白銀の世界で
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池の底へと杉元を突き飛ばし、その反動でさくらは自身の体を浮上させた。驚き目を見開いた杉元と視線が交わった。その視線から逃れるように水面へと顔を向けた。
ヒグマの顔がすぐそこまで迫っている。怖くない、といえば嘘になる。しかし、自分にできることなどこれくらいしか思いつかなかった。水中にヒグマの大きな手が差し入れられた。その瞬間、肩に激痛が走る。さくらは視界が赤く染まっていくのが見えた。きっと、このまま頭から食われるのだ。恐怖できつく目をつむった。
しかし、予想していた痛みはいつまで経ってもやってこない。代わりに、力強い腕に抱かれ、そのまま浮上すると、水上へと顔を出した。途端に杉元の怒号が響いた。
「今死んだら無駄死にだぞ!!全員で網走に行くんだろ!!」
第七師団から逃走するとき、まさにさくらが杉元に投げかけた言葉だった。さくらは唖然として何も言い返すことが出来なかった。ヒグマが怯んで距離を取っている間に二人は地上へあがり、間髪入れず、杉元は勢いよくヒグマへと向かっていった。それを見届けると、さくらは地面へ横たわった。出血で頭がぼうっとしてくる。鼓動を打つ度に熱い血液が流れ出ているのが感じられた。喧噪が遠くの方で聞こえる。自分の意識が遠くなっているのだ、と冷静に考えたところで視界が黒くなった。
次に目を覚ますと、アシリパと尾形の顔がこちらをのぞき込んでいた。
「さくら、薬を塗って止血をしたから大丈夫だ。村までは尾形に運んでもらおう。」
肩を見ると、きつく布で巻かれている。
「ありがとう、アシリパさん。……尾形さん、すいませんがお願いします。」
「ああ。」
いつものように無表情の尾形が頷いた。そして、さくらの怪我をした肩に触れないように慎重に横抱きにして立ち上がった。先ほどのヒグマは村の男たちが解体を終えて、運び出すところだ。一人の男がこちらに近づいてきた。
「村へ戻ってクマを送る儀式をする。杉元ニシパは?」
質問にアシリパが答えた。
「あっちで姉畑を埋葬している。すぐに追いつくから先に行こう。」
木陰で杉元の後ろ姿が見えた。きっと姉畑の刺青を取っているのだろう。アシリパがそう濁してくれたのを素知らぬ顔をして聞きながら、一行は杉元を残して、元来た村へと帰ることになった。
尾形は振動を抑えるようにがっしりとさくらを胸に引き寄せ歩き出した。細身ながらも筋肉質な体から触れている部分に熱が伝わってくる。大雪山ではぬるいと思っていた体温が今は少し温かく感じる。
「だいぶ冷えているな。おかげで出血はそれほどないようだが。」
尾形がさくらの傷に視線を向けながら言った。しかし、さくらは答えること無くうつむいている。無視しているというよりは考え込んでいる様子に尾形は首をかしげた。姉畑の刺青人皮は無事、調達し谷垣も無罪と知らしめることが出来た。心配事はかたが付いたはずだ。そこで、ふと思い返す。
「……杉元が怒鳴っていたな。まさか仕留め損なったのを咎められたか。」
あのとき、さくらは威嚇のためにヒグマに一発命中させていた。拳銃では威力が落ちるが、あのまま向かってきたヒグマの脳天にもう一発食らわせれば、大いに傷を負わせられたはずだった。
「そんなことを怒ったりしませんよ、…あの人は。」
歯切れの悪いさくらの言葉に、尾形は何となく察した。あの男が、女が失敗したからといって責めるような人間ではないことはわかりきっている。さくらの答え方から、この女が何かしら自ら行動したのだとは察せられた。あの杉元がさくら相手に声を荒げるくらいだ。危険なことをしたのは間違いないだろう。ただ、それが本当に責められる行動だったのか。
「……お前は状況をよく見れている。最善の手を打ったんだろ。」
そう言うと、さくらは顔を上げた。不安そうな瞳と目が合った。杉元を追う視線が、今は自分だけを見つめていると思うと、胸にわきあがってくるものがある。
「お前はいつも冷静に物事を分析している。それこそ、慎重すぎるほどにな。だが、そのお前が動かなければならないと思ったのなら、その判断は間違っていない。たとえ危険を冒してもやらねばならんと思ったのだろう?」
「……はい。これしか道は無いと。被害を最小限にするには……。網走で杉元さんは必要な人です。私よりずっと。」
自分の命と引き替えに。自分の好いた女が自分のために死にに行く姿を杉元は見ていたのか。内心驚いていたが、顔色を変えること無く話を聞いた。
「私は第七師団から逃げたとき、弱気になった杉元さんを励ましました。全員で逃げるのだと、諦めてはいけないと伝えたんです。でも、いざ、こういう事態になって一番に諦めたのは私です。私は二人で助かる道を選ばなかった。」
さくらの表情が険しくなる。
「選べなかったのだろう。お前が責められることじゃない。」
うつむいていく顔が再び上を向いた。潤んだ瞳には、不安だけではないものが映っているように見えた。まるで、尾形の言葉にすがるようにさくらは尾形の胸元のシャツをぎゅっとにぎった。
「さくら、よくやった。村に着くまで少し休め。」
「はい……」
尾形の言葉にさくらは素直に従った。瞳を閉じると、尾形に身を任せるように眠りについた。
自身の胸で安心するように眠るさくらに妙な感覚を覚える。女など、一夜限りの関係で十分だと思っていた。体の具合が合えば、あとは器量だの大して見る必要も無い。だが、さくらはどうだ。初めて出会った雪山で、己を救おうと必死で向かう姿が、手を掴まなかったときの表情が今でも脳裏に焼き付いている。『救い』は母を失ったあの頃から諦めていた。見知らぬ女から、金が目当てでも、上等兵という地位でもなく、ただ手を伸ばされたことがあっただろうか。
歩く振動でさくらの頬にさらり、と髪が滑る。その髪は、頬はどれほどやわらかで、甘いのか。触れてみたい、唇をよせたい。そうすればどんな表情をこちらに向けてくれるのか。思い合った仲ならば、触れる手に頬を寄せてくれるのか。澄んだ瞳がどんな色を乗せるのか。目を閉じるさくらの顔を見つめた。
さくらが目を覚ますと、家の中ではすでに宴会が始まっていた。杉元一行も、アイヌの男たちも赤い顔をして楽しそうに互いの杯に酒を注ぎ合っていた。
「起きたか。」
隣にはアシリパがいて、突然、アシリパの手を鼻先に持ってきた。
「ヒグマを怯ませるときに蛇を投げたんだ。くさくないか?」
私たちを助けるために苦手な蛇に触ったのか。
「だからヒグマが退いたのね。くさくない、アシリパさんありがとう。」
そう言うと、アシリパは「他の奴にもかがせてくる。」といって男たちの輪に入っていった。宴会は盛り上がり、しばらくすると酔いつぶれた男たちが雑魚寝をし始めた。あたりが静かになってくると、谷垣が一行に声をかけた。それに従って皆が集まると、フチの夢の話を聞かされた。孫娘を失ってしまう。長旅をする幼い孫を心配しない祖母がいるだろうか。杉元はアシリパに戻ろう、と提案するがアシリパはそれを突っぱねた。
そして、翌日、白石たちと合流するために釧路へと向かった。谷垣はフチとの約束を果たすため、アシリパに同行し、来たるべき時が来れば村へ帰ることとなった。釧路で白石、インカラマッ、チカパシと合流し、アシリパの親類がいるという村に行くことになった。
「おい、お前ら結婚しろ!」
アシリパは谷垣とインカラマッに叫んだ。二人の雰囲気が甘いものに見えたのは皆同じようで、白石はにやにやしている。何となく気になって杉元の方に目を向けた。すると、あちらもさくらを見ていたのか目が合った。しかし、杉元は帽子を下げて、視線を外した。……あの一件以来、杉元とは話していない。ぎこちない様子に、さくらもどう話して良いか分からず視線を外した。
ヒグマの顔がすぐそこまで迫っている。怖くない、といえば嘘になる。しかし、自分にできることなどこれくらいしか思いつかなかった。水中にヒグマの大きな手が差し入れられた。その瞬間、肩に激痛が走る。さくらは視界が赤く染まっていくのが見えた。きっと、このまま頭から食われるのだ。恐怖できつく目をつむった。
しかし、予想していた痛みはいつまで経ってもやってこない。代わりに、力強い腕に抱かれ、そのまま浮上すると、水上へと顔を出した。途端に杉元の怒号が響いた。
「今死んだら無駄死にだぞ!!全員で網走に行くんだろ!!」
第七師団から逃走するとき、まさにさくらが杉元に投げかけた言葉だった。さくらは唖然として何も言い返すことが出来なかった。ヒグマが怯んで距離を取っている間に二人は地上へあがり、間髪入れず、杉元は勢いよくヒグマへと向かっていった。それを見届けると、さくらは地面へ横たわった。出血で頭がぼうっとしてくる。鼓動を打つ度に熱い血液が流れ出ているのが感じられた。喧噪が遠くの方で聞こえる。自分の意識が遠くなっているのだ、と冷静に考えたところで視界が黒くなった。
次に目を覚ますと、アシリパと尾形の顔がこちらをのぞき込んでいた。
「さくら、薬を塗って止血をしたから大丈夫だ。村までは尾形に運んでもらおう。」
肩を見ると、きつく布で巻かれている。
「ありがとう、アシリパさん。……尾形さん、すいませんがお願いします。」
「ああ。」
いつものように無表情の尾形が頷いた。そして、さくらの怪我をした肩に触れないように慎重に横抱きにして立ち上がった。先ほどのヒグマは村の男たちが解体を終えて、運び出すところだ。一人の男がこちらに近づいてきた。
「村へ戻ってクマを送る儀式をする。杉元ニシパは?」
質問にアシリパが答えた。
「あっちで姉畑を埋葬している。すぐに追いつくから先に行こう。」
木陰で杉元の後ろ姿が見えた。きっと姉畑の刺青を取っているのだろう。アシリパがそう濁してくれたのを素知らぬ顔をして聞きながら、一行は杉元を残して、元来た村へと帰ることになった。
尾形は振動を抑えるようにがっしりとさくらを胸に引き寄せ歩き出した。細身ながらも筋肉質な体から触れている部分に熱が伝わってくる。大雪山ではぬるいと思っていた体温が今は少し温かく感じる。
「だいぶ冷えているな。おかげで出血はそれほどないようだが。」
尾形がさくらの傷に視線を向けながら言った。しかし、さくらは答えること無くうつむいている。無視しているというよりは考え込んでいる様子に尾形は首をかしげた。姉畑の刺青人皮は無事、調達し谷垣も無罪と知らしめることが出来た。心配事はかたが付いたはずだ。そこで、ふと思い返す。
「……杉元が怒鳴っていたな。まさか仕留め損なったのを咎められたか。」
あのとき、さくらは威嚇のためにヒグマに一発命中させていた。拳銃では威力が落ちるが、あのまま向かってきたヒグマの脳天にもう一発食らわせれば、大いに傷を負わせられたはずだった。
「そんなことを怒ったりしませんよ、…あの人は。」
歯切れの悪いさくらの言葉に、尾形は何となく察した。あの男が、女が失敗したからといって責めるような人間ではないことはわかりきっている。さくらの答え方から、この女が何かしら自ら行動したのだとは察せられた。あの杉元がさくら相手に声を荒げるくらいだ。危険なことをしたのは間違いないだろう。ただ、それが本当に責められる行動だったのか。
「……お前は状況をよく見れている。最善の手を打ったんだろ。」
そう言うと、さくらは顔を上げた。不安そうな瞳と目が合った。杉元を追う視線が、今は自分だけを見つめていると思うと、胸にわきあがってくるものがある。
「お前はいつも冷静に物事を分析している。それこそ、慎重すぎるほどにな。だが、そのお前が動かなければならないと思ったのなら、その判断は間違っていない。たとえ危険を冒してもやらねばならんと思ったのだろう?」
「……はい。これしか道は無いと。被害を最小限にするには……。網走で杉元さんは必要な人です。私よりずっと。」
自分の命と引き替えに。自分の好いた女が自分のために死にに行く姿を杉元は見ていたのか。内心驚いていたが、顔色を変えること無く話を聞いた。
「私は第七師団から逃げたとき、弱気になった杉元さんを励ましました。全員で逃げるのだと、諦めてはいけないと伝えたんです。でも、いざ、こういう事態になって一番に諦めたのは私です。私は二人で助かる道を選ばなかった。」
さくらの表情が険しくなる。
「選べなかったのだろう。お前が責められることじゃない。」
うつむいていく顔が再び上を向いた。潤んだ瞳には、不安だけではないものが映っているように見えた。まるで、尾形の言葉にすがるようにさくらは尾形の胸元のシャツをぎゅっとにぎった。
「さくら、よくやった。村に着くまで少し休め。」
「はい……」
尾形の言葉にさくらは素直に従った。瞳を閉じると、尾形に身を任せるように眠りについた。
自身の胸で安心するように眠るさくらに妙な感覚を覚える。女など、一夜限りの関係で十分だと思っていた。体の具合が合えば、あとは器量だの大して見る必要も無い。だが、さくらはどうだ。初めて出会った雪山で、己を救おうと必死で向かう姿が、手を掴まなかったときの表情が今でも脳裏に焼き付いている。『救い』は母を失ったあの頃から諦めていた。見知らぬ女から、金が目当てでも、上等兵という地位でもなく、ただ手を伸ばされたことがあっただろうか。
歩く振動でさくらの頬にさらり、と髪が滑る。その髪は、頬はどれほどやわらかで、甘いのか。触れてみたい、唇をよせたい。そうすればどんな表情をこちらに向けてくれるのか。思い合った仲ならば、触れる手に頬を寄せてくれるのか。澄んだ瞳がどんな色を乗せるのか。目を閉じるさくらの顔を見つめた。
さくらが目を覚ますと、家の中ではすでに宴会が始まっていた。杉元一行も、アイヌの男たちも赤い顔をして楽しそうに互いの杯に酒を注ぎ合っていた。
「起きたか。」
隣にはアシリパがいて、突然、アシリパの手を鼻先に持ってきた。
「ヒグマを怯ませるときに蛇を投げたんだ。くさくないか?」
私たちを助けるために苦手な蛇に触ったのか。
「だからヒグマが退いたのね。くさくない、アシリパさんありがとう。」
そう言うと、アシリパは「他の奴にもかがせてくる。」といって男たちの輪に入っていった。宴会は盛り上がり、しばらくすると酔いつぶれた男たちが雑魚寝をし始めた。あたりが静かになってくると、谷垣が一行に声をかけた。それに従って皆が集まると、フチの夢の話を聞かされた。孫娘を失ってしまう。長旅をする幼い孫を心配しない祖母がいるだろうか。杉元はアシリパに戻ろう、と提案するがアシリパはそれを突っぱねた。
そして、翌日、白石たちと合流するために釧路へと向かった。谷垣はフチとの約束を果たすため、アシリパに同行し、来たるべき時が来れば村へ帰ることとなった。釧路で白石、インカラマッ、チカパシと合流し、アシリパの親類がいるという村に行くことになった。
「おい、お前ら結婚しろ!」
アシリパは谷垣とインカラマッに叫んだ。二人の雰囲気が甘いものに見えたのは皆同じようで、白石はにやにやしている。何となく気になって杉元の方に目を向けた。すると、あちらもさくらを見ていたのか目が合った。しかし、杉元は帽子を下げて、視線を外した。……あの一件以来、杉元とは話していない。ぎこちない様子に、さくらもどう話して良いか分からず視線を外した。