだった。それが、指先に小さな引っ掻き傷ができてから、父は柊木の根ごと抜き去ってしまった。
大切にされている。
父は忙しい中でもさくらの対屋に顔を出しては美しい布や鮮やかな紅を送ってくれる。そして好奇心旺盛な娘のために、宮中で起こった面白い話を聞かせてもくれる。しかし、さくらが傷付くことに関しては人一倍敏感だった。
そうして穴の空いた庭に紅白の梅が植えられ、今は固く実を閉ざしている。正月の様々な行事が落ち着き、屋敷に平穏が訪れる頃に、紅白の梅が咲き始める。白い雪だけが覆ってしまった庭に春がやってくる。それまで少しの辛抱だ。今日はさくらが御簾をあげて庇の下に出ても咎めるものは誰もいない。いつも口うるさい女房でさえ、宴の準備に駆り出されているのだ。束の間の一人の時間、庇の下の広い廊下に腰を下ろして、ぼんやりと雪の降るさまを見つめる。都の冬は体の芯から冷えるような寒さだ。火桶に抱きつきだくなるような寒さであるが、それさえもさくらにとっては、自身の身で四季を感じられるようで嬉しかった。
対屋を結ぶ渡殿から足音か近づいてくる。侍女達が戻ってきたのか、と目を遣ると、白地の直衣に蘇芳の深い赤がちらり、と目に映った。少年にしては背が高く、恰幅の良い体つき。さくらの慕う兄の一人である杢太郎が対屋へとやってきたのだ。
「なんだ、正月からつまらなそうだな。」
随分と砕けた物言いで杢太郎はさくらに声をかけた。
「だって、つまらないんですもの。お兄様、双六しましょう。貝合わせでもいいですわ。」
さくらも杢太郎の物言いを気にすることもなく、応える。
鶴見の本家に使える者、そして正当な血筋の兄達がいない場所では、杢太郎は親しげな様子を見せる。普段の堅苦しい接し方は、いわゆる「世間」用のものだ。母君の身分が幾分か落ちること、愛妾の子というのが杢太郎の鶴見家での言動を制限させている。さくらもそれはよく分かっている。だから、二人だけの、なんのしがらみも無い時間が一層、大切に思えてくる。
兄が唯一、この家で心を許してくれる。
優越感ともいえる気持ち。
小さな世界で生きるさくらにとって、女房達に内緒で、身分を超えて兄と戯れるのは、たいそう特別に感じられた。
「今日はいっそう寒いなぁ。」
杢太郎はさくらの隣に腰を下ろした。
「お兄様、今日は雪の中に咲く梅花のようね。お庭の景色みたい。」
「あの梅は正月も過ぎれば咲き始めるだろうな。香りを楽しみに、また忍んでこよう。」
「『あさひ』が怒りますよ。「私どもがご一緒できる時においでくださいませ!大切な御身なのですよ!」と、」
女房のあさひはさくらが幼少の頃より仕えている。さくらの奔放ぶりにも、杢太郎の柳のようなとらえ所のない態度にも、一番の気苦労をさせている。
「俺もあさひに心配をかけまい、と声をかけようと思っておるのだ。ただ、『間の悪い』ことに姿が見えん。」
神妙な表情だが、目が笑っている。その瞳がさくらの瞳を覗き込むようにしている。
「なんて『間の良い』ことですこと。」
そう返すと、二人して口端が上がる。
「今日は皆、忙しそうで丁度良かった。こうしてさくらと戯れられる。」
心底嬉しそうな笑顔がさくらに向けられる。百之助や時重とは違う、精悍さの中に見える甘い表情。なんとなく、直視するのが憚られ、ふい、と視線を庭の方へと向けた。
「杢太郎お兄様も、元服の儀にはいらっしゃるのでしょう?宴に…楽に…楽しそう。」
生まれてこの方、宴と呼ばれるものに参加が許されることはなかった。身内の小さな祝宴はあれど、多くの者が集う宴はさぞ華やかで、楽しいに違いない。
「…父上はお前の身を案じているんだよ。」
杢太郎は不自由を強いられるさくらの苦悩を知っているからこそ、歯切れの悪い物言いだ。幼いときは、一緒に蹴鞠をしたり、体を動かすことが好きな童だった。それが、入内の見込みが出てきた途端、さくらは慎ましい姫であることを求められた。
先ほどまで楽しそうに笑っていた顔に影が落ちる。雪のように透き通った肌に、けぶる様な黒いまつ毛の影が落ちる。
「お兄様達は沢山の方とお話しできて…日の光のもとで馬を走らせることもできる。お兄様が前にお話ししていた猿楽。それも、私は一生、目にすることができないのです。」
「あれは、下賎のものだよ。……土埃は舞うし、民達がひしめき合って息苦しいところだよ。」
「お兄様は、「あんな軽技、舞楽ではみられん!」と楽しそうにおっしゃっていたじゃない!」
「そ、それは……」
寒さで赤くなってきた頬を膨らませ、こちらを睨みつける。時重ほどではなくとも、兄弟だ。迫力はないが、言い出したら聞かないのはさくらにも言えることである。杢太郎がうーんと唸っていると、さくらは良いことを思いついたかのように声を上げた。
「元服の儀の日に少し姿を消しても、誰も気が付かないわ。」
「おい、まさか……」
我が妹ながら、突拍子のないことを考えついてしまった。焦った杢太郎はさくらを宥めるように言い含めた。
「近頃、唐の舞人が都にやってきたと聞く。その者たちも人とは思えん技を披露するらしい。父上に掛け合って、屋敷に連れてきてもらおう。」
これならば、興味をそらせるだろう。と思い口に出してみる。しかし、さくらは一瞬考えたそぶりを見せただけで、思いは変わらないようだ。
「私は外の世界が見てみたいのです。土埃の舞う猿楽が見てみたいのです。」
杢太郎は思わず額に手を当てて小さくため息をついた。
「…また、聞けぬことを」
「だって……!」
久しぶりに声を荒げる。珍しく思い、視線を遮っていた手をどかして、さくらの方に視線を向けた。
美しい玉のような瞳が涙を含んで、一層きらきらと輝いている。
少し成長して姫らしく落ち着いてきたと思ったが、皆の前ではうまく隠しているだけのようだ。こうして、堪えきれずに瞳を潤ませている。
さくらは絞り出すように言葉を続けた。
「百之助お兄様の元服が終われば、すぐに時重お兄様、杢太郎お兄様、……来年の今頃は、庇の下に出ることさえ叶わなくなるかもしれない。お父様のご様子を見れば、再来年の裳着を済ませてしまったら、部屋からも出られず、梅の木に触れることも憚られることになるでしょう。」
まだ成人もしない頃から、外部との接触は避けられているのだ。兄達が政界へと進み、若い公達との付き合いが出てくれば、屋敷の中とてさくらの身の安全のために、この対屋は固く閉ざされるだろう。そして、裳着を済ませ、成人となれば……。
「一度でいいのです。」
さくらの手が杢太郎の手に重ねられる、小さくたおやかな手が日に焼けた無骨な手のひらをそっと握った。
「入内すれば、万に一つも籠から抜け出すことなど叶わないのです。」
美しい妹の懇願に、杢太郎は首を横に振ることができなかった。
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