白銀の世界で
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吹雪が過ぎ去り、入っていた鹿が何ものかに揺り動かされているところで目が覚めた。顔を出せばヒグマの群れが鹿肉を求めて手をかけているところであった。驚き、尾形が瞬時に銃を構えようとしたところでアシリパが止めに入った。
「尾形、静かに!!」
不用意に刺激しないようにということだろう。アシリパにとってヒグマはカムイ、神である。その神を不必要に殺したくはないのだろう。ヒグマが持って行く鹿の中から白石が飛び出し、その声でヒグマは驚いたのか、急いで立ち去っていった。こんなところで白石が役に立つとは。一行はヒグマを刺激しないように、ゆっくりとその場を立ち去った。
「アイヌは大雪山をカムイミンタラと呼んでいる。『ヒグマがたくさんいるところ』とう意味だ。鹿肉は残念だけど諦めよう。そう言いながら名残惜しそうに鹿を見つめるアシリパは、きっと好物の脳みそが食べたかったに違いない。それに下山すると言っても、これほど低温地帯であれば動植物は余り期待できまい。食料が調達出来ないのは痛いが、命あっての物種だ。
「さすがに追っ手もあの天候では進めなかったか。」
杉元が後ろを確認しながら言った。
「このまま諦めて帰るとは思えないけどな。」
白石も後ろの様子を窺いながら懐疑的であった。
「先回りして待っていると考えた方がいいでしょうね。」
鹿の中で尾形と話していたことを口にした。さくらの言葉に杉元が頷いた。
「追っ手は俺達がが網走方面へ下山すると踏んでいるはずだ。意表を突いて十勝方面へ下山して追っ手を撒くついでに釧路へ寄るのはどうだろうか。」
杉元も同じく迂回ルートを考えていたようだ。しかし、なぜ釧路へ?白石やアシリパもさくらと同じように疑問の表情を浮かべた。
「詐欺師の鈴川聖弘から釧路にいたという囚人の話を聞いた。」
鈴川……潜入での後ろ姿が思い浮かべられる。銃弾に倒れた姿があっけなく、鈴川と聞いてアシリパの表情にも暗いものがよぎった。…やはり人が死んだというのは年端もいかぬ少女にとっては重たいものであろう。しかし、それを見せないようにと、アシリパはふいっと顔を別の方へ向けると、手近な岩の間に何かを仕掛け始めた。
「何やってんの?」
不思議そうに聞く杉元に作業の手を止めずにアシリパが説明をした。
「変な鳴き声のエルムがいたから山杖を削って罠を作った。ロシアの少数民族がリスを捕るときに使う『プラーシカ』という罠だ。本当は石じゃなくて丸太を使う。」
アシリパの口から聞き慣れない単語が出てきた。エルム…話の中で行くとリスのような小動物だろうか?それにロシアの罠を知っているとは、アシリパは一体どこからその知識を?ふとよぎった疑問に周りにいる男たちは誰一人として質問をしなかった。不思議に思わないのだろうか…?杉元も尾形もただアシリパの説明をふんふんと頷いたり、遠目から聞いているだけだ。この時代の人間にとってアイヌとロシアが近い関係にあるということは周知の事実ということなのだろうか?下手に突っ込んで自身の素性が尾形や白石にばれてもまずい。さくらも何も言わず、アシリパの罠を興味深そうに見つめた。
みなで言われたように罠を設置し、しばらくすると、アシリパが嬉しそうに捕らえた獲物を皆に見せた。
「エルムが獲れた!下山したら森に入って丸焼きにして食べよう。」
手にしていたのは小さなネズミだった。エルム…可愛らしい雰囲気に騙されたような気持ちになる。しかし、食べなければ…。さくらの表情は自然と苦々しいものに変わった。隣の杉元を見ると同じような表情をしていた。やはり、ネズミというのはあまり好まないらしい。
「……鹿肉が食べたかったぜ。ヒグマめ。」
恨めしそうに杉元が言った。白石も「ネズミばっかり~っ」と渋い顔だ。しかし、背に腹は代えられない。今日はこれで我慢するほかない。釧路方面で下山している間に木々も多くなってきた。これならば薪をしていても大雪山に比べればごまかしやすいだろう。
「痛あ!!」
突然の白石の悲鳴にさくらはびくり、と肩をふるわせた。
「どうした白石。オソマをしようとして肛門に小枝でも刺さったのか?」
「野糞してて金玉を笹で切ったんじゃ無いか。」
一切心配の色を見せないアシリパと杉元の言葉は、この旅での白石の立ち位置が示されているようだ。飄々としていて、どこでもしぶとく生き抜く男に心配など無用のようだ。二人の様子に思い直し、さくらは警戒の姿勢をすぐにといた。しかし、白石の言葉にすぐに警戒を強めた。
「転んで蛇に頭をかまれた。」
『蛇』という単語にアシリパが今まで見たこともないくらい冷や汗を掻きながら苦悶の表情をした。…まさか、近くに?毒があれば皆の命もひとたまりもない。すぐに周囲に気配が無いか見渡した。そこで杉元がめぼしい蛇を一匹首根っこを掴んで持ち上げた。
「蝮じゃねえか!!毒あるぞこれ!!」
見つけた杉元も焦ったように言った。アシリパはその手の中のものを凝視しながら杉元の背後に回った。…相当蛇が嫌いなようだ。さくらも得意ではないが、ここまでの態度はアシリパにしては珍しい。それほど苦手なのだな、と感じた。すぐに白石が石で蝮の頭をたたき割り、絶命させる。しかし、元気もそこまでなのか、苦しそうに地面に倒れ込んだ。大雪山で全裸で飛び回っても、なんともない白石がめずらしい。
「かまれたところ、すげえ痛くなってきた。毒で死ぬかも。……アシリパちゃん吸い出してくれ!!」
山に詳しいアシリパだ、解毒など心得はあるだろう。だからこその頼みなのだろうが、大人の男の…頭に吸い付けとはどういう了見だ。聞いているこちらも眉間に皺が寄ってくる。アシリパも嫌そうに距離を取った。
「色々気持ち悪いからいやだ!!蝮の毒ではめったに死なないから我慢しろ。日が落ちて暗くなる前に薬になる草を探してくる。」
そう言って山中へと駆けだしてしまった。それを見て、次に白石の視線がさくらへと向けられた。
「さくらちゃん……お願い、俺痛くて死にそう。チュッチュと吸いだしてよ。」
涙目で見上げながら必死に懇願してくる。しかし……命に関わるわけでもない、アシリパが薬草を探してくれている。
「…白石さん、もう少しの辛抱ですよ。」
そう言って励ますと、白石はくーんと泣いて、杉元と尾形の方を見た。
「お前らでいいから吸い出してくれよお!!毒をチュッチュッと!!」
必死の白石に杉元は冷ややかに「滅多に死なねえってよ。」と冷静に返した。心なしか視線が厳しい。
「まれに死んだのが全員頭をかまれたやつだったらどうすんだよ!!網走監獄を知り尽くしていて潜入できるのは俺だけだぞ。俺が死んだら困るだろっ!だからほら!尾形ちゃん吸いだしてくれよ!!」
もう頼みの綱は尾形しかいない。そう思ったのか白石は必死だ。今まで事態を静観していた尾形はその涼しい表情のまま答えた。
「歯茎とかに毒が入ったら……嫌だから。」
アシリパが戻ってくるまで、近くで薪の準備を始めた。白石は動くと毒の巡りも早まるため、薪を集めている場所に休ませていた。各々で木の枝を集めていると、さくらの近くに杉元が近づいた。
「…さくらさん。尾形と一緒で大丈夫だった?」
心配そうにこちらを見る杉元は、自分のせいだと思っているらしい。「俺がもう一頭撃ち抜いていればよかったんだけど、ごめん。」と言葉が続いた。
「杉元さんが気に病む事じゃありませんよ。あの中で私も一頭撃ち損じましたし、誰のせいでもありません。」
こうして何でも自分で引き受けようとするのは、責任感というのもあるのかもしれない。しかし、いつまでもさくらは守ってもらう一人でいたくはなかった。
「でも…」言い募る杉元にさくらがかぶせるように言った。
「誰かのせいだというなら私のせいです。私が鹿を絶命させる腕があれば、もう一頭、調達出来ました。ご心配おかけしてすみません。」
こう言えば、杉元は困ったように眉を下げた。
「……そうじゃないんだ。ただ俺が、さくらさんと尾形が一緒に一晩過ごしたと思うと嫌だったんだ。……こうやって言うとかっこ悪いから言いずらかったんだ。」
頭を掻きながら視線を斜めに向けて杉元が言った。恥ずかしそうなそぶりに、こちらまで気恥ずかしく思えてくる。紛らわすように、さくらも手近な小枝を集めて視線をそらした。
「……変なことは聞かれてませんし、大丈夫です。こちらの不利益になることは言ってません。」
「……さくらさん」
がさがさ、と地面の枝を集めていると上から影がかかった。何かと思ってみあげれば杉元だった。先ほどの恥ずかしそうな表情とは違い、真剣な目でこちらを見ている。
「俺が心配してるのはさくらさん自身だよ。あんたが他の男の腕で寝ていると想像しただけで、昨日は眠れなかった。」
杉元が同じようにしゃがんで、目線を合わせた。と、思ったのもつかの間、さくらは杉元の胸元に押しつけられるように抱きしめられた。久しぶりに感じる杉元の体温に、胸が高鳴る。
「杉元…さん……」
熱い杉元の体温に包まれ、自然とそちらへと体を預けてしまう。熱い抱擁に勘違いしそうになる。ここまで付いてきたのは、杉元の存在が大きかった。慕っている自分がいる。しかし、杉元の中には…大切な人がいるのだ。
「俺があんたを守るから。だから…そばにいてよ。」
杉元の言葉に嬉しさがこみ上げてくる。しかし、同時に「そばにいる」ことが彼にとって何を指しているのか。仲間として?それとも一人の女として…?杉元の言葉に是ということもできず、中途半端な気持ちを抱えながら、彼の胸元の着物に手を添えた。抱きしめ返して「はい」と答えるには傷つきたくないという臆病な気持ちが勝っていた。体を預けることでしか、今は自分の気持ちを表すすべがなかった。杉元も何も言わないさくらに答えを求めるでもなく、寄りかかるさくらのあたたかさを感じ、抱きしめる腕を強めた。
アシリパが戻り、薬草での治療をしていると、見たこともない大蛇に遭遇した。人の何倍もあるその姿に、一行は一目散に逃げ出した。追って来ないところまで来ると、アシリパは道中で蛇よけの草を大量にちぎっては着物の袷の部分に挟んだり、鉢巻きにさしたりと厳重警戒だ。息を切らして走りきった一行の目に写ったのは、何者かによって殺された鹿の死体だった。
「ヒグマの傷じゃない。人の足跡がある。めった刺しにしてそのまんまにしたんだ。」
血まみれの鹿の周りには、アシリパの言うように人間の足跡が血の跡によって出来ている。食べるでもなく、ただ殺すために。その姿に辺見とは違った狂気を感じた。
「尾形、静かに!!」
不用意に刺激しないようにということだろう。アシリパにとってヒグマはカムイ、神である。その神を不必要に殺したくはないのだろう。ヒグマが持って行く鹿の中から白石が飛び出し、その声でヒグマは驚いたのか、急いで立ち去っていった。こんなところで白石が役に立つとは。一行はヒグマを刺激しないように、ゆっくりとその場を立ち去った。
「アイヌは大雪山をカムイミンタラと呼んでいる。『ヒグマがたくさんいるところ』とう意味だ。鹿肉は残念だけど諦めよう。そう言いながら名残惜しそうに鹿を見つめるアシリパは、きっと好物の脳みそが食べたかったに違いない。それに下山すると言っても、これほど低温地帯であれば動植物は余り期待できまい。食料が調達出来ないのは痛いが、命あっての物種だ。
「さすがに追っ手もあの天候では進めなかったか。」
杉元が後ろを確認しながら言った。
「このまま諦めて帰るとは思えないけどな。」
白石も後ろの様子を窺いながら懐疑的であった。
「先回りして待っていると考えた方がいいでしょうね。」
鹿の中で尾形と話していたことを口にした。さくらの言葉に杉元が頷いた。
「追っ手は俺達がが網走方面へ下山すると踏んでいるはずだ。意表を突いて十勝方面へ下山して追っ手を撒くついでに釧路へ寄るのはどうだろうか。」
杉元も同じく迂回ルートを考えていたようだ。しかし、なぜ釧路へ?白石やアシリパもさくらと同じように疑問の表情を浮かべた。
「詐欺師の鈴川聖弘から釧路にいたという囚人の話を聞いた。」
鈴川……潜入での後ろ姿が思い浮かべられる。銃弾に倒れた姿があっけなく、鈴川と聞いてアシリパの表情にも暗いものがよぎった。…やはり人が死んだというのは年端もいかぬ少女にとっては重たいものであろう。しかし、それを見せないようにと、アシリパはふいっと顔を別の方へ向けると、手近な岩の間に何かを仕掛け始めた。
「何やってんの?」
不思議そうに聞く杉元に作業の手を止めずにアシリパが説明をした。
「変な鳴き声のエルムがいたから山杖を削って罠を作った。ロシアの少数民族がリスを捕るときに使う『プラーシカ』という罠だ。本当は石じゃなくて丸太を使う。」
アシリパの口から聞き慣れない単語が出てきた。エルム…話の中で行くとリスのような小動物だろうか?それにロシアの罠を知っているとは、アシリパは一体どこからその知識を?ふとよぎった疑問に周りにいる男たちは誰一人として質問をしなかった。不思議に思わないのだろうか…?杉元も尾形もただアシリパの説明をふんふんと頷いたり、遠目から聞いているだけだ。この時代の人間にとってアイヌとロシアが近い関係にあるということは周知の事実ということなのだろうか?下手に突っ込んで自身の素性が尾形や白石にばれてもまずい。さくらも何も言わず、アシリパの罠を興味深そうに見つめた。
みなで言われたように罠を設置し、しばらくすると、アシリパが嬉しそうに捕らえた獲物を皆に見せた。
「エルムが獲れた!下山したら森に入って丸焼きにして食べよう。」
手にしていたのは小さなネズミだった。エルム…可愛らしい雰囲気に騙されたような気持ちになる。しかし、食べなければ…。さくらの表情は自然と苦々しいものに変わった。隣の杉元を見ると同じような表情をしていた。やはり、ネズミというのはあまり好まないらしい。
「……鹿肉が食べたかったぜ。ヒグマめ。」
恨めしそうに杉元が言った。白石も「ネズミばっかり~っ」と渋い顔だ。しかし、背に腹は代えられない。今日はこれで我慢するほかない。釧路方面で下山している間に木々も多くなってきた。これならば薪をしていても大雪山に比べればごまかしやすいだろう。
「痛あ!!」
突然の白石の悲鳴にさくらはびくり、と肩をふるわせた。
「どうした白石。オソマをしようとして肛門に小枝でも刺さったのか?」
「野糞してて金玉を笹で切ったんじゃ無いか。」
一切心配の色を見せないアシリパと杉元の言葉は、この旅での白石の立ち位置が示されているようだ。飄々としていて、どこでもしぶとく生き抜く男に心配など無用のようだ。二人の様子に思い直し、さくらは警戒の姿勢をすぐにといた。しかし、白石の言葉にすぐに警戒を強めた。
「転んで蛇に頭をかまれた。」
『蛇』という単語にアシリパが今まで見たこともないくらい冷や汗を掻きながら苦悶の表情をした。…まさか、近くに?毒があれば皆の命もひとたまりもない。すぐに周囲に気配が無いか見渡した。そこで杉元がめぼしい蛇を一匹首根っこを掴んで持ち上げた。
「蝮じゃねえか!!毒あるぞこれ!!」
見つけた杉元も焦ったように言った。アシリパはその手の中のものを凝視しながら杉元の背後に回った。…相当蛇が嫌いなようだ。さくらも得意ではないが、ここまでの態度はアシリパにしては珍しい。それほど苦手なのだな、と感じた。すぐに白石が石で蝮の頭をたたき割り、絶命させる。しかし、元気もそこまでなのか、苦しそうに地面に倒れ込んだ。大雪山で全裸で飛び回っても、なんともない白石がめずらしい。
「かまれたところ、すげえ痛くなってきた。毒で死ぬかも。……アシリパちゃん吸い出してくれ!!」
山に詳しいアシリパだ、解毒など心得はあるだろう。だからこその頼みなのだろうが、大人の男の…頭に吸い付けとはどういう了見だ。聞いているこちらも眉間に皺が寄ってくる。アシリパも嫌そうに距離を取った。
「色々気持ち悪いからいやだ!!蝮の毒ではめったに死なないから我慢しろ。日が落ちて暗くなる前に薬になる草を探してくる。」
そう言って山中へと駆けだしてしまった。それを見て、次に白石の視線がさくらへと向けられた。
「さくらちゃん……お願い、俺痛くて死にそう。チュッチュと吸いだしてよ。」
涙目で見上げながら必死に懇願してくる。しかし……命に関わるわけでもない、アシリパが薬草を探してくれている。
「…白石さん、もう少しの辛抱ですよ。」
そう言って励ますと、白石はくーんと泣いて、杉元と尾形の方を見た。
「お前らでいいから吸い出してくれよお!!毒をチュッチュッと!!」
必死の白石に杉元は冷ややかに「滅多に死なねえってよ。」と冷静に返した。心なしか視線が厳しい。
「まれに死んだのが全員頭をかまれたやつだったらどうすんだよ!!網走監獄を知り尽くしていて潜入できるのは俺だけだぞ。俺が死んだら困るだろっ!だからほら!尾形ちゃん吸いだしてくれよ!!」
もう頼みの綱は尾形しかいない。そう思ったのか白石は必死だ。今まで事態を静観していた尾形はその涼しい表情のまま答えた。
「歯茎とかに毒が入ったら……嫌だから。」
アシリパが戻ってくるまで、近くで薪の準備を始めた。白石は動くと毒の巡りも早まるため、薪を集めている場所に休ませていた。各々で木の枝を集めていると、さくらの近くに杉元が近づいた。
「…さくらさん。尾形と一緒で大丈夫だった?」
心配そうにこちらを見る杉元は、自分のせいだと思っているらしい。「俺がもう一頭撃ち抜いていればよかったんだけど、ごめん。」と言葉が続いた。
「杉元さんが気に病む事じゃありませんよ。あの中で私も一頭撃ち損じましたし、誰のせいでもありません。」
こうして何でも自分で引き受けようとするのは、責任感というのもあるのかもしれない。しかし、いつまでもさくらは守ってもらう一人でいたくはなかった。
「でも…」言い募る杉元にさくらがかぶせるように言った。
「誰かのせいだというなら私のせいです。私が鹿を絶命させる腕があれば、もう一頭、調達出来ました。ご心配おかけしてすみません。」
こう言えば、杉元は困ったように眉を下げた。
「……そうじゃないんだ。ただ俺が、さくらさんと尾形が一緒に一晩過ごしたと思うと嫌だったんだ。……こうやって言うとかっこ悪いから言いずらかったんだ。」
頭を掻きながら視線を斜めに向けて杉元が言った。恥ずかしそうなそぶりに、こちらまで気恥ずかしく思えてくる。紛らわすように、さくらも手近な小枝を集めて視線をそらした。
「……変なことは聞かれてませんし、大丈夫です。こちらの不利益になることは言ってません。」
「……さくらさん」
がさがさ、と地面の枝を集めていると上から影がかかった。何かと思ってみあげれば杉元だった。先ほどの恥ずかしそうな表情とは違い、真剣な目でこちらを見ている。
「俺が心配してるのはさくらさん自身だよ。あんたが他の男の腕で寝ていると想像しただけで、昨日は眠れなかった。」
杉元が同じようにしゃがんで、目線を合わせた。と、思ったのもつかの間、さくらは杉元の胸元に押しつけられるように抱きしめられた。久しぶりに感じる杉元の体温に、胸が高鳴る。
「杉元…さん……」
熱い杉元の体温に包まれ、自然とそちらへと体を預けてしまう。熱い抱擁に勘違いしそうになる。ここまで付いてきたのは、杉元の存在が大きかった。慕っている自分がいる。しかし、杉元の中には…大切な人がいるのだ。
「俺があんたを守るから。だから…そばにいてよ。」
杉元の言葉に嬉しさがこみ上げてくる。しかし、同時に「そばにいる」ことが彼にとって何を指しているのか。仲間として?それとも一人の女として…?杉元の言葉に是ということもできず、中途半端な気持ちを抱えながら、彼の胸元の着物に手を添えた。抱きしめ返して「はい」と答えるには傷つきたくないという臆病な気持ちが勝っていた。体を預けることでしか、今は自分の気持ちを表すすべがなかった。杉元も何も言わないさくらに答えを求めるでもなく、寄りかかるさくらのあたたかさを感じ、抱きしめる腕を強めた。
アシリパが戻り、薬草での治療をしていると、見たこともない大蛇に遭遇した。人の何倍もあるその姿に、一行は一目散に逃げ出した。追って来ないところまで来ると、アシリパは道中で蛇よけの草を大量にちぎっては着物の袷の部分に挟んだり、鉢巻きにさしたりと厳重警戒だ。息を切らして走りきった一行の目に写ったのは、何者かによって殺された鹿の死体だった。
「ヒグマの傷じゃない。人の足跡がある。めった刺しにしてそのまんまにしたんだ。」
血まみれの鹿の周りには、アシリパの言うように人間の足跡が血の跡によって出来ている。食べるでもなく、ただ殺すために。その姿に辺見とは違った狂気を感じた。