白玉の露
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五節の舞の後、五人の姫君の大層華やかな様子は、宮中で瞬く間に話題となった。特に右大臣家が屋敷で大切に育てていた、宝珠とも言える姫君が表舞台へやって来たのだ。巷では、さぞ美しい姫君だろうと言う者もいれば、影では表に出せぬほどの醜女に違いないと浅はかなことを口にする者もいた。しかし、蓋を開けてみれば、まるで天女かという煌びやかな姫君達が現れたのだ。その中でも一層、光り輝く美しさを放つ姫が一人。それが右大臣家の姫君、さくらであることは誰が見ても明らかであった。宴に参加していた公卿たちは想像以上の美しさに、瞬きをするのさえ忘れて舞を観入っていたほどだった。裳着を済ませぬ姫があれほどの美しさなのだ。輿入れとなる頃にはどれほどの美貌となるのだろうか。宮中ではその話題で持ちきりであった。
そうして人々が首を長くしていた輿入れであったが、あっという間に数年が過ぎ、さまざまな準備が整い、目前となった。
篤志郎は輿入れ前夜、美しい妻と共に、月見酒を楽しんでいた。激務の役職の右大臣が屋敷で時間を過ごせるのも僅かだ。明日になれば輿入れのため、忙しくなる。実家から送り出すならばまだいいが、今回は方違えのおかげで妻の実家からの輿入れとなる。そこに篤志郎自ら指揮をとって居座るのも、養父の顔を立てるために憚られたのだった。そのため、一夜ばかりの休息と、妻と晩酌をしているのである。
さくらに似た玉のような肌に美しい黒髪。しかし、さくらの人々をかしづかせるような雰囲気とは違い、ふわりと真綿のような優しげな雰囲気を持っている。篤志郎は空いた盃を妻に満たしてもらいながら、その姿をまじまじと見つめた。その視線に気がつき、恥ずかしそうに目を下げる。長いまつ毛が柔らかな頬に影を落としている。
「…君は、美しいな。」
ため息のように溢れた言葉で、女の頬に赤みが差した。篤志郎は妻の赤くなった顔に手を添えると、自身の顔を近づけた。
「…私の愛しい人」
篤志郎は熱っぽく囁いた。形のいい唇が近づいてくると、女は従順に瞳を閉じた。互いの唇が重なる時、篤志郎は冷ややかな目で目の前の女を見つめていた。しかし、愛しい妻は気がつく事はない。自身もただ良質な駒を生み出すためのひとつに過ぎないのだと。
次男の時重の元服が済み、兄と同じく宮中での職につき、政の基盤を整えた。さくらのそばに侍らせていた姫君たちは、右大臣の思し召し通りの婚姻を結ぶもの、宮中でのさくらの身の回りを任せるもの。全ては右大臣の采配通りに事は動いていた。もちろん、美しく成長したさくらはひとつの傷もない、白魚のような手に、濡羽色の豊かな黒髪に、愛らしいかんばせで。五節の舞で出会った東宮との関係も良好だ。これから、さらに鶴見の世が盤石となる。
重なった唇から熱い息が漏れる。女は息が上がってくると、くぐもった声を出しながら、瞳を開けた。篤志郎は熱っぽく目を潤ませる妻に、同じように熱のこもった目線を向けた。この世で一番、愛おしいというように、美しい髪を撫でると、そのまま二人の影は闇夜に溶けるように沈んでいった。
同じく、月夜に空を見上げる美しい姫君が一人。
母の生家で一夜を過ごすことになったさくらは、明日の輿入れを目前に眠れずにいた。五節の舞で初めてお声がけくださった東宮様。あの優しげな声を思い出すと、自然と胸の奥が暖かくなる。膝で眠っている小鞠を撫でながら、その首につけられた赤い首輪に触れる。ちりん、と軽やかな鈴の音が響いた。その音に目が覚めた小毬が迷惑だとでもいうように短く鳴いた。そして、軽快な動きでさくらの膝から飛び退くと、そのまま欄干を伝って室から出ていってしまう。
「あ、どこへ行くの」
追いかけようと腰を上げたところで、小鞠の動きの方が早く、一瞬で行方が分からなくなってしまう。土地勘のない場所で迷子になってしまえば、探す事も難しい。可愛がっていた小鞠を失うことを考えると頭の先から血の気が引いていく。東宮様がお望みであった、小鞠との輿入れ。共に愛猫を愛でなから二人の仲を育んでいきたい。期待を込めた気持ちも少なからずあった。しかし、それ以上に、日々を共に過ごしてきた愛しい存在を失ってしまう、という可能性に胸が引き裂かれそうだ。さくらは瞳に涙を浮かべ、小毬が走っていた方へ外廊下を進んでいく。もう人の寝静まった時間帯だ。聞きなれた鈴の音に耳を澄ますようにしていると、廊下の角で見知らぬ男の胸に飛び込むような形でぶつかってしまった。
見上げれば、日に焼けた精悍な顔つきの公達。さくらは別の意味で背筋が凍った。母の家では決している筈のない若い公達。それが侵入者であることは明白だった。…まさか、このような日に。恐怖で動けずにいると、男が口を開いた。
「…さくら、か?」
低く甘さを含んだ声。そこらの侍女達であれば色めき立つような色気を放つ男であるが、このような目立つ容姿でさくらを呼び捨てにするような関係性の公達など、…よほどわきまえぬ者か、それさえ気にならぬような粗暴者でしかない。
…助けを呼ばなければ。
さっと、視線を外したさくらの様子にいち早く気がついた男は、その小さな口に自身の手のひらを重ねた。顔半分を覆うかというような節張った手。そこから、見知った香の香りがする。いつも欠かさずつけている梅の香り……。
「俺だ、杢太郎だ。…ここで暴れるのは得策じゃないだろ?」
杢太郎の言葉に、さくらは頷いた。さくらが騒がないと分かると杢太郎は手のひらを離した。
「お兄様、なぜこちらへ…?」
「可愛い妹の門出だ、いつものように抜け出してきたのさ。」
少年の頃のように悪戯っぽく笑う。それが昔の兄の面影を思い出させた。
「しかし、こんな夜更けに相変わらずお転婆だな。どこにいくつもりだったんだ?」
「もうそんな歳ではありませんわ。輿入れに連れていくとお約束した猫を…探しているのです。白猫の赤い首輪をした小鞠と言うんです…大切な子なの。知らぬ屋敷で迷子になってはもう二度と会えないかもしれないわ…」
小鞠を失うことを想像するだけでさくらの瞳には涙が浮かんでくる。それを見ると、杢太郎は安心させるように言い聞かせた。
「俺の従者に探させよう。お前が出歩いていては皆が驚いてしまう。さあ、戻ろう。」
杢太郎は付き従わせていた従者に目配せをすると、すぐさま闇へと駆けていった。
「さくらが大切に思っている事は、きっと小鞠を分かっている。明日には何事もなく戻ってくるだろうさ。俺の従者も屋敷を見て回るし、お前はゆっくり休むんだ。」
「ええ、そうね…。小鞠は賢い子だもの。きっと戻ってくるわ…。」
自身に言い聞かせるように呟く。不安げな様子のさくらを室まで送る。そして、さくらは杢太郎と向き合うように腰を下ろした。遠く伊勢から輿入れの祝いにやってきてくれたのだ。きっと父に叱責されるだろうが、一番心を許していた兄に祝ってもらえるのだ。今夜くらい、侍女達も多めに見て口を噤んでくれるだろう。そう思い、さくらはもてなしの準備をさせようと口を開いたところで、杢太郎が顔を突き合わせるように距離を詰めた。
「気遣いは無用だ。」
いつも優しげな目をしていた兄ではない。硬い口調と視線の鋭さがさくらの心をざわつかせた。
「…俺は招かれるような相手じゃない。」
そう言うと杢太郎はさくらを軽々と抱き上げ寝所へと向かった。
そうして人々が首を長くしていた輿入れであったが、あっという間に数年が過ぎ、さまざまな準備が整い、目前となった。
篤志郎は輿入れ前夜、美しい妻と共に、月見酒を楽しんでいた。激務の役職の右大臣が屋敷で時間を過ごせるのも僅かだ。明日になれば輿入れのため、忙しくなる。実家から送り出すならばまだいいが、今回は方違えのおかげで妻の実家からの輿入れとなる。そこに篤志郎自ら指揮をとって居座るのも、養父の顔を立てるために憚られたのだった。そのため、一夜ばかりの休息と、妻と晩酌をしているのである。
さくらに似た玉のような肌に美しい黒髪。しかし、さくらの人々をかしづかせるような雰囲気とは違い、ふわりと真綿のような優しげな雰囲気を持っている。篤志郎は空いた盃を妻に満たしてもらいながら、その姿をまじまじと見つめた。その視線に気がつき、恥ずかしそうに目を下げる。長いまつ毛が柔らかな頬に影を落としている。
「…君は、美しいな。」
ため息のように溢れた言葉で、女の頬に赤みが差した。篤志郎は妻の赤くなった顔に手を添えると、自身の顔を近づけた。
「…私の愛しい人」
篤志郎は熱っぽく囁いた。形のいい唇が近づいてくると、女は従順に瞳を閉じた。互いの唇が重なる時、篤志郎は冷ややかな目で目の前の女を見つめていた。しかし、愛しい妻は気がつく事はない。自身もただ良質な駒を生み出すためのひとつに過ぎないのだと。
次男の時重の元服が済み、兄と同じく宮中での職につき、政の基盤を整えた。さくらのそばに侍らせていた姫君たちは、右大臣の思し召し通りの婚姻を結ぶもの、宮中でのさくらの身の回りを任せるもの。全ては右大臣の采配通りに事は動いていた。もちろん、美しく成長したさくらはひとつの傷もない、白魚のような手に、濡羽色の豊かな黒髪に、愛らしいかんばせで。五節の舞で出会った東宮との関係も良好だ。これから、さらに鶴見の世が盤石となる。
重なった唇から熱い息が漏れる。女は息が上がってくると、くぐもった声を出しながら、瞳を開けた。篤志郎は熱っぽく目を潤ませる妻に、同じように熱のこもった目線を向けた。この世で一番、愛おしいというように、美しい髪を撫でると、そのまま二人の影は闇夜に溶けるように沈んでいった。
同じく、月夜に空を見上げる美しい姫君が一人。
母の生家で一夜を過ごすことになったさくらは、明日の輿入れを目前に眠れずにいた。五節の舞で初めてお声がけくださった東宮様。あの優しげな声を思い出すと、自然と胸の奥が暖かくなる。膝で眠っている小鞠を撫でながら、その首につけられた赤い首輪に触れる。ちりん、と軽やかな鈴の音が響いた。その音に目が覚めた小毬が迷惑だとでもいうように短く鳴いた。そして、軽快な動きでさくらの膝から飛び退くと、そのまま欄干を伝って室から出ていってしまう。
「あ、どこへ行くの」
追いかけようと腰を上げたところで、小鞠の動きの方が早く、一瞬で行方が分からなくなってしまう。土地勘のない場所で迷子になってしまえば、探す事も難しい。可愛がっていた小鞠を失うことを考えると頭の先から血の気が引いていく。東宮様がお望みであった、小鞠との輿入れ。共に愛猫を愛でなから二人の仲を育んでいきたい。期待を込めた気持ちも少なからずあった。しかし、それ以上に、日々を共に過ごしてきた愛しい存在を失ってしまう、という可能性に胸が引き裂かれそうだ。さくらは瞳に涙を浮かべ、小毬が走っていた方へ外廊下を進んでいく。もう人の寝静まった時間帯だ。聞きなれた鈴の音に耳を澄ますようにしていると、廊下の角で見知らぬ男の胸に飛び込むような形でぶつかってしまった。
見上げれば、日に焼けた精悍な顔つきの公達。さくらは別の意味で背筋が凍った。母の家では決している筈のない若い公達。それが侵入者であることは明白だった。…まさか、このような日に。恐怖で動けずにいると、男が口を開いた。
「…さくら、か?」
低く甘さを含んだ声。そこらの侍女達であれば色めき立つような色気を放つ男であるが、このような目立つ容姿でさくらを呼び捨てにするような関係性の公達など、…よほどわきまえぬ者か、それさえ気にならぬような粗暴者でしかない。
…助けを呼ばなければ。
さっと、視線を外したさくらの様子にいち早く気がついた男は、その小さな口に自身の手のひらを重ねた。顔半分を覆うかというような節張った手。そこから、見知った香の香りがする。いつも欠かさずつけている梅の香り……。
「俺だ、杢太郎だ。…ここで暴れるのは得策じゃないだろ?」
杢太郎の言葉に、さくらは頷いた。さくらが騒がないと分かると杢太郎は手のひらを離した。
「お兄様、なぜこちらへ…?」
「可愛い妹の門出だ、いつものように抜け出してきたのさ。」
少年の頃のように悪戯っぽく笑う。それが昔の兄の面影を思い出させた。
「しかし、こんな夜更けに相変わらずお転婆だな。どこにいくつもりだったんだ?」
「もうそんな歳ではありませんわ。輿入れに連れていくとお約束した猫を…探しているのです。白猫の赤い首輪をした小鞠と言うんです…大切な子なの。知らぬ屋敷で迷子になってはもう二度と会えないかもしれないわ…」
小鞠を失うことを想像するだけでさくらの瞳には涙が浮かんでくる。それを見ると、杢太郎は安心させるように言い聞かせた。
「俺の従者に探させよう。お前が出歩いていては皆が驚いてしまう。さあ、戻ろう。」
杢太郎は付き従わせていた従者に目配せをすると、すぐさま闇へと駆けていった。
「さくらが大切に思っている事は、きっと小鞠を分かっている。明日には何事もなく戻ってくるだろうさ。俺の従者も屋敷を見て回るし、お前はゆっくり休むんだ。」
「ええ、そうね…。小鞠は賢い子だもの。きっと戻ってくるわ…。」
自身に言い聞かせるように呟く。不安げな様子のさくらを室まで送る。そして、さくらは杢太郎と向き合うように腰を下ろした。遠く伊勢から輿入れの祝いにやってきてくれたのだ。きっと父に叱責されるだろうが、一番心を許していた兄に祝ってもらえるのだ。今夜くらい、侍女達も多めに見て口を噤んでくれるだろう。そう思い、さくらはもてなしの準備をさせようと口を開いたところで、杢太郎が顔を突き合わせるように距離を詰めた。
「気遣いは無用だ。」
いつも優しげな目をしていた兄ではない。硬い口調と視線の鋭さがさくらの心をざわつかせた。
「…俺は招かれるような相手じゃない。」
そう言うと杢太郎はさくらを軽々と抱き上げ寝所へと向かった。
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