白玉の露
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今は昔、どの帝の御代であったか。
藤原の旧臣達が揃う宮中でひときわ異彩を放つ男がいた。歳若くして右大臣へと上り詰め、人々の羨望を向けられていた。古くは天皇に下賜された大伴の源流をくむのだか、古くから神事に関わる系譜の上にあるだとか、噂は後を経たない。それだけ「鶴見」という字は珍しく、その名を持つ男の業績も計り知れないものがあったのは間違いない。
時の権力をほしいままにする鶴見のお屋敷では、子供たちが舟釣りに興じていた。広大な庭にあつらえた巨大な池に小舟を浮かべ、童が三人、船頭を連れて船の上に立っている。質の良い水干は、初夏の爽やかさを感じる白や青、若葉色で、一見しても育ちの良さがわかる身なりである。しかし、手にしているのは簡素な釣竿で、船頭が用意したのであろうか、それを池に投げ入れては上げてを繰り返している。
二人の童は光るような美しい白い肌を太陽に輝かせ、幼い手には釣り竿が重いのか、扱いに苦心している。対して、少し背の高い童は日に焼け、幼いながらに体躯の良さから難なく魚を釣り上げている。
背の高い童が釣り上げると、船頭や近くの従者たちから喜びの声が上がる。それに不満そうに口を尖らせるのは、二人の童である。
「つまらん、なぜ杢太郎ばかり釣れるのだ。」
「…ただ暑いだけだ。」
キリッとした瞳の童が癇癪を起こし始める。もう一人の気だるげな方は、つまらなそうに水干の飾りをいじっては暇を潰し始めた。
……こうなってはまずい。
特に時重の方は苛立ちが募ってくると所構わず暴れ回る。今はぶつくさ言うだけだが、船の上で暴れられてはひとたまりもない。周りにいた従者たちも今後の展開が予想されたのか、顔を青くしている。
時の権力者、鶴見家の次兄を濡れ鼠にさせ、長兄まで巻き込んで溺れたなどどいう日には…皆、無意識に自身の首元をさすった。
「時重様、釣りにはコツがあるんです。…ほらあそこ。」
一人、背の高い杢太郎が時重に話しかける。時重は杢太郎が指し示した方へ顔を向けた。
「なんだ?あそこにいるのか?」
「魚も釣られとうありません。だから岩の影に身を隠しているんですよ。よく見てください。」
先ほどまでの癇癪がなりをひそめ、時重は岩陰の方を熱心に見つめる。すると、小さく水面に波紋が生まれた。
「あそこにおるのか!」
「さあ、一緒に投げましょう。百之助様も一緒に。ほら、船頭も手伝え。」
杢太郎は時重の釣竿を一緒に握った。そして船頭に声をかけると、慌てて百之助の釣竿を同じく岩陰へと放った。しばらくゆっくりと餌が落ちていく。そこで二人の釣り竿が大きくしなった。
「かかった!」
「……っ!!」
二人は期待するように目を輝かせる。…これは失敗できない。杢太郎も船頭も必死になって二人の竿を引き上げる。重みが腕にかかる。これは大きい。そして二人の竿が引き上がると、見事な錦鯉が釣り上がった。船の上で二匹の鯉がびたびたと跳ねる。周りの従者たちは先ほどよりも大きな歓声で「お見事でございます!」「立派でございます!」「ようございました!」などと四方から声をかけた。童たちも満更ではないようで、自身の戦果に満足そうだ。
その様子を張り出した釣殿で鑑賞している、幼い姫君とお付きの女房や侍女たちがいた。一つ上がった畳の上で幼い姫が興味津々で身を乗り出して兄たちの様子を見つめている。
「すごいわ、あんなに大きな魚を…!」
「姫様、はしたのうございます…!」
すぐに側付きの女房から一言がふる。姫は仕方なく「はぁい…」と返事をして、座についた。左右では侍女が軽やかな絹を張った扇で姫の涼をとっている。
「でも、お兄様たちだけ…羨ましい。」
外に出て、日の光を浴び、涼やかな水面に手を入れて…。
「さくら姫様は次期天皇にお仕えする大切な身でございますれば。」
言い募る女房の言葉を遮るようにさくらが言葉を重ねた。
「尊い中宮の身分になられるのですから、危ないことはお控えくださいませ、でしょ。分かっているわ。言ってみただけだもの。」
年嵩の女房は、ふうと小さくため息をついた。さくらが赤子から歩けるようになる頃には、すでに傍で女房として仕えている。姫の性格を知っているからこそ、ため息もつきたくなるのだ。幼い頃はおてんばで、鞠を蹴ってはケタケタと笑っていた。兄たちの遊び道具によく興味を示す幼子だった。だからこそ、「言ってみた」だけではない、ということは骨身に染みてよく分かっているのだ。
しかし、姫の窮屈さも分かっている。
深窓の姫として、屋敷の奥で過ごすことを強制され、兄たち以外、関わり合いのある同年代の子供は一人もいない。姫はまだ裳着もすませぬ子供なのだ。本当ならば、他の貴族の娘たちのように、もっと伸び伸びと過ごしたいと思うのは当たり前のことだろう。…ただ、個人の感情だけで側仕えは続けられない。ここは「大殿」のご意向が第一に優先されるからだ。
未来の天皇の妃として、一つの傷も、醜聞も、あってはならない。
それが、右大臣様の思し召しだ。仕える身の上として、それに逆らうことなどできようか。自身のままならぬ思いを消すように女房は短く息を吐いた。
「さ、姫様。兄君たちがいらっしゃいますよ」
そう声をかけると、さくらは目をキラキラさせ、今か今かと体をうずうずさせはじめる。
二人の兄は従者に先ほどの鯉を持たせている。従者は白木の献上台を恭しく頭の上にあげて、兄たちの後ろを歩いてくる。さくらの待つ釣殿へとやってくると、二人の兄は童ながらも貴族らしい立ち居振る舞いで裾をさばき、さくらの前へ座した。ついで杢太郎は二人の下座へと座った。そこへ献上台へ乗せられた二匹の鯉が現れた。最初に口を開いたのは時重だった。得意げな顔でさくらに話し始める。
「大きいだろう。きっとここの主に違いないぞ!」
時重は喜色を讃えた笑みを浮かべている。すでに機嫌は治ったようだ。
「時重お兄様、すごいですわ。こんなに大きな鯉は見たことがありませんもの」
釣り上げられた鯉は湿った鱗がてらてらと光っている。美しい色彩に思わず手を触れたくなるが、さくらはそれを抑えるように檜扇を握った。ついで百之助も口を開いた。
「…鯉は天に登れば龍になると聞く。縁起がいい。」
「百之助お兄様は、博識でいらっしゃいますのね。その鯉が二匹も釣れたのはすごいことですわ。」
妹からの称賛の声に二人の兄は嬉しそうに頬を緩ませる。
「それで、杢太郎お兄様がお持ちの手水鉢は?」
杢太郎は従者もつれず、己でものを運んで来ていた。腹違いの、しかも愛妾の息子となれば、待遇も変わってこよう。しかし、杢太郎はそれを気にするそぶりも見せず、漆で黒く光る手水鉢を抱えてさくらの目の前へとやって来た。女房の「距離をお考えくださいませ」の声は頭の隅においやられているのか、素知らぬふりでさくらに中を見せるように畳の前までやって来た。
「まあっ!」
さくらは手水鉢の中を覗き込むと感嘆の声をあげた。手水鉢の中には、薄紅の蓮の花が気持ちよさそうに水面に揺れている。
「庭に咲いていた蓮の花です。」
「綺麗」
思わずさくらが手を触れようとすると、女房の方からきつい視線が飛んでくる。それを杢太郎の方が落ち着かせるように声をかけた。
「水は綺麗な井戸水に移し替えましたから、大丈夫ですよ。お召し物を濡らさないように、さあ」
杢太郎がさくらの袖を持ってやり、その好意に甘えて蓮の花に指を滑らせた。
「水で育つ花は、感触が瑞々しいのね。」
楽しそうに花を愛でる様子を杢太郎は近くで微笑ましく見つめる。百之助と時重は杢太郎にさくらの関心を持って行かれてしまい、いい気はしなかったが、妹の楽しそうな表情が見られ、やはり嬉しそうだ。
四人の子供たちのやりとりに、周囲の侍従たちは微笑ましそうに顔を緩ませた。鶴見家の隆盛はいつまでも続くものであると、皆、信じて疑わなかった。
ある日、杢太郎とさくらが姿を消してしまうまでは。
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藤原の旧臣達が揃う宮中でひときわ異彩を放つ男がいた。歳若くして右大臣へと上り詰め、人々の羨望を向けられていた。古くは天皇に下賜された大伴の源流をくむのだか、古くから神事に関わる系譜の上にあるだとか、噂は後を経たない。それだけ「鶴見」という字は珍しく、その名を持つ男の業績も計り知れないものがあったのは間違いない。
時の権力をほしいままにする鶴見のお屋敷では、子供たちが舟釣りに興じていた。広大な庭にあつらえた巨大な池に小舟を浮かべ、童が三人、船頭を連れて船の上に立っている。質の良い水干は、初夏の爽やかさを感じる白や青、若葉色で、一見しても育ちの良さがわかる身なりである。しかし、手にしているのは簡素な釣竿で、船頭が用意したのであろうか、それを池に投げ入れては上げてを繰り返している。
二人の童は光るような美しい白い肌を太陽に輝かせ、幼い手には釣り竿が重いのか、扱いに苦心している。対して、少し背の高い童は日に焼け、幼いながらに体躯の良さから難なく魚を釣り上げている。
背の高い童が釣り上げると、船頭や近くの従者たちから喜びの声が上がる。それに不満そうに口を尖らせるのは、二人の童である。
「つまらん、なぜ杢太郎ばかり釣れるのだ。」
「…ただ暑いだけだ。」
キリッとした瞳の童が癇癪を起こし始める。もう一人の気だるげな方は、つまらなそうに水干の飾りをいじっては暇を潰し始めた。
……こうなってはまずい。
特に時重の方は苛立ちが募ってくると所構わず暴れ回る。今はぶつくさ言うだけだが、船の上で暴れられてはひとたまりもない。周りにいた従者たちも今後の展開が予想されたのか、顔を青くしている。
時の権力者、鶴見家の次兄を濡れ鼠にさせ、長兄まで巻き込んで溺れたなどどいう日には…皆、無意識に自身の首元をさすった。
「時重様、釣りにはコツがあるんです。…ほらあそこ。」
一人、背の高い杢太郎が時重に話しかける。時重は杢太郎が指し示した方へ顔を向けた。
「なんだ?あそこにいるのか?」
「魚も釣られとうありません。だから岩の影に身を隠しているんですよ。よく見てください。」
先ほどまでの癇癪がなりをひそめ、時重は岩陰の方を熱心に見つめる。すると、小さく水面に波紋が生まれた。
「あそこにおるのか!」
「さあ、一緒に投げましょう。百之助様も一緒に。ほら、船頭も手伝え。」
杢太郎は時重の釣竿を一緒に握った。そして船頭に声をかけると、慌てて百之助の釣竿を同じく岩陰へと放った。しばらくゆっくりと餌が落ちていく。そこで二人の釣り竿が大きくしなった。
「かかった!」
「……っ!!」
二人は期待するように目を輝かせる。…これは失敗できない。杢太郎も船頭も必死になって二人の竿を引き上げる。重みが腕にかかる。これは大きい。そして二人の竿が引き上がると、見事な錦鯉が釣り上がった。船の上で二匹の鯉がびたびたと跳ねる。周りの従者たちは先ほどよりも大きな歓声で「お見事でございます!」「立派でございます!」「ようございました!」などと四方から声をかけた。童たちも満更ではないようで、自身の戦果に満足そうだ。
その様子を張り出した釣殿で鑑賞している、幼い姫君とお付きの女房や侍女たちがいた。一つ上がった畳の上で幼い姫が興味津々で身を乗り出して兄たちの様子を見つめている。
「すごいわ、あんなに大きな魚を…!」
「姫様、はしたのうございます…!」
すぐに側付きの女房から一言がふる。姫は仕方なく「はぁい…」と返事をして、座についた。左右では侍女が軽やかな絹を張った扇で姫の涼をとっている。
「でも、お兄様たちだけ…羨ましい。」
外に出て、日の光を浴び、涼やかな水面に手を入れて…。
「さくら姫様は次期天皇にお仕えする大切な身でございますれば。」
言い募る女房の言葉を遮るようにさくらが言葉を重ねた。
「尊い中宮の身分になられるのですから、危ないことはお控えくださいませ、でしょ。分かっているわ。言ってみただけだもの。」
年嵩の女房は、ふうと小さくため息をついた。さくらが赤子から歩けるようになる頃には、すでに傍で女房として仕えている。姫の性格を知っているからこそ、ため息もつきたくなるのだ。幼い頃はおてんばで、鞠を蹴ってはケタケタと笑っていた。兄たちの遊び道具によく興味を示す幼子だった。だからこそ、「言ってみた」だけではない、ということは骨身に染みてよく分かっているのだ。
しかし、姫の窮屈さも分かっている。
深窓の姫として、屋敷の奥で過ごすことを強制され、兄たち以外、関わり合いのある同年代の子供は一人もいない。姫はまだ裳着もすませぬ子供なのだ。本当ならば、他の貴族の娘たちのように、もっと伸び伸びと過ごしたいと思うのは当たり前のことだろう。…ただ、個人の感情だけで側仕えは続けられない。ここは「大殿」のご意向が第一に優先されるからだ。
未来の天皇の妃として、一つの傷も、醜聞も、あってはならない。
それが、右大臣様の思し召しだ。仕える身の上として、それに逆らうことなどできようか。自身のままならぬ思いを消すように女房は短く息を吐いた。
「さ、姫様。兄君たちがいらっしゃいますよ」
そう声をかけると、さくらは目をキラキラさせ、今か今かと体をうずうずさせはじめる。
二人の兄は従者に先ほどの鯉を持たせている。従者は白木の献上台を恭しく頭の上にあげて、兄たちの後ろを歩いてくる。さくらの待つ釣殿へとやってくると、二人の兄は童ながらも貴族らしい立ち居振る舞いで裾をさばき、さくらの前へ座した。ついで杢太郎は二人の下座へと座った。そこへ献上台へ乗せられた二匹の鯉が現れた。最初に口を開いたのは時重だった。得意げな顔でさくらに話し始める。
「大きいだろう。きっとここの主に違いないぞ!」
時重は喜色を讃えた笑みを浮かべている。すでに機嫌は治ったようだ。
「時重お兄様、すごいですわ。こんなに大きな鯉は見たことがありませんもの」
釣り上げられた鯉は湿った鱗がてらてらと光っている。美しい色彩に思わず手を触れたくなるが、さくらはそれを抑えるように檜扇を握った。ついで百之助も口を開いた。
「…鯉は天に登れば龍になると聞く。縁起がいい。」
「百之助お兄様は、博識でいらっしゃいますのね。その鯉が二匹も釣れたのはすごいことですわ。」
妹からの称賛の声に二人の兄は嬉しそうに頬を緩ませる。
「それで、杢太郎お兄様がお持ちの手水鉢は?」
杢太郎は従者もつれず、己でものを運んで来ていた。腹違いの、しかも愛妾の息子となれば、待遇も変わってこよう。しかし、杢太郎はそれを気にするそぶりも見せず、漆で黒く光る手水鉢を抱えてさくらの目の前へとやって来た。女房の「距離をお考えくださいませ」の声は頭の隅においやられているのか、素知らぬふりでさくらに中を見せるように畳の前までやって来た。
「まあっ!」
さくらは手水鉢の中を覗き込むと感嘆の声をあげた。手水鉢の中には、薄紅の蓮の花が気持ちよさそうに水面に揺れている。
「庭に咲いていた蓮の花です。」
「綺麗」
思わずさくらが手を触れようとすると、女房の方からきつい視線が飛んでくる。それを杢太郎の方が落ち着かせるように声をかけた。
「水は綺麗な井戸水に移し替えましたから、大丈夫ですよ。お召し物を濡らさないように、さあ」
杢太郎がさくらの袖を持ってやり、その好意に甘えて蓮の花に指を滑らせた。
「水で育つ花は、感触が瑞々しいのね。」
楽しそうに花を愛でる様子を杢太郎は近くで微笑ましく見つめる。百之助と時重は杢太郎にさくらの関心を持って行かれてしまい、いい気はしなかったが、妹の楽しそうな表情が見られ、やはり嬉しそうだ。
四人の子供たちのやりとりに、周囲の侍従たちは微笑ましそうに顔を緩ませた。鶴見家の隆盛はいつまでも続くものであると、皆、信じて疑わなかった。
ある日、杢太郎とさくらが姿を消してしまうまでは。
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