短編
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ランプの明かりに照らされた重厚なソファに座って、就寝前の紅茶を一杯嗜むのが坊ちゃまの習慣だった。
音之進様は北海道に遠征となってからは、こちらの別邸で幾日か過ごされている。私や何人かの使用人が坊ちゃまをこちらでお世話できるようにと大旦那さまから遣わされているのだ。その中でも、幼い頃から年も近いということで、私は坊ちゃまのお世話役を仰せつかることが多く、こうして今回も付き添うことになった。
夜着に召し替えられ、ソファでくつろいでいる様は幼い頃とは様変わりし、鍛えられた体躯は、大人の男性の色香がにじみ出ていた。まだ私の腰ほどの背丈のときは、大旦那様との稽古で負けて泣いて私の腰に抱きついてきたこともあった。海軍での長い任務で、大旦那様としばらく会えないとき、自室で涙を流すのを、あやして差し上げたこともあった。そんな坊ちゃまがこうも立派にご成長され、少尉の位を頂ける殿方となるなんて・・・。
「さくら、どうした?」
感慨にふけって準備が滞ってしまった。音之進様に「申し訳ありません。ただいまご準備いたします。」と断りを入れて、ティーカップに紅茶を注いだ。琥珀色の液体が白い器を満たす。それを音之進様に手渡した。音之進様はティーカップを口につけると、喉元を嚥下し味わう。
「お前の淹れる紅茶は格別だ。これがなくては寝られん。」
最後に少しだけブランデーを入れて、お渡しする。茶葉によっては銘柄を変えたり、坊ちゃまのお口に合うように作り替えているものだ。そう言って頂けるとメイド冥利に尽きる。
「嬉しゅうございます。幼い頃から坊ちゃまはお気に召してくださっていましたね。」
「昔から、私の口にする者はいつもさくらが良いように取りはからってくれるな。お陰で屋敷ではゆっくり過ごせる。」
音之進様は紅茶を一口含み、長いため息をついた。士官学校から軍でお勤めをするようになり、気苦労も多いのだろう。せめてお屋敷では気を休めて、ゆっくりしていただきたい。
「坊ちゃま、温めたタオルをご用意いたしましょうか。目を温められると少し疲れが和らぐかと。」
そう申し出たが、音之進様は紅茶を飲みきり、寝室の方へ体を向けた。
「いや、このまま寝る。」
そう言って寝室に入られる。私もその後に続いて、就寝の準備をする。坊ちゃまが眠られる前に、ベッドサイドには微かに香り漂うキャンドルに火を灯している。お休みになる頃にはハーブのほのかな香りが部屋を包み込んでいるよう、事前に準備してあるのだ。音之進様は一呼吸して、少し表情を和らげた。
「今日は、ラベンダーか?」
「左様でございます。」
ベットに体を沈み込ませる音之進様に布団を掛けて差し上げ、ベッドサイドのキャンドルを消灯するのが、就寝までの流れだ。今日も布団を掛け、キャンドルに手を伸ばそうとしたときだった。坊ちゃまの褐色の手が私の手首をつかんだ。
「・・・・いかがされましたか?」
音之進様の方をみると、さみしげな表情でこちらを見ている。
「やはり、目元を温めたい。」
そう言って、私の手を自らの瞼の上に乗せた。それは昔の泣き虫な坊ちゃまを連想させ、懐かしさで小さく笑った。
「坊ちゃまは大きくなられても甘えん坊でいらっしゃいますね。」
「坊ちゃま呼びはやめろ。もう一人前の軍人だ。」
「ええ、そうでした。音之進様。」
寝る前に甘えたな男を一人前と呼んで良いのか、いささか疑問ではある。しかし、身内の可愛さというようなもので、このような姿も愛らしく思えてしまう。
「・・・さくら。お前はずっと傍にいてくれるか・・・?」
「・・・さくらは音之進様のおそばにおりますよ。」
音之進様の私の手を握る力が、ぎゅっと強まった。
「・・・嘘をつくな。お前が祝言を挙げるのだと父上から聞いている。」
その言葉に今度は私の手が強ばった。
「なぜ知りもしない男の元へ嫁ぐのだ。お前は私が娶るとそう言っただろう。」
手のひらからのぞく音之進様の視線が鋭く刺さる。幼い日、まだ私も少女という頃だった。彼の小さな手が野花を花束に、私へ求婚したことがあった。そのかわいらしさに「はい。」と頷けば、柔らかな頬を桃色に染めて、「おいが幸せにすっ!」と胸に飛び込んできた。遠い昔の思い出だ。まだ、互いの身分も立場も分からなかったあの頃。
「ずいぶんと昔のことです。」
「昔んこっじゃなか!おいはわいを娶っためにきばっちょったど!」
感情が高ぶると、昔のようにお国の言葉がでてしまう。音之進様にとって私の縁談はそれほどまでに心を乱されるのか。言い様のない高揚感が胸に広がった。それを押し殺し、言葉をつげる。
「あなた様が士官学校を出られ、軍で活躍なさるのは一重に鯉登家のためにございます。一介の使用人風情にそのようなお言葉は、なりません。」
「おいん気持ちを知っちょって、そうゆとな・・・」
一瞬、獣のようにぎらついた視線と自身の視線が交わった。今まで見たことのない男の顔に反応が遅れ、掴まれていた手を引っ張られる。
「・・・っあ。」
気づいたときには音之進様の胸に飛び込む形で寝転ばされていた。逃げようにも、背中に手を回されて身動きがとれない。これまでは抱きしめるのは私の方であったのに、今や私を包み込むほどに太く力強い腕と広い胸から音之進様のぬくもりを感じた。
どれほどこの腕のぬくもりを望んだことか。
「このままお前を掻き抱いて、嫁げぬようにしてもよいのだ。」
そんなこと、できるはずがない。
これから上を目指されるあなたが娶るのは良家のご息女。その縁談の前に妾を作るなど、奥方となられる方にとっては気持ちのいいものではない。そして、最愛の人との子を成すあなたの姿を傍で見続けるなど、私には耐えられない。
人には如何にしても得られぬものがあるのだ。
いくら手を伸ばしても届かぬ先があるのだ。
私は音之進様の胸元の夜着を気づかれぬほど小さく握りしめた。言いたくない言葉を、あなたを傷つける言葉を言わなければならない。それがお家の、そしてあなた様のため。
「では、私を手籠めにしてくださいませ。それでお気が済むのでしたら幾らでも。」
思った通り、音之進様は肩を大きく震わせ、その拍子に腕の力が弱まった。半身を起き上がり、音之進様の顔を窺った。今にも泣きそうな傷ついた表情をこちらに向けていた。
「・・・そうではない、・・・そうではないのだ!私はお前の心がっ――」
続きを継がせぬよう、人差し指で音之進様の唇をふさいだ。
形のよい唇をそのまま確かめるように、そっと触れた。音之進様はされるがまま、懇願するような視線を寄越すばかりだ。
「音之進様・・・私はあなた様の使用人であったことを生涯の誇りに思います。だから――」
みなに愛され、まっすぐ育ったあなたは、私にとって太陽のようで。
幼い頃から、たくさんの笑顔と幸せをあなたにいただきました。
愛しいあなたの傍にいられることが何より幸せでした。
女としての喜びだけではない、あなたに仕えられた喜びは一生忘れません。
「どうか、最後の日まで、あなた様の使用人として、お仕えさせてください。」
音之進様の瞳から一雫、涙がこぼれた。
そのまぶたにひとつ唇を落とした。
許されぬ気持ちを、それに乗せて。
「・・・行くな、さくら。」
掠れた声でそう呟くあなたの瞳は、ただ私だけを見つめていた。
音之進様は北海道に遠征となってからは、こちらの別邸で幾日か過ごされている。私や何人かの使用人が坊ちゃまをこちらでお世話できるようにと大旦那さまから遣わされているのだ。その中でも、幼い頃から年も近いということで、私は坊ちゃまのお世話役を仰せつかることが多く、こうして今回も付き添うことになった。
夜着に召し替えられ、ソファでくつろいでいる様は幼い頃とは様変わりし、鍛えられた体躯は、大人の男性の色香がにじみ出ていた。まだ私の腰ほどの背丈のときは、大旦那様との稽古で負けて泣いて私の腰に抱きついてきたこともあった。海軍での長い任務で、大旦那様としばらく会えないとき、自室で涙を流すのを、あやして差し上げたこともあった。そんな坊ちゃまがこうも立派にご成長され、少尉の位を頂ける殿方となるなんて・・・。
「さくら、どうした?」
感慨にふけって準備が滞ってしまった。音之進様に「申し訳ありません。ただいまご準備いたします。」と断りを入れて、ティーカップに紅茶を注いだ。琥珀色の液体が白い器を満たす。それを音之進様に手渡した。音之進様はティーカップを口につけると、喉元を嚥下し味わう。
「お前の淹れる紅茶は格別だ。これがなくては寝られん。」
最後に少しだけブランデーを入れて、お渡しする。茶葉によっては銘柄を変えたり、坊ちゃまのお口に合うように作り替えているものだ。そう言って頂けるとメイド冥利に尽きる。
「嬉しゅうございます。幼い頃から坊ちゃまはお気に召してくださっていましたね。」
「昔から、私の口にする者はいつもさくらが良いように取りはからってくれるな。お陰で屋敷ではゆっくり過ごせる。」
音之進様は紅茶を一口含み、長いため息をついた。士官学校から軍でお勤めをするようになり、気苦労も多いのだろう。せめてお屋敷では気を休めて、ゆっくりしていただきたい。
「坊ちゃま、温めたタオルをご用意いたしましょうか。目を温められると少し疲れが和らぐかと。」
そう申し出たが、音之進様は紅茶を飲みきり、寝室の方へ体を向けた。
「いや、このまま寝る。」
そう言って寝室に入られる。私もその後に続いて、就寝の準備をする。坊ちゃまが眠られる前に、ベッドサイドには微かに香り漂うキャンドルに火を灯している。お休みになる頃にはハーブのほのかな香りが部屋を包み込んでいるよう、事前に準備してあるのだ。音之進様は一呼吸して、少し表情を和らげた。
「今日は、ラベンダーか?」
「左様でございます。」
ベットに体を沈み込ませる音之進様に布団を掛けて差し上げ、ベッドサイドのキャンドルを消灯するのが、就寝までの流れだ。今日も布団を掛け、キャンドルに手を伸ばそうとしたときだった。坊ちゃまの褐色の手が私の手首をつかんだ。
「・・・・いかがされましたか?」
音之進様の方をみると、さみしげな表情でこちらを見ている。
「やはり、目元を温めたい。」
そう言って、私の手を自らの瞼の上に乗せた。それは昔の泣き虫な坊ちゃまを連想させ、懐かしさで小さく笑った。
「坊ちゃまは大きくなられても甘えん坊でいらっしゃいますね。」
「坊ちゃま呼びはやめろ。もう一人前の軍人だ。」
「ええ、そうでした。音之進様。」
寝る前に甘えたな男を一人前と呼んで良いのか、いささか疑問ではある。しかし、身内の可愛さというようなもので、このような姿も愛らしく思えてしまう。
「・・・さくら。お前はずっと傍にいてくれるか・・・?」
「・・・さくらは音之進様のおそばにおりますよ。」
音之進様の私の手を握る力が、ぎゅっと強まった。
「・・・嘘をつくな。お前が祝言を挙げるのだと父上から聞いている。」
その言葉に今度は私の手が強ばった。
「なぜ知りもしない男の元へ嫁ぐのだ。お前は私が娶るとそう言っただろう。」
手のひらからのぞく音之進様の視線が鋭く刺さる。幼い日、まだ私も少女という頃だった。彼の小さな手が野花を花束に、私へ求婚したことがあった。そのかわいらしさに「はい。」と頷けば、柔らかな頬を桃色に染めて、「おいが幸せにすっ!」と胸に飛び込んできた。遠い昔の思い出だ。まだ、互いの身分も立場も分からなかったあの頃。
「ずいぶんと昔のことです。」
「昔んこっじゃなか!おいはわいを娶っためにきばっちょったど!」
感情が高ぶると、昔のようにお国の言葉がでてしまう。音之進様にとって私の縁談はそれほどまでに心を乱されるのか。言い様のない高揚感が胸に広がった。それを押し殺し、言葉をつげる。
「あなた様が士官学校を出られ、軍で活躍なさるのは一重に鯉登家のためにございます。一介の使用人風情にそのようなお言葉は、なりません。」
「おいん気持ちを知っちょって、そうゆとな・・・」
一瞬、獣のようにぎらついた視線と自身の視線が交わった。今まで見たことのない男の顔に反応が遅れ、掴まれていた手を引っ張られる。
「・・・っあ。」
気づいたときには音之進様の胸に飛び込む形で寝転ばされていた。逃げようにも、背中に手を回されて身動きがとれない。これまでは抱きしめるのは私の方であったのに、今や私を包み込むほどに太く力強い腕と広い胸から音之進様のぬくもりを感じた。
どれほどこの腕のぬくもりを望んだことか。
「このままお前を掻き抱いて、嫁げぬようにしてもよいのだ。」
そんなこと、できるはずがない。
これから上を目指されるあなたが娶るのは良家のご息女。その縁談の前に妾を作るなど、奥方となられる方にとっては気持ちのいいものではない。そして、最愛の人との子を成すあなたの姿を傍で見続けるなど、私には耐えられない。
人には如何にしても得られぬものがあるのだ。
いくら手を伸ばしても届かぬ先があるのだ。
私は音之進様の胸元の夜着を気づかれぬほど小さく握りしめた。言いたくない言葉を、あなたを傷つける言葉を言わなければならない。それがお家の、そしてあなた様のため。
「では、私を手籠めにしてくださいませ。それでお気が済むのでしたら幾らでも。」
思った通り、音之進様は肩を大きく震わせ、その拍子に腕の力が弱まった。半身を起き上がり、音之進様の顔を窺った。今にも泣きそうな傷ついた表情をこちらに向けていた。
「・・・そうではない、・・・そうではないのだ!私はお前の心がっ――」
続きを継がせぬよう、人差し指で音之進様の唇をふさいだ。
形のよい唇をそのまま確かめるように、そっと触れた。音之進様はされるがまま、懇願するような視線を寄越すばかりだ。
「音之進様・・・私はあなた様の使用人であったことを生涯の誇りに思います。だから――」
みなに愛され、まっすぐ育ったあなたは、私にとって太陽のようで。
幼い頃から、たくさんの笑顔と幸せをあなたにいただきました。
愛しいあなたの傍にいられることが何より幸せでした。
女としての喜びだけではない、あなたに仕えられた喜びは一生忘れません。
「どうか、最後の日まで、あなた様の使用人として、お仕えさせてください。」
音之進様の瞳から一雫、涙がこぼれた。
そのまぶたにひとつ唇を落とした。
許されぬ気持ちを、それに乗せて。
「・・・行くな、さくら。」
掠れた声でそう呟くあなたの瞳は、ただ私だけを見つめていた。