短編
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自身の体に残る酒の匂いが鼻につく。先程までの生ぬるい空気がまとわりつくようで、それを振り切るように人気のないロビーへとやってきた。いまどき慰安旅行とは、いったい誰の得になるんだろうか。当たり前のようにお酌に回らされることにも不快感が募る。上司や男性社員を気持ちよく酔わせてやるなんて業務に入っていないはずだ。そう内心悪態をついても、外面はいい方で、そつなくこなしながら、頃合いを見計らって逃げてきたのだ。人気のないホテルのロビーは照明は最小限で、月明かりが壁一面の窓から差し込んでいる。今日は満月か。夜空をみながら、ソファーに腰掛けた。
疲れる。宴会会場からくすねてきた小瓶に入ったビールに口を付け傾けた。それと同じく平衡感覚も失ったようにぐらり、と頭が傾いた。思ったより酔ってしまったな、と冷静に考えている自分と、言うことを聞かない体はあらぬ方向へと揺らいで行く。ああ、このまま瓶の中身をかぶってしまう。そう思ったところで誰かの手がさくらの肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
声の主を見れば、きっちりとスーツを着込んだ青年が心配そうな視線を向けていた。
「…すみません、あ…」
「塔矢です。塔矢アキラです。」
「ありがとうございます、塔矢先生。」
上司の企画で囲碁の指導にやってきた青年だ。まだ二十歳そこそこの若者がすごいものだ、と囲碁のいの字も知らない私でも思った。そうだ、塔矢、と言っていたな。白スーツの緒方?先生のイメージが強すぎて名前など曖昧だった。上座の方でお酌をされていたはずが、どうしてここにいるのだろう。そう思ったのが顔に出ていたのか塔矢先生は「ああいうの苦手で…出てきてしまいました。」と言った。手にはペットボトルの烏龍茶が握られていた。
「ここ、いいですか?」
指さしたのはさくらの隣で、嫌と言うわけにもいかず、「どうぞ」と、もう一人座れるように横にずれた。
隣の空いたスペースに塔矢先生が腰掛けた。横目で見ていたさくらは思わず一連の動作に目が離せなかった。わずかな所作にも美しさがある。男性にこう言ってはなんだが、月光が照らす横顔でさえ、可憐さと凜とした美しさを感じられる人だ。育ちの良さが垣間見える。一人酒を楽しもうとしている自分と比べると、酔い覚ましのお茶まで持って『優等生』な感じがする。瓶に口をつけていた自分の姿を思うと、途端に恥ずかしくなり、持っていたビール瓶を隠してしまいたい衝動に駆られた。しかしながら、隠すもなにも、現場は塔矢先生に見られているわけで、…手の中にある瓶を落ち着きなく握りなおした。
「お強いんですね。」
「……え?」
突然話しかけられ、びくりと肩を揺らした。塔矢先生の言葉は確実にここにいる自分に向けられている。…強い?手の中にあるビール瓶を見返して、意味を正しく把握した。
「職場の方の返杯、結構されていたと思ったのですが、あまり顔色が変わっていないようでしたから。……これも必要なさそうですね。」
塔矢先生は手に持っていたお茶のペットボトルをかざして言った。てっきり自身のためかと思っていたが、まさか心配してここまで?
「いえ、ありがとうございます。口直ししたかったんです、よければ頂いても?」
そう言うと塔矢先生はにこりと笑ってペットボトルを差し出してくれた。それを受け取り、所在なさげにしていたビール瓶はソファーの隅に押しやって、もらったペットボトルに口をつけた。アルコールが口の中から洗い流されていく。それと同じく酔いが回っていた頭も少し冴えてきた。
「塔矢先生、今日はお忙しい中遅くまでおつきあい頂いてすみません…。うちの者たち、お酒が入るとからんでしまって…。」
こんな時代で未だに部下に絡み、招いた先生にまで酌を次々と…。端からみて、飲まされていたのは緒方先生の方が多かったが、塔矢先生は囲碁好きの上司にだいぶ話し込まれていたようだった。塔矢先生は曖昧に笑って、答えた。
「こうして囲碁がたくさんの方に知って頂けるのがありがたいですし、僕も楽しくお話させてもらいましたよ。」
まさに『正しい』回答を口にする。それが真意なのか、笑顔からは読み取ることが難しかった。
「こういったことはよくあるんですか?」
「指導碁で出張することはよくありますよ。」
ならば、こういった席も慣れたものなのだろう。塔矢先生の答えに余裕のある表情に納得がいった。ただ、本当にやりたいことなのかと言われれば、きっと先ほどの表情からするに本意ではないのだろう。もらったペットボトルに口をつけた。酒の味が流れたため、今度はきちんと烏龍茶の味がする。
「色々な場所に行くのも楽しそうですね。」
仕事として初めて足を踏み入れる土地もあるだろう。その景色や人に触れられるのは楽しそうに思えた。
「さくらさん、旅行は好きですか。」
「ええ、時間が許すならばいくらでも行きたいですね。今なら桜の名所を巡る旅もいいですね。」
「僕も桜は好きです。以前、京都に対局へ行った折りに鴨川の桜並木を歩いたことがあるんです。水面に散っていく花びらがきれいでした。」
「私もそこは歩いたことがあります。上賀茂神社までの道に桜が満開で…。友人とせっかくだから着物を着て散策しようってことで、」
「あのときは、白地の着物をお召しになっていましたね。」
「……え?」
塔矢先生の言葉で、さくらは言葉につまった。塔矢先生の言うように、その日は母から借りた着物を着て、京都まで遊びに行っていた。それをどうして知っているのか。そして、先ほどの言葉を思い返し、もう一つの疑問が頭に浮かんだ。……なぜさくらの名前を呼べるのか。今回の慰安旅行には多くの社員が参加している。それは男女含めて数十人。まさかその一人一人の名前を覚えているとでも…?しかし、昼の指導碁で関わることの無かった人間にまで…?先ほどまで楽しげに話していたさくらの表情がこわばった。塔矢先生はその様子に少し焦ったように答えた。
「驚かせてしまって、すみません。実は同じ日に僕もそこにいたんです。偶然あなたとすれ違って……覚えてませんか。」
「…ええと、」
あのときは友人と写真を撮ったり、話込んでいたりで、周囲の人に注意を向けることがなかったのだ。ましてや道行く人も多かったように記憶している。その人々を覚えているかと言われれば否、と答えるより他にない。こちらを窺うように見つめる塔矢先生の様子に、何だか申し訳なく思ってしまう。
…いや、だがそもそもなぜ塔矢先生はあの大人数の人の顔を覚えていられるのか。囲碁界で一躍有名らしい彼にとっては、碁譜を覚えるように人の顔も瞬時に覚えられるのかもしれない。
「すみません……失礼ながら記憶が曖昧で、申し訳ありません。」
「いいえ…あれだけ人がいれば当然ですよね。僕も覚えているのは、あなただけだ。」
そう言うやいなや、塔矢先生はさくらの両手をにぎった。手にしていたペットボトルが床に転がる。それに一瞬気を取られるも、塔矢先生のあまりの気迫に彼の視線から目が離せなかった。
「あの桜並木であなたを見たとき、僕は確信したんだ。必ず再会する、と。…自分でも変なことを言っているのは分かっている。僕だって非科学的なことを信じるようなたちじゃない。いつだって論理的に考えて答えを導き出している。でも…」
一気に口上を述べる塔矢先生の様子に圧倒された。必死に言い募る塔矢先生が、一瞬言葉を切った。そして、苦しそうに、か細い吐息のような声でこう言ったのだ。
「……一目惚れなんだ。あなたが好きだ。」
絞り出すように紡いだ言葉が、熱烈な視線が、繊細な彼の姿とは対照的で。だからこそ目を引いた。先ほどの愛想笑いよりも幾分も彼の心を映しているように思えた。
掴まれている手が熱い。いや、首筋まで火照るような熱が体を駆け上がった。実直で、飾り気のない言葉が、一番心を抉るのだ。これほど心を捉える人がいるだろうか。熱っぽい視線がじいっとさくらを見定めた。その熱量に耐えきれなくなり、ふいと視線を床に落とした。先ほど転がったペットボトルから残りの烏龍茶がこぼれ出ていた。
「…一目惚れなんて、そんな、私は」
突然の告白に、何と返してよいのか、さくらは口ごもった。それに追い打ちをかけるようにさらに顔を近づけ、言葉を続ける。
「僕と、明日の指導碁、打ってくれませんか。そこで色々お話させてください。」
僕がどれだけあなたを想っているのか。
そういって耳元で囁いた彼の声が妙に熱くて、その声に酔ってしまったかのように頭の中がぼうっと揺らいだ。それに合わせて傾いていく体を塔矢先生が背中に手を回して支えた。先ほどよりも一気に距離が縮まる。吐息を感じるほどの距離で互いを見つめる。さくらの胸が大きく高鳴った。
明日は逃れられそうにないな、と頭の片隅で思った。しかし、まさか旅行後も塔矢からの熱烈なアプローチが続くとは夢にも思っていなかった。それを知る月夜に絡む二つの影は、二人の行く末を暗示するように、長く伸びていた。
疲れる。宴会会場からくすねてきた小瓶に入ったビールに口を付け傾けた。それと同じく平衡感覚も失ったようにぐらり、と頭が傾いた。思ったより酔ってしまったな、と冷静に考えている自分と、言うことを聞かない体はあらぬ方向へと揺らいで行く。ああ、このまま瓶の中身をかぶってしまう。そう思ったところで誰かの手がさくらの肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
声の主を見れば、きっちりとスーツを着込んだ青年が心配そうな視線を向けていた。
「…すみません、あ…」
「塔矢です。塔矢アキラです。」
「ありがとうございます、塔矢先生。」
上司の企画で囲碁の指導にやってきた青年だ。まだ二十歳そこそこの若者がすごいものだ、と囲碁のいの字も知らない私でも思った。そうだ、塔矢、と言っていたな。白スーツの緒方?先生のイメージが強すぎて名前など曖昧だった。上座の方でお酌をされていたはずが、どうしてここにいるのだろう。そう思ったのが顔に出ていたのか塔矢先生は「ああいうの苦手で…出てきてしまいました。」と言った。手にはペットボトルの烏龍茶が握られていた。
「ここ、いいですか?」
指さしたのはさくらの隣で、嫌と言うわけにもいかず、「どうぞ」と、もう一人座れるように横にずれた。
隣の空いたスペースに塔矢先生が腰掛けた。横目で見ていたさくらは思わず一連の動作に目が離せなかった。わずかな所作にも美しさがある。男性にこう言ってはなんだが、月光が照らす横顔でさえ、可憐さと凜とした美しさを感じられる人だ。育ちの良さが垣間見える。一人酒を楽しもうとしている自分と比べると、酔い覚ましのお茶まで持って『優等生』な感じがする。瓶に口をつけていた自分の姿を思うと、途端に恥ずかしくなり、持っていたビール瓶を隠してしまいたい衝動に駆られた。しかしながら、隠すもなにも、現場は塔矢先生に見られているわけで、…手の中にある瓶を落ち着きなく握りなおした。
「お強いんですね。」
「……え?」
突然話しかけられ、びくりと肩を揺らした。塔矢先生の言葉は確実にここにいる自分に向けられている。…強い?手の中にあるビール瓶を見返して、意味を正しく把握した。
「職場の方の返杯、結構されていたと思ったのですが、あまり顔色が変わっていないようでしたから。……これも必要なさそうですね。」
塔矢先生は手に持っていたお茶のペットボトルをかざして言った。てっきり自身のためかと思っていたが、まさか心配してここまで?
「いえ、ありがとうございます。口直ししたかったんです、よければ頂いても?」
そう言うと塔矢先生はにこりと笑ってペットボトルを差し出してくれた。それを受け取り、所在なさげにしていたビール瓶はソファーの隅に押しやって、もらったペットボトルに口をつけた。アルコールが口の中から洗い流されていく。それと同じく酔いが回っていた頭も少し冴えてきた。
「塔矢先生、今日はお忙しい中遅くまでおつきあい頂いてすみません…。うちの者たち、お酒が入るとからんでしまって…。」
こんな時代で未だに部下に絡み、招いた先生にまで酌を次々と…。端からみて、飲まされていたのは緒方先生の方が多かったが、塔矢先生は囲碁好きの上司にだいぶ話し込まれていたようだった。塔矢先生は曖昧に笑って、答えた。
「こうして囲碁がたくさんの方に知って頂けるのがありがたいですし、僕も楽しくお話させてもらいましたよ。」
まさに『正しい』回答を口にする。それが真意なのか、笑顔からは読み取ることが難しかった。
「こういったことはよくあるんですか?」
「指導碁で出張することはよくありますよ。」
ならば、こういった席も慣れたものなのだろう。塔矢先生の答えに余裕のある表情に納得がいった。ただ、本当にやりたいことなのかと言われれば、きっと先ほどの表情からするに本意ではないのだろう。もらったペットボトルに口をつけた。酒の味が流れたため、今度はきちんと烏龍茶の味がする。
「色々な場所に行くのも楽しそうですね。」
仕事として初めて足を踏み入れる土地もあるだろう。その景色や人に触れられるのは楽しそうに思えた。
「さくらさん、旅行は好きですか。」
「ええ、時間が許すならばいくらでも行きたいですね。今なら桜の名所を巡る旅もいいですね。」
「僕も桜は好きです。以前、京都に対局へ行った折りに鴨川の桜並木を歩いたことがあるんです。水面に散っていく花びらがきれいでした。」
「私もそこは歩いたことがあります。上賀茂神社までの道に桜が満開で…。友人とせっかくだから着物を着て散策しようってことで、」
「あのときは、白地の着物をお召しになっていましたね。」
「……え?」
塔矢先生の言葉で、さくらは言葉につまった。塔矢先生の言うように、その日は母から借りた着物を着て、京都まで遊びに行っていた。それをどうして知っているのか。そして、先ほどの言葉を思い返し、もう一つの疑問が頭に浮かんだ。……なぜさくらの名前を呼べるのか。今回の慰安旅行には多くの社員が参加している。それは男女含めて数十人。まさかその一人一人の名前を覚えているとでも…?しかし、昼の指導碁で関わることの無かった人間にまで…?先ほどまで楽しげに話していたさくらの表情がこわばった。塔矢先生はその様子に少し焦ったように答えた。
「驚かせてしまって、すみません。実は同じ日に僕もそこにいたんです。偶然あなたとすれ違って……覚えてませんか。」
「…ええと、」
あのときは友人と写真を撮ったり、話込んでいたりで、周囲の人に注意を向けることがなかったのだ。ましてや道行く人も多かったように記憶している。その人々を覚えているかと言われれば否、と答えるより他にない。こちらを窺うように見つめる塔矢先生の様子に、何だか申し訳なく思ってしまう。
…いや、だがそもそもなぜ塔矢先生はあの大人数の人の顔を覚えていられるのか。囲碁界で一躍有名らしい彼にとっては、碁譜を覚えるように人の顔も瞬時に覚えられるのかもしれない。
「すみません……失礼ながら記憶が曖昧で、申し訳ありません。」
「いいえ…あれだけ人がいれば当然ですよね。僕も覚えているのは、あなただけだ。」
そう言うやいなや、塔矢先生はさくらの両手をにぎった。手にしていたペットボトルが床に転がる。それに一瞬気を取られるも、塔矢先生のあまりの気迫に彼の視線から目が離せなかった。
「あの桜並木であなたを見たとき、僕は確信したんだ。必ず再会する、と。…自分でも変なことを言っているのは分かっている。僕だって非科学的なことを信じるようなたちじゃない。いつだって論理的に考えて答えを導き出している。でも…」
一気に口上を述べる塔矢先生の様子に圧倒された。必死に言い募る塔矢先生が、一瞬言葉を切った。そして、苦しそうに、か細い吐息のような声でこう言ったのだ。
「……一目惚れなんだ。あなたが好きだ。」
絞り出すように紡いだ言葉が、熱烈な視線が、繊細な彼の姿とは対照的で。だからこそ目を引いた。先ほどの愛想笑いよりも幾分も彼の心を映しているように思えた。
掴まれている手が熱い。いや、首筋まで火照るような熱が体を駆け上がった。実直で、飾り気のない言葉が、一番心を抉るのだ。これほど心を捉える人がいるだろうか。熱っぽい視線がじいっとさくらを見定めた。その熱量に耐えきれなくなり、ふいと視線を床に落とした。先ほど転がったペットボトルから残りの烏龍茶がこぼれ出ていた。
「…一目惚れなんて、そんな、私は」
突然の告白に、何と返してよいのか、さくらは口ごもった。それに追い打ちをかけるようにさらに顔を近づけ、言葉を続ける。
「僕と、明日の指導碁、打ってくれませんか。そこで色々お話させてください。」
僕がどれだけあなたを想っているのか。
そういって耳元で囁いた彼の声が妙に熱くて、その声に酔ってしまったかのように頭の中がぼうっと揺らいだ。それに合わせて傾いていく体を塔矢先生が背中に手を回して支えた。先ほどよりも一気に距離が縮まる。吐息を感じるほどの距離で互いを見つめる。さくらの胸が大きく高鳴った。
明日は逃れられそうにないな、と頭の片隅で思った。しかし、まさか旅行後も塔矢からの熱烈なアプローチが続くとは夢にも思っていなかった。それを知る月夜に絡む二つの影は、二人の行く末を暗示するように、長く伸びていた。