白銀の世界で
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網走近くのコタンに身を寄せると、一同は顔を突き合わせて網走監獄の地図を眺めた。
「敷地内には監視のやぐらが五カ所。巡回する看守もウヨウヨいた。網走監獄は周囲三方が山に囲まれている。山にも二十カ所見張り小屋があって看守は全員ロシア製のモシン・ガナンで武装していた。小屋の中にはマキシム機関銃まであったぜ。戦争にでも備えてんのか?あいつら。」
アシリパと共に周辺を偵察してきた杉元が網走監獄周辺の様子を皆に伝える。
「私たちが脱獄する前よりさらに厳重になっている。」
土方は杉元の説明を聞いて、そう言った。刺青の凶悪犯達が集団で脱走したのだ、警備が厳重になっていても不思議ではない。
「山にまでかなりの人員を割いているんですね。」
素人のさくらからすれば、監獄内を厳重にするのは理解できるが、敷地外にまで警備を厳重に張り巡らすとは予想していなかったのだ。白石がその問いに答えた。
「山側は囚人の舎房があるから特に厳重なんだ。脱獄する囚人の心理としてはすぐにでも山に身を隠したいだろうし…」
そして、舎房を丸を描くように指して言葉を継げる。
「看守達がいる建物の前を危険を冒して通ろうと考える奴はまずいないからな。」
確かにリスクを考えれば、わざわざ看守達に近づくルートは取るまい。白石の話に永倉が説明を加えた。
「それもあるが…監獄側はのっぺらぼうを奪いに来る連中も警戒しているということだ。」
逃げ延びた囚人達。刺青人皮の秘密にたどりつき、仲間を集めて金塊を手に入れようと杉元や土方たちのように行動する者もいる。しかし、最も手っ取り早いのは、刺青を入れた張本人から聞き出すことだ。『奪う』ことで生きてきた者たちが一番に考えるのはそちらだろう。……だからこそ、山に多くの見張り小屋を設置しているのか。そうなると、山から身を隠しての侵入は難しい。どうやって忍び込めば良いのか。
白石は監獄の地図をじいっと眺めると、すっと指さした。
「とすれば、やはり侵入経路は警備の手薄な網走川に面した塀しかねえ。ここだ。」
牛山が白石の提案に問うた。
「手薄と言っても誰も見に来ない訳じゃないだろう。」
白石はにやりと笑った。
「この計画は今の時期しか出来ねえぜ。鮭が捕れる今だからこそな。」
鮭が捕れるのは秋の一~二ヶ月の間だ。それまでにアイヌに変装した谷垣たち男性時が網走川の岸辺から秘密裏に穴を掘り、ばれないように土を川に巻いて経路を確保する。他の者たちはコタンで狩りや家事の手伝いをしたり、各々で時間を使っていた。そして、さくらは永倉に買ってもらった三十年式歩兵銃を扱えるようになるべく、山に入っていた。
あの後、杉元にはすぐに謝罪をし、受け入れてもらってはいる。しかし、杉元のあの表情を思い出すと、わだかまりがまだ残っているように感じているのだ。
「ため息なんぞ、らしくないな。」
先を行く尾形がこちらの様子に気付いたのか声をかけた。
「杉元となにかあったか。」
痛いところを的確に突いてくる。人をよく見ている男だ。おおよそ何があったか目星はついているんだろう。それでも、言うことは憚られた。尾形との関係性の上で、話づらい内容である。それに、この男にまで『そりゃあ杉元の言い分も分からんではない』などと言われてしまえば、自分の覚悟など吹けば飛ぶようなものだと嘲笑われているような気がして、自然と口を引き結んだ。
さくらの様子から、それ以上何か言うわけでも無く、尾形は自身の髪をなでつけ、進行方向を向き直した。
少し開けた場所に出てくると、空がよく見えた。
そこまで来ると尾形はさくらの三十年式歩兵銃を手にした。実際に使いながら、さくらに手順を解説する。
「装填数は五発。照準機は二千メートルまで使える仕様になっている。このフックが安全子だ。右に回せば引き金がロックされる。弾倉に五発装填したら、両手で銃身を構える。片手は弾倉の先、肩の関節と頬を押しつけて銃身の後方部分を固定し、狙いを定める。拳銃とは違って銃身が長い分全身で支えろ。潜伏場所で銃口を固定する場所、銃剣を指して支柱にできる場合はより安定する。」
雁の群れが空を飛んでいる。尾形が五発発砲すると五羽の雁が地面に落とされた。
「やってみろ。」
尾形から小銃を返還され、同じように装填をする。銃声のため、近くに動物の影はない。
スカートの上から革製のベルトをして、そこに銃剣を差し込む剣差を装備している。さくら仕舞っている銃剣を取り出し、木の幹に突き刺した。
「あの木を狙います。」
幹に穴の開いた木を指し示し、それに照準を合わせる。
一発目は木の幹をかすめ、二,三発と撃ち方を僅かに変えながら徐々に目標に近づけていく。五発目で宣言した木の幹の穴に撃ち込むと、中からリスが飛び出してきた。
「五発で感覚を掴んだか。男だったら部下にしたんだがな。」
髪をなでつけて、尾形が面白そうに言った。この男、腕は良いのだ。その人物に褒められたのだから悪い気はしない。
「だが、一発で仕留めなければ意味が無い。一発目で居場所がばれる。装填に手間取ればその間に距離を詰められ殺される。」
褒めたところで、尾形はすっと冷めた目でさくらの顔をのぞき込んだ。
「今度は三人じゃ足りんぞ。」
その言葉に、ひゅっと喉が鳴った。男たちの死に顔が頭に浮かんだ。
さくらの反応に小さく笑う。
「手になじむまで触り続けろ。体の一部と思うくらいにな。」
尾形がさくらの肩をぽんぽんと軽くたたいた。頑張れよ、とでも言いたげな仕草だ。…尾形の言葉はまさにその通りだ。ベルトに同じく取り付けている弾薬盒には、ぎっしりと銃弾が準備されている。この弾の数だけ、私は……。
「…ありがとう、ございました。」
戦争に自ら足を突っ込んでいる。ようやく現実味を帯びてきたのか、体の熱が全て引いていくように冷たくなっていく。今は、尾形に礼を述べるので精一杯だ。この銃をただのオモチャで手に入れたわけではない。
「人殺しの道具」
杉元の言葉が今になって胸に突き刺さった。
杉元達の作業は終了し、穴の先は網走監獄の看守である門倉に続いていた。内通者である門倉を通じ、網走監獄の地図を手に入れ、のっぺらぼうの収監されている独房を正確に把握することが出来ていたのだ。後は月の出ない夜を待ち、作戦を決行するだけだ。
その間にも、さくらはアイヌの猟に同行させてもらい、鹿を撃ち、一人で装填や素早く構える練習を何度も何度も行っていた。初めて撃った鹿はアシリパさんに最初に脳みそを贈り、残りはコタンの皆と分け合って食べた。初めは重いと感じていた三十年式歩兵銃だが、この重量感が射撃の上で丁度良いとさえ思える程には体に馴染んできていた。そうして動物を仕留めてくると喜ぶのは白石やアシリパで、杉元の表情は心なしか曇っているようだった。
決行の日が近くなった頃、アシリパの提案で鮭を使ったチタタプを皆で作ることになった。『我々が刻むもの』であるチタタプを全員で作ることで連帯感を感じようという、彼女なりの考えなのだろう。初めてチタタプする夏太郎や、土方の日本刀で刻み始めるチカパシなど和気藹々と料理を進めていく。その喧噪に混じって尾形の「チタタプ」という声が聞こえる。まさか、と振り返ると、アシリパが嬉しそうに目を輝かせていた。
「聞いたか?今尾形がチタタプって!」
谷垣や杉元は聞いていなかったのか無反応だ。
「聞こえましたね。」
さくらがそう言うとアシリパの目がより一層輝いた。
「そうだよな!尾形!もう一回言ってみろ!」
アシリパの要望に無視を決め込んで、尾形は一通り刻み終わると牛山に包丁を手渡してしまった。
そして、実の部分は串焼きにし、おかゆの中にイクラをいれたチポロサヨなど、鮭三昧の夕食ができあがった。みな、脂ののった鮭に舌鼓を打ち、表情も柔らかだ。家永、キロランケと同じくさくらも鮭の串焼きを頬張っていると、隣にいた牛山がインカラマッに声をかけた。
「インカラマッさんて言ったかね。あんたいい人いるのかい?」
牛山の問いかけに、にこりと笑うインカラマッと谷垣の間にいるチカパシが、さっと器を持った。谷垣の食べかけの器をインカラマッに手渡す。これが何を意味するのか?谷垣も困惑したような声を上げる。アシリパがこれが婚姻の儀式だと皆に教えた。
「……チカパシ、返しなさい。」
そう言ってチカパシから器を返してもらうと谷垣は席を外した。
「おっと……まだ微妙な関係だったか」
その空気を打ち破るように、キロランケが牛山の器に酒を注ぐ。
「まあまあ、白石が博打で稼いだ酒だ。飲み干そうぜ。」
「キロちゃん!も~う!!」
それに乗るように白石も明るく振る舞った。そこからは皆、飲み比べが始まり、どんちゃん騒ぎとなった。尾形は早々につぶされ、お調子者達は歌え踊れの宴会を繰り広げている。そこで、杉元が一人、お手洗いに行くのだろうか、抜けていくのが見えた。さくらも少し間を置いて小屋から出た。
星空に細い三日月がかかっている。小屋を出ると、虫の声が響き、途端に静かに感じられた。大きな戦いの前だ。少しでもためらいとなることは取り除いておきたい。杉元がさくらが戦闘に加わることを是としていないのはよく分かっている。だからこそ、きちんと話しておきたかったのだ。
「……あれ?さくらさんもお花摘み?」
戻ってきた杉元がこちらに声をかけた。
「決行の前に、少し……話がしたくて、いいですか?」
「うん……ちょっと歩こうか。」
コタンの集会場のような場所に出ると、どちらともなく、その場に座った。
「それで、話って?」
「これ、見てください。」
「え…!?ちょっと…さくらさん!」
さくらは肩口を大きくはだけさせた。ヒグマにつけられた傷が大きく跡を残している。予想外の行動に、杉元は赤面しながら目を覆った。
「私は一度、生きることを諦めました。でも、今は違います。絶対に生き残る。大切な人たちを必ず守る。例え屍の上に立つことになっても。……杉元さん、私を汚いと思いますか?」
杉元は囚人の死体処理も戦闘も全て自分で引き受けている。『汚れ役』を買って出ている。多くの人を殺めてきたからこそ、殺人を犯したことのないアシリパやさくらをきれいな存在であると、そう思っている節がある。ならば、殺人に手を染めたさくらは杉元自身と同じように汚いのか?杉元の思考からすれば、そういうことになってしまうだろう。
だが、さくらは分かっている。杉元は頷かない。
「いや、汚いなんてそんなわけないだろ!」
案の定、杉元は大きく首を横に振った。
「だったら、杉元さんも汚れてなんていませんよ。私たちはただ生きたいだけ。」
杉元の行動の根底には罪悪感がある。元々、優しい男だ、敵だと割り切っている中でも心の奥底は違うのだ。ちぐはぐになった心を保つために折り合いを付けている。……それでも苦しくなる、たった三人でさえ。死体の山が増えていけば、心はどうなってしまうのか。杉元はよく知っている、だから止めたいのだ。だが、この戦いはもう止めることはできないところまで来た。尾形から拳銃を受け取ったあの日から、さくらの行く末は決まっていたのかもしれない。人を殺す覚悟を、耳障りのいい言葉に変えて杉元に伝える。
さくらは杉元の顔の傷に手を伸ばした。深い傷跡が頬を抉るように走っている。
「この傷跡も生きたいという証。杉元さんがそう願ったから、今こうしてそばにいられるのでしょう。」
きっと、傷跡の数だけ、死に顔を思い出していただろう。しかし、そうではない。私たちは生きるために戦ったに過ぎない。愛する人を守るために戦ったのだ。それは、正しいことだったのだと、さくらも自身に言い聞かせるように言葉を継げた。
「私はあなたと生きたい。だから、戦います。その思いだけは、否定しないで欲しい。」
私たちには救いが必要だ。人を殺すための大義名分が。それさえあれば、地獄でさえ、あなたと共にいこう。
「さくらさん…」
杉元の顔が近づく。形の良い唇がさくらのと重なった。さくらが杉元の背に腕を回した。それに合わせるように杉元は覆い被さるようにさくらを抱き込み、口づけを深くした。熱い体に包まれる充足感。熱い舌が荒々しく口内を犯す。熱に浮かされた杉元の瞳のなかには同じく蕩けた表情の自身が映っていた。
「さくらさん、好きだ…。」
口づけの合間に杉元がうわごとのようにつぶやく。
屍を踏みつける道になろうとも、生きるのだ、と。
さくらの目に迷いは無くなっていた。
「敷地内には監視のやぐらが五カ所。巡回する看守もウヨウヨいた。網走監獄は周囲三方が山に囲まれている。山にも二十カ所見張り小屋があって看守は全員ロシア製のモシン・ガナンで武装していた。小屋の中にはマキシム機関銃まであったぜ。戦争にでも備えてんのか?あいつら。」
アシリパと共に周辺を偵察してきた杉元が網走監獄周辺の様子を皆に伝える。
「私たちが脱獄する前よりさらに厳重になっている。」
土方は杉元の説明を聞いて、そう言った。刺青の凶悪犯達が集団で脱走したのだ、警備が厳重になっていても不思議ではない。
「山にまでかなりの人員を割いているんですね。」
素人のさくらからすれば、監獄内を厳重にするのは理解できるが、敷地外にまで警備を厳重に張り巡らすとは予想していなかったのだ。白石がその問いに答えた。
「山側は囚人の舎房があるから特に厳重なんだ。脱獄する囚人の心理としてはすぐにでも山に身を隠したいだろうし…」
そして、舎房を丸を描くように指して言葉を継げる。
「看守達がいる建物の前を危険を冒して通ろうと考える奴はまずいないからな。」
確かにリスクを考えれば、わざわざ看守達に近づくルートは取るまい。白石の話に永倉が説明を加えた。
「それもあるが…監獄側はのっぺらぼうを奪いに来る連中も警戒しているということだ。」
逃げ延びた囚人達。刺青人皮の秘密にたどりつき、仲間を集めて金塊を手に入れようと杉元や土方たちのように行動する者もいる。しかし、最も手っ取り早いのは、刺青を入れた張本人から聞き出すことだ。『奪う』ことで生きてきた者たちが一番に考えるのはそちらだろう。……だからこそ、山に多くの見張り小屋を設置しているのか。そうなると、山から身を隠しての侵入は難しい。どうやって忍び込めば良いのか。
白石は監獄の地図をじいっと眺めると、すっと指さした。
「とすれば、やはり侵入経路は警備の手薄な網走川に面した塀しかねえ。ここだ。」
牛山が白石の提案に問うた。
「手薄と言っても誰も見に来ない訳じゃないだろう。」
白石はにやりと笑った。
「この計画は今の時期しか出来ねえぜ。鮭が捕れる今だからこそな。」
鮭が捕れるのは秋の一~二ヶ月の間だ。それまでにアイヌに変装した谷垣たち男性時が網走川の岸辺から秘密裏に穴を掘り、ばれないように土を川に巻いて経路を確保する。他の者たちはコタンで狩りや家事の手伝いをしたり、各々で時間を使っていた。そして、さくらは永倉に買ってもらった三十年式歩兵銃を扱えるようになるべく、山に入っていた。
あの後、杉元にはすぐに謝罪をし、受け入れてもらってはいる。しかし、杉元のあの表情を思い出すと、わだかまりがまだ残っているように感じているのだ。
「ため息なんぞ、らしくないな。」
先を行く尾形がこちらの様子に気付いたのか声をかけた。
「杉元となにかあったか。」
痛いところを的確に突いてくる。人をよく見ている男だ。おおよそ何があったか目星はついているんだろう。それでも、言うことは憚られた。尾形との関係性の上で、話づらい内容である。それに、この男にまで『そりゃあ杉元の言い分も分からんではない』などと言われてしまえば、自分の覚悟など吹けば飛ぶようなものだと嘲笑われているような気がして、自然と口を引き結んだ。
さくらの様子から、それ以上何か言うわけでも無く、尾形は自身の髪をなでつけ、進行方向を向き直した。
少し開けた場所に出てくると、空がよく見えた。
そこまで来ると尾形はさくらの三十年式歩兵銃を手にした。実際に使いながら、さくらに手順を解説する。
「装填数は五発。照準機は二千メートルまで使える仕様になっている。このフックが安全子だ。右に回せば引き金がロックされる。弾倉に五発装填したら、両手で銃身を構える。片手は弾倉の先、肩の関節と頬を押しつけて銃身の後方部分を固定し、狙いを定める。拳銃とは違って銃身が長い分全身で支えろ。潜伏場所で銃口を固定する場所、銃剣を指して支柱にできる場合はより安定する。」
雁の群れが空を飛んでいる。尾形が五発発砲すると五羽の雁が地面に落とされた。
「やってみろ。」
尾形から小銃を返還され、同じように装填をする。銃声のため、近くに動物の影はない。
スカートの上から革製のベルトをして、そこに銃剣を差し込む剣差を装備している。さくら仕舞っている銃剣を取り出し、木の幹に突き刺した。
「あの木を狙います。」
幹に穴の開いた木を指し示し、それに照準を合わせる。
一発目は木の幹をかすめ、二,三発と撃ち方を僅かに変えながら徐々に目標に近づけていく。五発目で宣言した木の幹の穴に撃ち込むと、中からリスが飛び出してきた。
「五発で感覚を掴んだか。男だったら部下にしたんだがな。」
髪をなでつけて、尾形が面白そうに言った。この男、腕は良いのだ。その人物に褒められたのだから悪い気はしない。
「だが、一発で仕留めなければ意味が無い。一発目で居場所がばれる。装填に手間取ればその間に距離を詰められ殺される。」
褒めたところで、尾形はすっと冷めた目でさくらの顔をのぞき込んだ。
「今度は三人じゃ足りんぞ。」
その言葉に、ひゅっと喉が鳴った。男たちの死に顔が頭に浮かんだ。
さくらの反応に小さく笑う。
「手になじむまで触り続けろ。体の一部と思うくらいにな。」
尾形がさくらの肩をぽんぽんと軽くたたいた。頑張れよ、とでも言いたげな仕草だ。…尾形の言葉はまさにその通りだ。ベルトに同じく取り付けている弾薬盒には、ぎっしりと銃弾が準備されている。この弾の数だけ、私は……。
「…ありがとう、ございました。」
戦争に自ら足を突っ込んでいる。ようやく現実味を帯びてきたのか、体の熱が全て引いていくように冷たくなっていく。今は、尾形に礼を述べるので精一杯だ。この銃をただのオモチャで手に入れたわけではない。
「人殺しの道具」
杉元の言葉が今になって胸に突き刺さった。
杉元達の作業は終了し、穴の先は網走監獄の看守である門倉に続いていた。内通者である門倉を通じ、網走監獄の地図を手に入れ、のっぺらぼうの収監されている独房を正確に把握することが出来ていたのだ。後は月の出ない夜を待ち、作戦を決行するだけだ。
その間にも、さくらはアイヌの猟に同行させてもらい、鹿を撃ち、一人で装填や素早く構える練習を何度も何度も行っていた。初めて撃った鹿はアシリパさんに最初に脳みそを贈り、残りはコタンの皆と分け合って食べた。初めは重いと感じていた三十年式歩兵銃だが、この重量感が射撃の上で丁度良いとさえ思える程には体に馴染んできていた。そうして動物を仕留めてくると喜ぶのは白石やアシリパで、杉元の表情は心なしか曇っているようだった。
決行の日が近くなった頃、アシリパの提案で鮭を使ったチタタプを皆で作ることになった。『我々が刻むもの』であるチタタプを全員で作ることで連帯感を感じようという、彼女なりの考えなのだろう。初めてチタタプする夏太郎や、土方の日本刀で刻み始めるチカパシなど和気藹々と料理を進めていく。その喧噪に混じって尾形の「チタタプ」という声が聞こえる。まさか、と振り返ると、アシリパが嬉しそうに目を輝かせていた。
「聞いたか?今尾形がチタタプって!」
谷垣や杉元は聞いていなかったのか無反応だ。
「聞こえましたね。」
さくらがそう言うとアシリパの目がより一層輝いた。
「そうだよな!尾形!もう一回言ってみろ!」
アシリパの要望に無視を決め込んで、尾形は一通り刻み終わると牛山に包丁を手渡してしまった。
そして、実の部分は串焼きにし、おかゆの中にイクラをいれたチポロサヨなど、鮭三昧の夕食ができあがった。みな、脂ののった鮭に舌鼓を打ち、表情も柔らかだ。家永、キロランケと同じくさくらも鮭の串焼きを頬張っていると、隣にいた牛山がインカラマッに声をかけた。
「インカラマッさんて言ったかね。あんたいい人いるのかい?」
牛山の問いかけに、にこりと笑うインカラマッと谷垣の間にいるチカパシが、さっと器を持った。谷垣の食べかけの器をインカラマッに手渡す。これが何を意味するのか?谷垣も困惑したような声を上げる。アシリパがこれが婚姻の儀式だと皆に教えた。
「……チカパシ、返しなさい。」
そう言ってチカパシから器を返してもらうと谷垣は席を外した。
「おっと……まだ微妙な関係だったか」
その空気を打ち破るように、キロランケが牛山の器に酒を注ぐ。
「まあまあ、白石が博打で稼いだ酒だ。飲み干そうぜ。」
「キロちゃん!も~う!!」
それに乗るように白石も明るく振る舞った。そこからは皆、飲み比べが始まり、どんちゃん騒ぎとなった。尾形は早々につぶされ、お調子者達は歌え踊れの宴会を繰り広げている。そこで、杉元が一人、お手洗いに行くのだろうか、抜けていくのが見えた。さくらも少し間を置いて小屋から出た。
星空に細い三日月がかかっている。小屋を出ると、虫の声が響き、途端に静かに感じられた。大きな戦いの前だ。少しでもためらいとなることは取り除いておきたい。杉元がさくらが戦闘に加わることを是としていないのはよく分かっている。だからこそ、きちんと話しておきたかったのだ。
「……あれ?さくらさんもお花摘み?」
戻ってきた杉元がこちらに声をかけた。
「決行の前に、少し……話がしたくて、いいですか?」
「うん……ちょっと歩こうか。」
コタンの集会場のような場所に出ると、どちらともなく、その場に座った。
「それで、話って?」
「これ、見てください。」
「え…!?ちょっと…さくらさん!」
さくらは肩口を大きくはだけさせた。ヒグマにつけられた傷が大きく跡を残している。予想外の行動に、杉元は赤面しながら目を覆った。
「私は一度、生きることを諦めました。でも、今は違います。絶対に生き残る。大切な人たちを必ず守る。例え屍の上に立つことになっても。……杉元さん、私を汚いと思いますか?」
杉元は囚人の死体処理も戦闘も全て自分で引き受けている。『汚れ役』を買って出ている。多くの人を殺めてきたからこそ、殺人を犯したことのないアシリパやさくらをきれいな存在であると、そう思っている節がある。ならば、殺人に手を染めたさくらは杉元自身と同じように汚いのか?杉元の思考からすれば、そういうことになってしまうだろう。
だが、さくらは分かっている。杉元は頷かない。
「いや、汚いなんてそんなわけないだろ!」
案の定、杉元は大きく首を横に振った。
「だったら、杉元さんも汚れてなんていませんよ。私たちはただ生きたいだけ。」
杉元の行動の根底には罪悪感がある。元々、優しい男だ、敵だと割り切っている中でも心の奥底は違うのだ。ちぐはぐになった心を保つために折り合いを付けている。……それでも苦しくなる、たった三人でさえ。死体の山が増えていけば、心はどうなってしまうのか。杉元はよく知っている、だから止めたいのだ。だが、この戦いはもう止めることはできないところまで来た。尾形から拳銃を受け取ったあの日から、さくらの行く末は決まっていたのかもしれない。人を殺す覚悟を、耳障りのいい言葉に変えて杉元に伝える。
さくらは杉元の顔の傷に手を伸ばした。深い傷跡が頬を抉るように走っている。
「この傷跡も生きたいという証。杉元さんがそう願ったから、今こうしてそばにいられるのでしょう。」
きっと、傷跡の数だけ、死に顔を思い出していただろう。しかし、そうではない。私たちは生きるために戦ったに過ぎない。愛する人を守るために戦ったのだ。それは、正しいことだったのだと、さくらも自身に言い聞かせるように言葉を継げた。
「私はあなたと生きたい。だから、戦います。その思いだけは、否定しないで欲しい。」
私たちには救いが必要だ。人を殺すための大義名分が。それさえあれば、地獄でさえ、あなたと共にいこう。
「さくらさん…」
杉元の顔が近づく。形の良い唇がさくらのと重なった。さくらが杉元の背に腕を回した。それに合わせるように杉元は覆い被さるようにさくらを抱き込み、口づけを深くした。熱い体に包まれる充足感。熱い舌が荒々しく口内を犯す。熱に浮かされた杉元の瞳のなかには同じく蕩けた表情の自身が映っていた。
「さくらさん、好きだ…。」
口づけの合間に杉元がうわごとのようにつぶやく。
屍を踏みつける道になろうとも、生きるのだ、と。
さくらの目に迷いは無くなっていた。