白銀の世界で
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暗闇の中、時折上がる照明弾を頼りに、杉元とウイルクのもとへ駆ける。あちこちで火災が起こり、木材の焼ける匂いと一緒に、人か、他のものか、そういう鼻を突く匂いも混じる。それに加えて火災の煙はもうもうと辺りに広がり、走っているさくらの喉を痛めつけた。
早く行かなくては。
気が急くばかりで、足が思うように動かない。もっと速く、もっと速く…!そう思いながら走っているのが、まるで『あのとき』の夢のようである。追いかけてくる男たち…。もつれる足。男の指先が触れる。
「さくら…!」
がしり、とさくらの肩を掴む男の手が現れた。思わずびくりと肩を揺らし、思い切り後ろを振り向いた。
「谷垣さん…!」
「一人で男二人は運べんだろう。俺も行こう。」
そう言って、さくらの背を押しながら隣を走る。
「焦ると呼吸が乱れて遅くなる。もうすぐだ、頑張れ。」
「ありがと、うございます。」
谷垣の大きながっしりした手のひらが背中に当たる。それが背中を押し、幾分か走りやすくなった。
煙の間から、赤い囚人服が見える。その下で見慣れた着物と軍服がちらりと見えている。
「杉元さん…!」
駆け寄ろうとした瞬間、囚人の脇腹に弾丸が撃ち込まれた。そして、次の弾丸が杉元のこめかみ近くをかすめる。
…確実に死ぬまで撃つつもりか。
狙撃手はウイルクが杉元に何か情報を流したのを見たのかも知れない。第七師団あたり、杉元は吐かないと踏んで、殺しに回っても不思議ではない。谷垣とすぐ近くにある壁に体をつけて、様子を窺う。
「どこから撃っているんだ…」
さくらは定期的に上がる照明弾に合わせて、自身の双眼鏡を放り投げた。瞬間、レンズが撃ち抜かれ、そのまま地面に弾丸がめり込んだ。
「……相当、腕の良い人ですね。」
どこから撃っているのか、場所が分からなければ牽制ができない。
次の照明弾で持っていた手ぬぐいを放り投げる。同じく弾丸が撃ち込まれる。弾の入り方からして上からだ。見上げると、ここから近い場所に高見張りがある。
「…おい、遊んでいる場合じゃ」
谷垣の言葉を流して、先ほどの弾丸を撃ち込んだ主の場所を指し示した。
「おそらく、あの高見張りから撃ってます。杉元さんを執拗に狙っているところから、ウイルクから情報をもらった可能性が高いですね。」
杉元のこめかみから一センチも満たない場所に弾痕がある。
「次、撃たれたら杉元さんは確実に殺されます。」
さくらの言葉に谷垣が息をのんだ。
「だったらすぐにでも回収しないと…!」
前に出ようとする谷垣をさくらは目で制した。
「多分、私たちも出た瞬間、鉛玉が撃ち込まれますよ。」
二人で助けに行っても、誰も助からないだろう。…まるで尾形のような射撃の技術をもつ者だ。一気に谷垣とさくらを一発で仕留める事位しそうだ。ならば……、さくらは自身のコートのボタンを全て開き、小銃の安全子のロックを解錠すると、空の薬莢が地面に転がり落ちた。
「私が牽制で撃ち込みます、その間に二人を物陰へ。」
「おい……それじゃ、お前が」
死んでしまう。
そう言いかけた谷垣は、言葉を飲み込んだ。こちらを見つめるさくらは、言わずとも分かっていると、小さく頷いた。
「杉元が、許さないぞ…」
「許してはくれないでしょうね、…一度怒られてます。」
「だったら、俺が撃ち込…」
「…谷垣一等卒!!!」
突然さくらからの檄が飛んだ。
「この戦いで大切なのは情報です。誰が持っているか、誰が助けられるか、あなたは分かってるはず。」
いつもの『谷垣さん』ではなく、あえて階級で呼んだ。一兵士としての谷垣に問うているのだ。……戦地に赴かなかった女が、この場で一番冷静に、戦術を以て戦いに挑んでいるのだ。さくらは覚悟を決めている。強い意志を持った瞳が、谷垣の迷っている目を射貫く。
こうするしかない……。谷垣も心の中では分かっているのだ。しかし、目の前で死に行く者を止めたいという気持ちがあった。さくらは金塊に興味などないのだろう。アシリパと杉元に助けられたのだと、聞いたことがある。救われた恩を返すために、必死で食らいついて、この戦いに身を投じているのだ。どれだけつらくても、痛い思いをしても、目の前で自分の出来る最善を選んで。この戦いが終わればきっとさくらと杉元も、自分とインカラマッのように一緒になるのだろう。二人は何も言わないが、何となく周りも気がついている。愛する女が死にに行く……意識を取り戻した杉元がどうなってしまうのか。考えただけで胸が張り裂けそうだった。
谷垣は、目の前の女の澄んだ瞳をもう一度見つめた。『絶対に守るのだ』と、強い気持ちは揺るがない。谷垣は、さくらの問いに頷いた。
「分かった。俺が二人を連れて行こう。」
そう言うと、さくらは安心したように口元を少し緩ませた。そして、懐から自身の映った写真を取り出すと、谷垣に手渡した。
「私は、これだけでいい。意識が戻ったら杉元さんに渡してください。…もし駄目なら、一緒に埋めて欲しい。」
「…っ!……約束しよう。」
『死体は重くなるから置いていけ』暗にそう言ったのだ。谷垣は写真を落とさないように懐の奥にしまい込んだ。それを見届けると、さくらは、ふっと、柔らかく微笑んだ。硝煙と火災の煙が立ち上るなか、まるで泥の中に咲く蓮のように、余りに戦場に不釣り合いで美しい微笑みだった。
谷垣に写真を渡すとさくらは高見台の方へ体を向けた。
「次の照明弾が上がったら行きます。」
勝負は一度きり。自分の命を賭けて、杉元とウイルクを奪還する。手に力がこもる。……怖い、という感情が体を覆いそうになる。しかし、それを振り払うように肩に小銃を構えた。いつでも撃てるように、目線は高見台のある方向へ、ただ集中する。自身の死のカウントダウンが始まっている。指が冷たくなる、だめだ、気を確かに持て。自身の頭の中で葛藤する思いを必死で打ち消す。
照明弾が上がる。
「行きます…!」
さくらの合図によって二人は飛び出した。背後で谷垣が倒れた二人を移動させる音がする。コートを開いておいて正解だった。風でたなびいて視界を遮ってくれる。さくらは高見台にすぐさま弾丸を撃ち込んだ。高見台は距離がある。狙撃手を単体で狙い撃ちすることは難しい。だが、動きを封じるために、連続で発砲すれば、二人を助ける時間くらいは稼げる。装填した弾数、五発を全て撃ち込むと後ろから谷垣が「大丈夫だ」と声をかけた。
「よかった…!」
さくらは安堵の声を上げ、銃を下ろした。
ぱあんっ……―――!!
振り向こうとした瞬間、さくらの頭に大きな爆発音と衝撃が走った。それと同時に、杉元が伏していた場所にさくらの体が投げ出された。
高見台でその一発を撃ち込んだ尾形が、自身の髪をなでつけた。
「あのとき俺を選んでいればなあ…。さくら」
これまで何度だってチャンスはあったはずだ。それを不意にしたのはお前だ、さくら。
お前が杉元と生きる事を望むなら、俺はお前の死をもらったっていいだろう…?
尾形はさくらの伏した姿をもう一度見つめると、静かにその場を去った。
網走近郊の病院で、杉元はベットの上で目を覚ました。
細い月が病室の窓から見える。一日寝ていたらしい。
「なんだこれえ~?」
頭にぐるぐる巻かれた包帯で片方のめは見えないようにされている。助かったのか。
「ここ、どこだ?」
様子を窺おうと、ベットから抜け出そうとしたところで入り口のドアが開いた。ドアの向こうから谷垣がやってきた。
「目を覚ましたのか。不死身の杉元、驚異的な回復力だな。」
「おお、谷垣。ここはどこの病院だ?」
「網走の病院を間借りしてお前の手術をしてもらった。アシリパはキロランケと白石に船に行くよう言ったから、どこか逃げているだろう。俺達は第七師団預かりになっている。」
「…預かり?」
「残った俺達は第七師団に捕らえられた。インカラマッがキロランケに刺されてそれ以上動けなかった。インカラマッも治療を受けて休んでいる。鶴見中尉は、俺達から情報を聞き出し、アシリパ奪還に協力しろというんだろう。」
「裏切り者はキロランケってことか。なら、早いところアシリパさんを助けなくっちゃ。で、さくらさんは?アシリパさんと一緒?それともここにいるの?鶴見中尉のこと苦手だから、大丈夫かな。」
つらつら言葉を並べる杉元に反して、谷垣はぐっと口を引き結んだ。
「……谷垣?」
不思議に思い、谷垣を見ると、涙をこらえるように、唇を噛んでいる。それに、杉元は低い声で問いかけた。
「なにがあった…?」
「俺とさくらは杉元とウイルクを奪還するために、あの場所に行った。腕の良い狙撃手が狙っていたから、自分が牽制すると行って前に出て」
そこまで言うと、杉元が遮るようにして谷垣の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「おい!なんでさくらさんがそんなこと!!」
「さくらは『この戦いで必要なのは情報だ、誰を助けるか分かるだろう』と言っていた。」
まるでその場で聞いていたかのようにさくらの声が杉元の脳内で繰り返された。きっと、彼女ならそう言うだろう。冷静に、最適なものを選ぶために、……俺を守るために、命を張る人だ。
「さくらに託されたものがある。」
その言葉で杉元の手が緩んだ。へたり込む杉元の膝の上に一枚の写真をのせた。一人の女性の立ち姿だ。写真からも分かる美しい髪と、微笑みをたたえたさくらがそこにはいた。
「最後はこんな表情で言っていた、『意識が戻ったら杉元に渡してほしい。もし駄目なら、一緒に埋めて欲しい。』と、手渡された。」
杉元はゆっくりと、大切なものを扱うように写真を持ち上げた。モノクロの世界でさくらが笑っている。
「……さくら、さん」
「すまん……亡骸は連れてこれなかった。」
谷垣はこれ以上見ていられない、と静かに部屋を立ち去った。
再び一人になった病室で、杉元はさくらの写真を優しくなでた。
「ほんと、いつも無茶するんだからさ。アシリパさんを谷垣から救うときも丸腰で交渉するし、俺助けるためにヒグマの餌になろうとするし…」
優しく笑う口元をなぞる。
「微笑んださくらさんも素敵だけどさ、嬉しそうに笑った顔、好きだったんだ。俺、さくらさんが笑うとおんなじくらい嬉しくなるの。レアな感じでさ、宝物みたいでさ。」
写真にぽつりと雫が落ちた。
「……俺と生きたい、って言ってくれたじゃん。」
杉元の声が詰まる。くぐもったような声で、写真のさくらに話しかける。
「俺もさくらさんと生きたいよ。一緒にいたかったよ…。」
止めどなくしたたり落ちる雫で写真が濡れていく。
「ごめん…!これしか、ないのに」
急いで着ている浴衣で拭き取る。
…これしかないのだ。さくらの亡骸は今も網走監獄にある。唯一、彼女を感じられるものはこの写真一枚だけ。
「ずいぶん……軽くなって」
もう、ぬくもりも感じられない。その声を聞くこともできない。愛しい人をこの指で確かめることは、一生叶わないのだ。
写真を持つ手が震えた。
きっと近くに第七師団の見張りがいるだろう。敵陣で弱さを見せたくない。鶴見にどう利用されるか分からないからだ。しかし、大粒の涙が杉元の頬を後から後から伝っていく。とうとう、嗚咽が漏れると、布団に思い切り顔を押しつけた。細い月がのぼる静かな夜、まるで懺悔のように腰を折り、杉元は布団を濡らした。
早く行かなくては。
気が急くばかりで、足が思うように動かない。もっと速く、もっと速く…!そう思いながら走っているのが、まるで『あのとき』の夢のようである。追いかけてくる男たち…。もつれる足。男の指先が触れる。
「さくら…!」
がしり、とさくらの肩を掴む男の手が現れた。思わずびくりと肩を揺らし、思い切り後ろを振り向いた。
「谷垣さん…!」
「一人で男二人は運べんだろう。俺も行こう。」
そう言って、さくらの背を押しながら隣を走る。
「焦ると呼吸が乱れて遅くなる。もうすぐだ、頑張れ。」
「ありがと、うございます。」
谷垣の大きながっしりした手のひらが背中に当たる。それが背中を押し、幾分か走りやすくなった。
煙の間から、赤い囚人服が見える。その下で見慣れた着物と軍服がちらりと見えている。
「杉元さん…!」
駆け寄ろうとした瞬間、囚人の脇腹に弾丸が撃ち込まれた。そして、次の弾丸が杉元のこめかみ近くをかすめる。
…確実に死ぬまで撃つつもりか。
狙撃手はウイルクが杉元に何か情報を流したのを見たのかも知れない。第七師団あたり、杉元は吐かないと踏んで、殺しに回っても不思議ではない。谷垣とすぐ近くにある壁に体をつけて、様子を窺う。
「どこから撃っているんだ…」
さくらは定期的に上がる照明弾に合わせて、自身の双眼鏡を放り投げた。瞬間、レンズが撃ち抜かれ、そのまま地面に弾丸がめり込んだ。
「……相当、腕の良い人ですね。」
どこから撃っているのか、場所が分からなければ牽制ができない。
次の照明弾で持っていた手ぬぐいを放り投げる。同じく弾丸が撃ち込まれる。弾の入り方からして上からだ。見上げると、ここから近い場所に高見張りがある。
「…おい、遊んでいる場合じゃ」
谷垣の言葉を流して、先ほどの弾丸を撃ち込んだ主の場所を指し示した。
「おそらく、あの高見張りから撃ってます。杉元さんを執拗に狙っているところから、ウイルクから情報をもらった可能性が高いですね。」
杉元のこめかみから一センチも満たない場所に弾痕がある。
「次、撃たれたら杉元さんは確実に殺されます。」
さくらの言葉に谷垣が息をのんだ。
「だったらすぐにでも回収しないと…!」
前に出ようとする谷垣をさくらは目で制した。
「多分、私たちも出た瞬間、鉛玉が撃ち込まれますよ。」
二人で助けに行っても、誰も助からないだろう。…まるで尾形のような射撃の技術をもつ者だ。一気に谷垣とさくらを一発で仕留める事位しそうだ。ならば……、さくらは自身のコートのボタンを全て開き、小銃の安全子のロックを解錠すると、空の薬莢が地面に転がり落ちた。
「私が牽制で撃ち込みます、その間に二人を物陰へ。」
「おい……それじゃ、お前が」
死んでしまう。
そう言いかけた谷垣は、言葉を飲み込んだ。こちらを見つめるさくらは、言わずとも分かっていると、小さく頷いた。
「杉元が、許さないぞ…」
「許してはくれないでしょうね、…一度怒られてます。」
「だったら、俺が撃ち込…」
「…谷垣一等卒!!!」
突然さくらからの檄が飛んだ。
「この戦いで大切なのは情報です。誰が持っているか、誰が助けられるか、あなたは分かってるはず。」
いつもの『谷垣さん』ではなく、あえて階級で呼んだ。一兵士としての谷垣に問うているのだ。……戦地に赴かなかった女が、この場で一番冷静に、戦術を以て戦いに挑んでいるのだ。さくらは覚悟を決めている。強い意志を持った瞳が、谷垣の迷っている目を射貫く。
こうするしかない……。谷垣も心の中では分かっているのだ。しかし、目の前で死に行く者を止めたいという気持ちがあった。さくらは金塊に興味などないのだろう。アシリパと杉元に助けられたのだと、聞いたことがある。救われた恩を返すために、必死で食らいついて、この戦いに身を投じているのだ。どれだけつらくても、痛い思いをしても、目の前で自分の出来る最善を選んで。この戦いが終わればきっとさくらと杉元も、自分とインカラマッのように一緒になるのだろう。二人は何も言わないが、何となく周りも気がついている。愛する女が死にに行く……意識を取り戻した杉元がどうなってしまうのか。考えただけで胸が張り裂けそうだった。
谷垣は、目の前の女の澄んだ瞳をもう一度見つめた。『絶対に守るのだ』と、強い気持ちは揺るがない。谷垣は、さくらの問いに頷いた。
「分かった。俺が二人を連れて行こう。」
そう言うと、さくらは安心したように口元を少し緩ませた。そして、懐から自身の映った写真を取り出すと、谷垣に手渡した。
「私は、これだけでいい。意識が戻ったら杉元さんに渡してください。…もし駄目なら、一緒に埋めて欲しい。」
「…っ!……約束しよう。」
『死体は重くなるから置いていけ』暗にそう言ったのだ。谷垣は写真を落とさないように懐の奥にしまい込んだ。それを見届けると、さくらは、ふっと、柔らかく微笑んだ。硝煙と火災の煙が立ち上るなか、まるで泥の中に咲く蓮のように、余りに戦場に不釣り合いで美しい微笑みだった。
谷垣に写真を渡すとさくらは高見台の方へ体を向けた。
「次の照明弾が上がったら行きます。」
勝負は一度きり。自分の命を賭けて、杉元とウイルクを奪還する。手に力がこもる。……怖い、という感情が体を覆いそうになる。しかし、それを振り払うように肩に小銃を構えた。いつでも撃てるように、目線は高見台のある方向へ、ただ集中する。自身の死のカウントダウンが始まっている。指が冷たくなる、だめだ、気を確かに持て。自身の頭の中で葛藤する思いを必死で打ち消す。
照明弾が上がる。
「行きます…!」
さくらの合図によって二人は飛び出した。背後で谷垣が倒れた二人を移動させる音がする。コートを開いておいて正解だった。風でたなびいて視界を遮ってくれる。さくらは高見台にすぐさま弾丸を撃ち込んだ。高見台は距離がある。狙撃手を単体で狙い撃ちすることは難しい。だが、動きを封じるために、連続で発砲すれば、二人を助ける時間くらいは稼げる。装填した弾数、五発を全て撃ち込むと後ろから谷垣が「大丈夫だ」と声をかけた。
「よかった…!」
さくらは安堵の声を上げ、銃を下ろした。
ぱあんっ……―――!!
振り向こうとした瞬間、さくらの頭に大きな爆発音と衝撃が走った。それと同時に、杉元が伏していた場所にさくらの体が投げ出された。
高見台でその一発を撃ち込んだ尾形が、自身の髪をなでつけた。
「あのとき俺を選んでいればなあ…。さくら」
これまで何度だってチャンスはあったはずだ。それを不意にしたのはお前だ、さくら。
お前が杉元と生きる事を望むなら、俺はお前の死をもらったっていいだろう…?
尾形はさくらの伏した姿をもう一度見つめると、静かにその場を去った。
網走近郊の病院で、杉元はベットの上で目を覚ました。
細い月が病室の窓から見える。一日寝ていたらしい。
「なんだこれえ~?」
頭にぐるぐる巻かれた包帯で片方のめは見えないようにされている。助かったのか。
「ここ、どこだ?」
様子を窺おうと、ベットから抜け出そうとしたところで入り口のドアが開いた。ドアの向こうから谷垣がやってきた。
「目を覚ましたのか。不死身の杉元、驚異的な回復力だな。」
「おお、谷垣。ここはどこの病院だ?」
「網走の病院を間借りしてお前の手術をしてもらった。アシリパはキロランケと白石に船に行くよう言ったから、どこか逃げているだろう。俺達は第七師団預かりになっている。」
「…預かり?」
「残った俺達は第七師団に捕らえられた。インカラマッがキロランケに刺されてそれ以上動けなかった。インカラマッも治療を受けて休んでいる。鶴見中尉は、俺達から情報を聞き出し、アシリパ奪還に協力しろというんだろう。」
「裏切り者はキロランケってことか。なら、早いところアシリパさんを助けなくっちゃ。で、さくらさんは?アシリパさんと一緒?それともここにいるの?鶴見中尉のこと苦手だから、大丈夫かな。」
つらつら言葉を並べる杉元に反して、谷垣はぐっと口を引き結んだ。
「……谷垣?」
不思議に思い、谷垣を見ると、涙をこらえるように、唇を噛んでいる。それに、杉元は低い声で問いかけた。
「なにがあった…?」
「俺とさくらは杉元とウイルクを奪還するために、あの場所に行った。腕の良い狙撃手が狙っていたから、自分が牽制すると行って前に出て」
そこまで言うと、杉元が遮るようにして谷垣の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「おい!なんでさくらさんがそんなこと!!」
「さくらは『この戦いで必要なのは情報だ、誰を助けるか分かるだろう』と言っていた。」
まるでその場で聞いていたかのようにさくらの声が杉元の脳内で繰り返された。きっと、彼女ならそう言うだろう。冷静に、最適なものを選ぶために、……俺を守るために、命を張る人だ。
「さくらに託されたものがある。」
その言葉で杉元の手が緩んだ。へたり込む杉元の膝の上に一枚の写真をのせた。一人の女性の立ち姿だ。写真からも分かる美しい髪と、微笑みをたたえたさくらがそこにはいた。
「最後はこんな表情で言っていた、『意識が戻ったら杉元に渡してほしい。もし駄目なら、一緒に埋めて欲しい。』と、手渡された。」
杉元はゆっくりと、大切なものを扱うように写真を持ち上げた。モノクロの世界でさくらが笑っている。
「……さくら、さん」
「すまん……亡骸は連れてこれなかった。」
谷垣はこれ以上見ていられない、と静かに部屋を立ち去った。
再び一人になった病室で、杉元はさくらの写真を優しくなでた。
「ほんと、いつも無茶するんだからさ。アシリパさんを谷垣から救うときも丸腰で交渉するし、俺助けるためにヒグマの餌になろうとするし…」
優しく笑う口元をなぞる。
「微笑んださくらさんも素敵だけどさ、嬉しそうに笑った顔、好きだったんだ。俺、さくらさんが笑うとおんなじくらい嬉しくなるの。レアな感じでさ、宝物みたいでさ。」
写真にぽつりと雫が落ちた。
「……俺と生きたい、って言ってくれたじゃん。」
杉元の声が詰まる。くぐもったような声で、写真のさくらに話しかける。
「俺もさくらさんと生きたいよ。一緒にいたかったよ…。」
止めどなくしたたり落ちる雫で写真が濡れていく。
「ごめん…!これしか、ないのに」
急いで着ている浴衣で拭き取る。
…これしかないのだ。さくらの亡骸は今も網走監獄にある。唯一、彼女を感じられるものはこの写真一枚だけ。
「ずいぶん……軽くなって」
もう、ぬくもりも感じられない。その声を聞くこともできない。愛しい人をこの指で確かめることは、一生叶わないのだ。
写真を持つ手が震えた。
きっと近くに第七師団の見張りがいるだろう。敵陣で弱さを見せたくない。鶴見にどう利用されるか分からないからだ。しかし、大粒の涙が杉元の頬を後から後から伝っていく。とうとう、嗚咽が漏れると、布団に思い切り顔を押しつけた。細い月がのぼる静かな夜、まるで懺悔のように腰を折り、杉元は布団を濡らした。