短編
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広大な敷地に広がる日本庭園。池の中を気持ちよさそうに泳ぐ錦鯉の上に桜の花びらがひらひらと舞い落ちていく。あたたかな日差しが差し込む料亭の廊下を女将に案内され、鶴見中尉と共に進んでいく。俺の目の前を歩く中尉は、女将と「見事な桜ですな」などと話に花を咲かせている。
なぜ、自分がこんな場所へ来てしまったのか…。
遡る事、数日前。ほんの数日前に鶴見中尉から縁談の打診があったのだ。いつものように茶を入れ、鶴見中尉に差し出したところで『いい天気だ』と言うくらい軽い口調で、
「月島軍曹、お前に縁談が来たぞ。」
そう言って、差し出した茶を啜る。こちらは驚きのあまり「え、んだん…?」と言葉の意味をとることすら、ままならずに聞き返した。鶴見中尉は面白そうに目を細めた。
「そうだ縁談だ。日向商会のご令嬢だ。会ったことがあるだろう?」
鶴見中尉の言葉に記憶を手繰り寄せる。貿易業を営む日向商会の社長とその娘のさくらと言ったか。若い娘だったように思う。社長は『娘が仕事に興味があってね』と隣に座らせていた。武器の卸しや阿片の販路など、かなり際どい話題を話している隣でにこにこと笑っていたのが印象に残っている。娘を溺愛しているのは一目瞭然だった。そして、それに甘んじている箱入り娘なのだと。
「抱き込むにしても、宇佐美上等兵、尾形上等兵、三島一等卒あたりが年齢的に丁度いいでしょう。」
「ご令嬢の信頼をえて、逐一私に情報を流せるのはお前だけだ。」
買い被りすぎた。俺はあの子以外、女を気にかけたことなどない。ましてや夫婦など…。
「今更、女に溺れはしないだろう?」
鶴見中尉が確認するような目線を向けた。この人は、俺がまだあの子を思っているのを分かっているのだ。だからこそ、この話を持ってきた。お前ならば情に流されずに裏から情報を抜き取ってこれるだろう、と。各国と取引をしていれば、そこから他国の噂はいち早く耳にできる。それが鶴見中尉がご所望のものだ。…どこまでも俺は駒でしかない。分かりきっていることだ。ならば、貴方の喜劇を特等席で見るために、…俺はどこまでも駒に徹しましょう。
向かっているのは離れの座敷、今回の見合いの会場だ。女将は本館と離れを繋ぐ太鼓橋のふもとで案内を終え、鶴見中尉を先頭に座敷の襖を開き、それに続いて中に入った。すでに下座には件の社長と夫人、ご令嬢が席に着いていた。
令嬢は豪華な振袖で、色とりどりの花が描かれた袖を畳に広げて、座っている。そこだけ鮮やかに彩られているようで、視線を上げると、あの時のような微笑みが返ってきた。それに軽く頭を下げ、鶴見中尉の後に続いて上座に座る。そこからは縁談の流れに沿っていくだけだ。鶴見中尉と社長がそれぞれの経歴や周囲からの評判など、一般通りのことを話していく。当人同士はそれを頷き、たまに説明を加え、順調に進んで行った。自分の口から師団内での仕事の話が流れているなか、頭の中ではどうせ決まった事なのだから、早くこの時間が終わらないかと考えていた。銭湯にでも行って、一息つくか。と考えているうちに互いの紹介が終わり、「あとはお二人で」との声で庭を散策することになった。
会が始まってから、ご令嬢の綺麗に引かれた紅の唇は弧を描いて、微笑みを浮かべている。完璧すぎる表情に少しの違和感を感じながら、庭へ出るのに手を差し出した。
「ありがとうございます。」
礼を述べるときも表情を崩さず、白魚のような手を無骨な手に乗せた。重さを全く感じさせない華奢な手を取って、庭園を進んでいく。
「桜が見事ですね。」
令嬢は俺に手を引かれながら、庭園の桜を見上げた。柔らかい春の日差しが白い肌を輝かせている。紅を差した艶やかな唇が先ほどのように微笑みをたたえた。
「ええ、本当に。」
返した言葉に令嬢はくすり、と笑った。
「月島軍曹、お疲れでして?」
「いいえ、そう見えますか?」
「お会いしてから、ずっと上の空ですもの。」
令嬢の長いまつ毛で縁取られた瞳がこちらを見た。
「素敵なお庭ですもの、空を見るだけなんてつまらないわ。本当に上を見たら桜が綺麗でしょう?…ねえ、月島軍曹、桜が綺麗ですわね。」
口元は弧を描いているのに、目元はざらりとした粗さを持っている。ご自身を蔑ろにされていると気が付いたのか。一般人に見透かされるような言動をとったつもりはない。だが、この人に誤魔化しはきかないのだろう。柔和そうな表情の中で唯一、鋭い視線が注がれる。そのアンバランスさに目が離せなくなる。
「…申し訳ありません。」
機嫌を損ねてしまっただろうか。素直に謝ると、再びにこりと柔らかく微笑んだ。瞳の中の鋭さも一瞬で外れる。自身の上官のような言い知れぬものを感じ、自然と背筋が伸びる。
ゆっくりと春の庭を進む。令嬢がたまに足を止めて花を愛でれば、それを一緒に眺める。庭の真ん中、大きな池に架かる太鼓橋。そこまで来たところで、令嬢は足を止めて池の中の錦鯉に目をやった。そこで、ふと思い出したように口を開いた。
「Loveを何と翻訳するか、鶴見中尉に伺ったことがありましたの。」
「はあ…」
なぜそんな話を?と思ったところで令嬢が話を続けた。
「ちょうど鯉登少尉もいらして、その時が…もう」
鯉登少尉はこのご令嬢の前で何かやってしまったらしい。思い出してくすくすと笑っている。
「仁と訳していると思うのですが、取引先の商人が言うものと少し違う気がして。鶴見中尉にご意見を伺ったら、その答えに鯉登少尉が…もうそれは赤いお顔をなさって」
ふふふ、と大層面白そうに破顔される。先ほどの完成された笑顔とは違う、自然な笑顔。こちらが貴方の本当の表情なのか。先程から浮かべている笑顔より、よほど…。そこまで思い至り、はっとして思考を止めた。今日は何のために来たのか。この娘に絆されるのではなく、こちらが主導権を握らなければ。
「おっしゃるように翻訳では仁としていますが、鶴見中尉は何と?」
池の鯉に目を移していたのが、こちらに視線を戻した。そして、繋いでいた手とは反対の手が、華奢な手が俺の胸に添えられた。そうなると自然と令嬢の体が向かい合うように近付いた。先程より一層近くなった距離で、女物の香が鼻を掠めた。兵舎では感じない甘い香り。胸元から見上げるように令嬢はこちらを見ている。
「口吸いをいたしましょう。」
突然の台詞に言葉が詰まる。赤く熟した唇が紡いだ言葉に喉が鳴った。こちらの反応に気をよくしたのか、面白そうに見つめている。僅かな距離を保ったまま見つめ合う。先に動いたのは俺の方だった。一歩、足を引いて令嬢と距離を取った。俺の様子に令嬢は申し訳なさそうな声音で声をかけた。
「失礼いたしました……。少し浮かれていたみたいですわ。」
触れられていた両手がするり、と俺の手から離れていく。とっさに令嬢の両手首を掴んだ。白く細い手首に、節ばった無骨な手が回った。なんと細く、儚いことか。少し力を入れれば折れてしまいそうだ。俺の行動が予想外だったのか、目を見開いている。自分にも完璧な笑顔を崩すことができるのだ、という愉悦と今はいないお坊ちゃんに対抗するような気持ちが芽生えた。
「さくらさん……どういう意味か伺っても?」
透き通るような頬に朱が指した。こんな表情、あの坊ちゃんには引き出せまい。
「この縁談、どういう意味を持つのか私も考えないわけありません。鶴見中尉の部下の中で、なぜあなたが縁談の場にいらしたと…?」
「皆目見当がつきませんな。」
察して欲しいと上目で訴えるのを見つめながら、答えた。望む答えを彼女の口から聞きたい。さくらさんは恥ずかしそうに伏し目がちに続きを紡いだ。
「素敵な令嬢と思って頂けるように一等準備してきましたの……。ねえ、月島軍曹…察しの良いあなたならお分かりでしょう?」
初めて会った時とは打ってかわり、弱腰な物言いだ。だが、困り顔のこの表情も令嬢の美しさの前ではそれを引き立たせるひとつでしかない。
「…私を欲してくださったので?」
さくらさんの頬がさらに赤く染まった。
…どこまでも俺は駒でしかない。分かりきっていることだ。
にもかかわらず、彼女の甘い毒が脳を侵していくように、思考を麻痺させられていく。
さくらさんの体温が上がったのか、甘い香の香りがさらに濃く感じられる。くらくらするような濃密な彼女の香りと表情も相まって、さらに俺の思考を麻痺させていく。
彼女の毒に侵されながらも、頭の隅で、鶴見中尉のようだと感じた自身の感覚は間違っていないのだと気がつく。その魅力で、策略で、堕としたい相手を自身の用意した糸に絡ませモノにしていく。獲物になった者は嬉々として自身の命を差し出し、戦場へと向かっていく。そのような逃れられぬ魅力がこの令嬢にもあるのだ。たった視線ひとつで男を惑わせるような魅力が。
「今更、女に溺れはしないだろう?」
鶴見中尉が確認するような目線を向けた。
あの視線の意味に今更ながら気付かされる。どこまでも駒に徹する男が、いつまで自身を保つことが出来るのか。
「月島さん……」
伏せていた瞳が再びこちらを見つめる。潤んだ瞳が俺をとらえた。
「私はあなたと知ってゆきたいのです。Loveの意味を、鶴見中尉でも鯉登少尉でもなく、あなたと…。」
甘く囁く唇が、赤く熟れた果実の蜜のように男を誘う。引き寄せられるように、さくらさんの唇に己の唇を寄せた。
「私も貴女と知りたい。」
唇が重なる寸前、囁いた言葉にさくらさんの瞳が弧を描いた。
完璧な美しい微笑みで俺を迎え入れる。
ああ、堕とされたのだ。
甘い蜜を貪るように、さくらの唇を味わいながら男は悟った。
なぜ、自分がこんな場所へ来てしまったのか…。
遡る事、数日前。ほんの数日前に鶴見中尉から縁談の打診があったのだ。いつものように茶を入れ、鶴見中尉に差し出したところで『いい天気だ』と言うくらい軽い口調で、
「月島軍曹、お前に縁談が来たぞ。」
そう言って、差し出した茶を啜る。こちらは驚きのあまり「え、んだん…?」と言葉の意味をとることすら、ままならずに聞き返した。鶴見中尉は面白そうに目を細めた。
「そうだ縁談だ。日向商会のご令嬢だ。会ったことがあるだろう?」
鶴見中尉の言葉に記憶を手繰り寄せる。貿易業を営む日向商会の社長とその娘のさくらと言ったか。若い娘だったように思う。社長は『娘が仕事に興味があってね』と隣に座らせていた。武器の卸しや阿片の販路など、かなり際どい話題を話している隣でにこにこと笑っていたのが印象に残っている。娘を溺愛しているのは一目瞭然だった。そして、それに甘んじている箱入り娘なのだと。
「抱き込むにしても、宇佐美上等兵、尾形上等兵、三島一等卒あたりが年齢的に丁度いいでしょう。」
「ご令嬢の信頼をえて、逐一私に情報を流せるのはお前だけだ。」
買い被りすぎた。俺はあの子以外、女を気にかけたことなどない。ましてや夫婦など…。
「今更、女に溺れはしないだろう?」
鶴見中尉が確認するような目線を向けた。この人は、俺がまだあの子を思っているのを分かっているのだ。だからこそ、この話を持ってきた。お前ならば情に流されずに裏から情報を抜き取ってこれるだろう、と。各国と取引をしていれば、そこから他国の噂はいち早く耳にできる。それが鶴見中尉がご所望のものだ。…どこまでも俺は駒でしかない。分かりきっていることだ。ならば、貴方の喜劇を特等席で見るために、…俺はどこまでも駒に徹しましょう。
向かっているのは離れの座敷、今回の見合いの会場だ。女将は本館と離れを繋ぐ太鼓橋のふもとで案内を終え、鶴見中尉を先頭に座敷の襖を開き、それに続いて中に入った。すでに下座には件の社長と夫人、ご令嬢が席に着いていた。
令嬢は豪華な振袖で、色とりどりの花が描かれた袖を畳に広げて、座っている。そこだけ鮮やかに彩られているようで、視線を上げると、あの時のような微笑みが返ってきた。それに軽く頭を下げ、鶴見中尉の後に続いて上座に座る。そこからは縁談の流れに沿っていくだけだ。鶴見中尉と社長がそれぞれの経歴や周囲からの評判など、一般通りのことを話していく。当人同士はそれを頷き、たまに説明を加え、順調に進んで行った。自分の口から師団内での仕事の話が流れているなか、頭の中ではどうせ決まった事なのだから、早くこの時間が終わらないかと考えていた。銭湯にでも行って、一息つくか。と考えているうちに互いの紹介が終わり、「あとはお二人で」との声で庭を散策することになった。
会が始まってから、ご令嬢の綺麗に引かれた紅の唇は弧を描いて、微笑みを浮かべている。完璧すぎる表情に少しの違和感を感じながら、庭へ出るのに手を差し出した。
「ありがとうございます。」
礼を述べるときも表情を崩さず、白魚のような手を無骨な手に乗せた。重さを全く感じさせない華奢な手を取って、庭園を進んでいく。
「桜が見事ですね。」
令嬢は俺に手を引かれながら、庭園の桜を見上げた。柔らかい春の日差しが白い肌を輝かせている。紅を差した艶やかな唇が先ほどのように微笑みをたたえた。
「ええ、本当に。」
返した言葉に令嬢はくすり、と笑った。
「月島軍曹、お疲れでして?」
「いいえ、そう見えますか?」
「お会いしてから、ずっと上の空ですもの。」
令嬢の長いまつ毛で縁取られた瞳がこちらを見た。
「素敵なお庭ですもの、空を見るだけなんてつまらないわ。本当に上を見たら桜が綺麗でしょう?…ねえ、月島軍曹、桜が綺麗ですわね。」
口元は弧を描いているのに、目元はざらりとした粗さを持っている。ご自身を蔑ろにされていると気が付いたのか。一般人に見透かされるような言動をとったつもりはない。だが、この人に誤魔化しはきかないのだろう。柔和そうな表情の中で唯一、鋭い視線が注がれる。そのアンバランスさに目が離せなくなる。
「…申し訳ありません。」
機嫌を損ねてしまっただろうか。素直に謝ると、再びにこりと柔らかく微笑んだ。瞳の中の鋭さも一瞬で外れる。自身の上官のような言い知れぬものを感じ、自然と背筋が伸びる。
ゆっくりと春の庭を進む。令嬢がたまに足を止めて花を愛でれば、それを一緒に眺める。庭の真ん中、大きな池に架かる太鼓橋。そこまで来たところで、令嬢は足を止めて池の中の錦鯉に目をやった。そこで、ふと思い出したように口を開いた。
「Loveを何と翻訳するか、鶴見中尉に伺ったことがありましたの。」
「はあ…」
なぜそんな話を?と思ったところで令嬢が話を続けた。
「ちょうど鯉登少尉もいらして、その時が…もう」
鯉登少尉はこのご令嬢の前で何かやってしまったらしい。思い出してくすくすと笑っている。
「仁と訳していると思うのですが、取引先の商人が言うものと少し違う気がして。鶴見中尉にご意見を伺ったら、その答えに鯉登少尉が…もうそれは赤いお顔をなさって」
ふふふ、と大層面白そうに破顔される。先ほどの完成された笑顔とは違う、自然な笑顔。こちらが貴方の本当の表情なのか。先程から浮かべている笑顔より、よほど…。そこまで思い至り、はっとして思考を止めた。今日は何のために来たのか。この娘に絆されるのではなく、こちらが主導権を握らなければ。
「おっしゃるように翻訳では仁としていますが、鶴見中尉は何と?」
池の鯉に目を移していたのが、こちらに視線を戻した。そして、繋いでいた手とは反対の手が、華奢な手が俺の胸に添えられた。そうなると自然と令嬢の体が向かい合うように近付いた。先程より一層近くなった距離で、女物の香が鼻を掠めた。兵舎では感じない甘い香り。胸元から見上げるように令嬢はこちらを見ている。
「口吸いをいたしましょう。」
突然の台詞に言葉が詰まる。赤く熟した唇が紡いだ言葉に喉が鳴った。こちらの反応に気をよくしたのか、面白そうに見つめている。僅かな距離を保ったまま見つめ合う。先に動いたのは俺の方だった。一歩、足を引いて令嬢と距離を取った。俺の様子に令嬢は申し訳なさそうな声音で声をかけた。
「失礼いたしました……。少し浮かれていたみたいですわ。」
触れられていた両手がするり、と俺の手から離れていく。とっさに令嬢の両手首を掴んだ。白く細い手首に、節ばった無骨な手が回った。なんと細く、儚いことか。少し力を入れれば折れてしまいそうだ。俺の行動が予想外だったのか、目を見開いている。自分にも完璧な笑顔を崩すことができるのだ、という愉悦と今はいないお坊ちゃんに対抗するような気持ちが芽生えた。
「さくらさん……どういう意味か伺っても?」
透き通るような頬に朱が指した。こんな表情、あの坊ちゃんには引き出せまい。
「この縁談、どういう意味を持つのか私も考えないわけありません。鶴見中尉の部下の中で、なぜあなたが縁談の場にいらしたと…?」
「皆目見当がつきませんな。」
察して欲しいと上目で訴えるのを見つめながら、答えた。望む答えを彼女の口から聞きたい。さくらさんは恥ずかしそうに伏し目がちに続きを紡いだ。
「素敵な令嬢と思って頂けるように一等準備してきましたの……。ねえ、月島軍曹…察しの良いあなたならお分かりでしょう?」
初めて会った時とは打ってかわり、弱腰な物言いだ。だが、困り顔のこの表情も令嬢の美しさの前ではそれを引き立たせるひとつでしかない。
「…私を欲してくださったので?」
さくらさんの頬がさらに赤く染まった。
…どこまでも俺は駒でしかない。分かりきっていることだ。
にもかかわらず、彼女の甘い毒が脳を侵していくように、思考を麻痺させられていく。
さくらさんの体温が上がったのか、甘い香の香りがさらに濃く感じられる。くらくらするような濃密な彼女の香りと表情も相まって、さらに俺の思考を麻痺させていく。
彼女の毒に侵されながらも、頭の隅で、鶴見中尉のようだと感じた自身の感覚は間違っていないのだと気がつく。その魅力で、策略で、堕としたい相手を自身の用意した糸に絡ませモノにしていく。獲物になった者は嬉々として自身の命を差し出し、戦場へと向かっていく。そのような逃れられぬ魅力がこの令嬢にもあるのだ。たった視線ひとつで男を惑わせるような魅力が。
「今更、女に溺れはしないだろう?」
鶴見中尉が確認するような目線を向けた。
あの視線の意味に今更ながら気付かされる。どこまでも駒に徹する男が、いつまで自身を保つことが出来るのか。
「月島さん……」
伏せていた瞳が再びこちらを見つめる。潤んだ瞳が俺をとらえた。
「私はあなたと知ってゆきたいのです。Loveの意味を、鶴見中尉でも鯉登少尉でもなく、あなたと…。」
甘く囁く唇が、赤く熟れた果実の蜜のように男を誘う。引き寄せられるように、さくらさんの唇に己の唇を寄せた。
「私も貴女と知りたい。」
唇が重なる寸前、囁いた言葉にさくらさんの瞳が弧を描いた。
完璧な美しい微笑みで俺を迎え入れる。
ああ、堕とされたのだ。
甘い蜜を貪るように、さくらの唇を味わいながら男は悟った。
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