白銀の世界で
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鯉登少尉の姿が見えなくなったところで、杉元は白石にこれまでの内通について問いただした。それに冷や汗を浮かべ、飛び降りて逃亡を図った白石に、杉元は刺青の写しをみせた。
「白石は俺たちを裏切っていなかった。」
内通したと見せかけて、偽物の写しを渡していたのだ。杉元の言葉に白石は態度を一変させた。
「そう!その通り!言ったはずだぜ。俺はお前らに賭けるってな!」
杉元からの報復が無いと分かり、目に見えて安堵の表情をみせた。さくらはその様子に、信用半分といった心持ちであった。確かに現物は偽物を掴ませていたのだろう。しかし、これまでの道中の様子や道程についてはきっと情報を渡していただろう。全てが潔白であるとは言いがたい。ただ、それは杉元も承知の上でのことなのだろう。あの武闘派集団に睨まれれば、戦えない白石はうまく抜け穴を探すほかない。そう思えば、白石はかなりうまく立ち回ったのだな、と思い至る。
「アシリパさん、合流できてよかったです。ここまではどうやって?」
「気球に杉元たちが乗っているのが見えたから馬で追ってきたんだ。丁度白石がいたから掴まって乗り込めた。白石が枝よけになったからけがしなかった。」
なんてことないようにいうアシリパだが、白石を使って風に乗っているのはさすがに驚いた。
「怪我がなくてよかったです。」
まあ、白石ならば少しくらいの傷はいいだろう。それよりもアシリパが合流できてよかった。土方や牛山、一見すると常識人のようで、腕も立つ者たちだ。しかし、アシリパを思って動いてくれるかと言えば疑問が残る。特に土方歳三。現役の頃から冷徹に状況判断を下す彼は、アシリパを守ろうなどと言う思考は持ち合わせていないだろう。アシリパは聡い子だ。自身の軸を持ってこの者たちとも渡り合えるだろうとは思う。しかし、だからといってあの者たちのそばで駆け引きをさせる状況というのは、やはり心配なのだ。
「ひょお~!飛んでるぜ俺たち!」
白石がはしゃいでいるのもつかの間、エンジンから、不穏な音がし始めた。
「おい、なんか止まったぞ。」
杉元が気づき、白石に修理を頼む。鍵開けや細かい事が得意な男だ。機械にも強いかもしれない。さくらも期待して白石の様子を見ていると、エンジンをたたき始めた。続いて杉元、アシリパがたたき始めると、さながら猿のおもちゃのようで失礼ながら噴き出してしまった。杉元はさくらの方に気がつくと、恥ずかしそうに、「キキッ」と小声でつぶやいて目線をそらした。アシリパは必死に「ウキー!」とたたき続け、あまりのうるささに、尾形が煩わしそうに「やかましい!!」と一喝した。
その後、さくらも見てみたが、道具もなく、出来ることはほとんどなかった。何をしても、エンジンは回復しなかった。
「あとは風の吹くままだぜ。」
尾形がそう言いながら双眼鏡で追っ手の様子を窺っていた。小さな粒のような者が時折、ちらちらと確認できる。やはり気球と馬では速度が違う。しばらく森の上を流れていたが、川が見えてくる。その両岸には高い崖がそびえ立つように佇んでいた。
「うおおお……危ねえ。風に流されてあんな岩場にぶつかったらやばいぞ。」
「幸運を祈るしかありませんね…」
人間がどうしようが風のゆくままだ。祈るより他にない。
「パウチチャシだ。」
一同が疑問符を頭に浮かべていると、アシリパが言葉を続けた。
「パウチチャシとはパウチカムイが住む村という意味で、このあたりの奇岩はパウチカムイの砦と言われている。パウチカムイは淫魔であまり心のよくない神様だ。とりつかれると、その人間は素っ裸になって踊り狂う。」
アシリパの説明に白石はおかしそうに笑った。
「そんな馬鹿な。アイヌは想像が豊かだねえ。」
しばらく風に流れていくと、気球は高度を下げ、ついには木に追突してしまった。あとは歩いて移動するしかない。雪どけした春でよかったと思う。足場を確認しながら皆で進んでいく。アシリパはさくらにノコギリソウを探してくれと言った。止血に使うため、と乾燥したものはコタンで見たことがある。二人でめぼしいものを探しながら、杉元を支え、歩いた。草花が茂る足下で、薄桃色の花を探す。川を渡りいくらか道を行くと、目星のものが見つかった。
「アシリパさん!これですか?」
足下に咲く、薄桃の花を指すと、アシリパの目が輝いた。
「そう、これだ!杉元の手当をしよう。」
アシリパは手近な木の根元に杉元を座らせた。後ろから追っ手の確認をしていた尾形が、その様子に苦言を呈した。
「ぐずぐずしてたら追いつかれるぞ。」
尾形の言うことは尤もだ。しかし、額に汗を浮かべながら歩く杉元の様子に、これ以上無理はさせられない。
「杉元の出血が止まらない。手当てしないと。」
アシリパの言葉に不服そうな尾形にさくらも続いて意見した。
「手当しなければ、途中で倒れてしまいますよ。幸い、かなり後ろまで引き離しましたし、大事な戦力は温存したほうがいいのでは?」
さくらが言うと尾形はそれ以上何も言わなかった。
杉元が片腕だけ服を脱ぐと、胸元は血で真っ赤に染まっている。胸の銃弾は貫通していないようで、杉元は自身の傷口からひしゃげた弾を取り出した。痛そうに顔をゆがめて取り出す姿にこちらまで、痛みを感じてしまいそうだ。アシリパは手早くノコギリソウをもんで傷口に塗り込んだ。
「葉をもんで塗れば止血効果がある。」
「…鯉登少尉が撃った拳銃は26年式…豚の鼻に当たってぽとりと落ちたで有名な低威力の拳銃さ。そんな銃で俺が殺せるかよ。」
アシリパに弱い姿を見せたくないのか、杉元はそう言った。この戦いで、この少女を守りたいと思う気持ちが杉元に言わせた言葉なのだろう。金塊争奪戦、人の命の取り合いなど、自然に生きる少女には無縁の事であったはずなのに。実の父親が凶悪犯かもしれない。そんな重荷を背負う彼女にこれ以上の負担を強いたくないのはさくらも同じだ。杉元の言葉に異を唱えることなく、二人のやりとりを見つめた。
「鈴川は豚の鼻より弱かったが……」
杉元の言葉にアシリパがつらそうな表情をした。
「鈴川はやっぱり殺されたのか。」
たとえ罪人でも、アシリパにとって命の重さは変わらないのだろう。しかも、協力者として共に過ごした時間もある。アシリパの様子に杉元はしばらく視線を向けていたが、ぱっと表情を明るくして、手早く着物を着込んだ。
「アシリパさん、手当ありがとう。それじゃ進もうか。」
そうして進んでいくうちに、山の木々も感覚を開けて生えるようになってきた。姿を隠しながら進むのも難しくなるだろう。尾形が何度も後ろを双眼鏡で確認しながら進んでいく。いよいよ岩肌だけの山道になったところで後ろを振り返ると、黒い粒が見える。
「見つかった!!」
双眼鏡で確認する尾形が叫んだ。
「急げ!大雪山を越えて逃げるしかない!!」
「マジかよ!?この山を?」
白石が言うように、目の前の山は雪に覆われ、こんな軽装備では心許ないと思える。しかし、後ろには敵兵だ。戻って緑の山を抜けることはかなわないだろう。高くそびえ立つ山に怖じ気づいて止まれば、命はないのだ。
「白石さん、腹を決めましょう。」
さくらも白石と同じく、無事で済むような装いではない。しかし、少しでも可能性がある方へ進まねば。そう言うと、杉元も同意したように頷いた。
「さあ、行くぞ。」
杉元の声を合図に皆で山を登っていく。足下の雪が冷たい。登っていくうちに雲行きも怪しくなり、吹雪になってきた。あまりの寒さにアシリパでさえ、鼻を赤くしている。なにか暖をとれるものを…木を探そうにも岩肌ばかり。風をしのぐために雪で壁をつくろうにも、それほどの雪は残っていない。頭がぼうっとしてくる。寒さのせいだろうか。ふらふら、とよろついたところで誰かの手が肩に添えられた。
「さくらさん、大丈夫?」
「杉元さん……」
心配そうな杉元が後ろでさくらを支えていた。けが人に心配をさせてどうするのだ。愛想笑いをはりつけて、杉元に「心配いりませんよ。」と返した。
「白石の様子がおかしい!!」
尾形の声に気付いて白石をみると、ふわふわと酩酊状態になっている。低体温によるものか。急いで暖をとらねば、と皆が焦っているところでアシリパが、指さした。
「ユクだ!杉元、雄を撃て!!」
「エゾシカを撃つのか?」
「大きいのが三頭必要だ。」
杉元は銃を構えて、狙いを定めた。その瞬間に尾形の方から銃弾の音がした。見れば、雄が二頭、仕留められている。あと一頭!!さくらも銃を構えてエゾシカの後ろ足に撃ち込んだが、絶命させるまでには行かず、エゾシカは走り去っていった。
「急いで皮をはがせ!おおざっぱで良い!!」
アシリパがすぐさま作業に取りかかる。みなも同じく手にナイフを持って、杉元と尾形は鹿の臓器を取り出し、アシリパとさくらでエゾシカの下半身の皮を剥いでいく。白石の姿はどこにもない。しかし、探している暇はない。二人一組で鹿のなかに入り込む。杉元がこちらに視線をよこしたが、アシリパを尾形と共にさせるよりは自分が、とさくらは尾形と共に鹿のなかに入った。
尾形を背に鹿の体内で横になった。背中には尾形のかたい体の感触がある。さくらが中にはいったことで手の行き場がなかったのか、尾形がうしろから抱きしめるような体勢で腕を回した。緊急事態だ、何も言うまい。
「追っ手は来るでしょうか。」
「この吹雪では追ってこないだろう。先回りして俺たちが下山するところを待っているだろうがな。」
「網走方面は張っているでしょうね。迂回して進む道を考えないと」
そこまで言うと、尾形がさくらの髪に顔を埋めるようにして深く呼吸した。
「……どうしました?」
突然の行動に、尾形の様子を窺うように問うた。この狭い空間で、抵抗しようにも、難しい。固い声で問いかけるさくらの様子に尾形が小さく笑った。
「杉元じゃなくてよかったのか?」
「どういう意味です?」
からかうような物言いに、ついさくらも口調を強めた。しかし、そんなことを気にするでもなく、尾形は言葉を続けた。
「アシリパを俺と過ごさせるよりはマシか。」
言外に、俺は信用ならないのか?と示しているのだ。後ろで人の心の奥までのぞくような漆黒の瞳が、きっとさくらを見つめているのだろう。
「自分でも言うのもなんですが、用心深いんです。まだあなたのことをよく知らないですから。」
「俺に興味があるのか。」
茶化すような物言いは、何だか尾形自身が自分をごまかしているような。そんな感覚がした。
「初めて会ったとき、覚えていますか。」
「俺が杉元の刺青人皮を狙っていたときか。」
「……なぜ手を取らなかったんです?」
あの雪山で転がっていく尾形は、さくらの手をあえて取らなかったように見えた。落ちてしまえば、大けがを負うとこは分かっていたはずだ。それなのに、なぜ手を取らなかったのか。あのとき、助けられなかった思いを杉元にぶつけ、ここで二人に出会った。あの出来事は、さくらにとって今後を左右する大きな分岐点だったのかも知れない。あそこで杉元とアシリパに出会わなければ、きっと今の自分はいないのだ。
「共に落ちていたら……お前は俺を慕っていたか?」
尾形の回した腕が、わずかに強く自身の方へと引き寄せるように動いた。つぶやくような、小さな声が耳元で囁いた。普段みたことのない、すがるような行動に、さくらは一瞬面食らった。まるで小さな子供が母親に甘えるような。大人相手にそのように思ってしまうのもおかしいが、尾形の頼りない声が、さくらの胸をざわつかせた。
「きっと…あなたを頼っただろうとは思います。」
見知らぬ場所で、手をさしのべたのが尾形だったならば。今、心を占める感情は尾形へと向けられていたかもしれない。
「尾形さん、私はあなたを信用しきれません。ですが、あなたは優しさを持った人であるとは思っています。」
あの手を取らなかったのは、さくらまで巻き込まぬようにとの思いだったのでは。今では、そう思う。無力なさくらに自身で立つ力を与えてくれた。その力を認めてくれた。守られるだけでなく、守る立場になれるように、と。
「…こんな得体の知れねえ男を捕まえてよく言うぜ。」
「本当の悪人なら、自分で評価を下げたりしませんよ。」
杉元とは違う、少し体温の低い手のひらに自身の手を重ねた。いつも温められる側から、今日は尾形の手を温めるために。頼りなげな男に、ぬくもりだけでも与えてやりたくなったのだ。尾形はされるがまま、さくらの手が己の手を包むのに任せた。
「赤ん坊みたいにあったかいな。」
「尾形さんの体温が低いんですよ。」
「……ふん。」
尾形は不服そうに鼻を鳴らすと、さくらの肩に額をすりつけるようにして、体を丸めた。それに合わせて、さくらも丸まって暖を取った。
「白石は俺たちを裏切っていなかった。」
内通したと見せかけて、偽物の写しを渡していたのだ。杉元の言葉に白石は態度を一変させた。
「そう!その通り!言ったはずだぜ。俺はお前らに賭けるってな!」
杉元からの報復が無いと分かり、目に見えて安堵の表情をみせた。さくらはその様子に、信用半分といった心持ちであった。確かに現物は偽物を掴ませていたのだろう。しかし、これまでの道中の様子や道程についてはきっと情報を渡していただろう。全てが潔白であるとは言いがたい。ただ、それは杉元も承知の上でのことなのだろう。あの武闘派集団に睨まれれば、戦えない白石はうまく抜け穴を探すほかない。そう思えば、白石はかなりうまく立ち回ったのだな、と思い至る。
「アシリパさん、合流できてよかったです。ここまではどうやって?」
「気球に杉元たちが乗っているのが見えたから馬で追ってきたんだ。丁度白石がいたから掴まって乗り込めた。白石が枝よけになったからけがしなかった。」
なんてことないようにいうアシリパだが、白石を使って風に乗っているのはさすがに驚いた。
「怪我がなくてよかったです。」
まあ、白石ならば少しくらいの傷はいいだろう。それよりもアシリパが合流できてよかった。土方や牛山、一見すると常識人のようで、腕も立つ者たちだ。しかし、アシリパを思って動いてくれるかと言えば疑問が残る。特に土方歳三。現役の頃から冷徹に状況判断を下す彼は、アシリパを守ろうなどと言う思考は持ち合わせていないだろう。アシリパは聡い子だ。自身の軸を持ってこの者たちとも渡り合えるだろうとは思う。しかし、だからといってあの者たちのそばで駆け引きをさせる状況というのは、やはり心配なのだ。
「ひょお~!飛んでるぜ俺たち!」
白石がはしゃいでいるのもつかの間、エンジンから、不穏な音がし始めた。
「おい、なんか止まったぞ。」
杉元が気づき、白石に修理を頼む。鍵開けや細かい事が得意な男だ。機械にも強いかもしれない。さくらも期待して白石の様子を見ていると、エンジンをたたき始めた。続いて杉元、アシリパがたたき始めると、さながら猿のおもちゃのようで失礼ながら噴き出してしまった。杉元はさくらの方に気がつくと、恥ずかしそうに、「キキッ」と小声でつぶやいて目線をそらした。アシリパは必死に「ウキー!」とたたき続け、あまりのうるささに、尾形が煩わしそうに「やかましい!!」と一喝した。
その後、さくらも見てみたが、道具もなく、出来ることはほとんどなかった。何をしても、エンジンは回復しなかった。
「あとは風の吹くままだぜ。」
尾形がそう言いながら双眼鏡で追っ手の様子を窺っていた。小さな粒のような者が時折、ちらちらと確認できる。やはり気球と馬では速度が違う。しばらく森の上を流れていたが、川が見えてくる。その両岸には高い崖がそびえ立つように佇んでいた。
「うおおお……危ねえ。風に流されてあんな岩場にぶつかったらやばいぞ。」
「幸運を祈るしかありませんね…」
人間がどうしようが風のゆくままだ。祈るより他にない。
「パウチチャシだ。」
一同が疑問符を頭に浮かべていると、アシリパが言葉を続けた。
「パウチチャシとはパウチカムイが住む村という意味で、このあたりの奇岩はパウチカムイの砦と言われている。パウチカムイは淫魔であまり心のよくない神様だ。とりつかれると、その人間は素っ裸になって踊り狂う。」
アシリパの説明に白石はおかしそうに笑った。
「そんな馬鹿な。アイヌは想像が豊かだねえ。」
しばらく風に流れていくと、気球は高度を下げ、ついには木に追突してしまった。あとは歩いて移動するしかない。雪どけした春でよかったと思う。足場を確認しながら皆で進んでいく。アシリパはさくらにノコギリソウを探してくれと言った。止血に使うため、と乾燥したものはコタンで見たことがある。二人でめぼしいものを探しながら、杉元を支え、歩いた。草花が茂る足下で、薄桃色の花を探す。川を渡りいくらか道を行くと、目星のものが見つかった。
「アシリパさん!これですか?」
足下に咲く、薄桃の花を指すと、アシリパの目が輝いた。
「そう、これだ!杉元の手当をしよう。」
アシリパは手近な木の根元に杉元を座らせた。後ろから追っ手の確認をしていた尾形が、その様子に苦言を呈した。
「ぐずぐずしてたら追いつかれるぞ。」
尾形の言うことは尤もだ。しかし、額に汗を浮かべながら歩く杉元の様子に、これ以上無理はさせられない。
「杉元の出血が止まらない。手当てしないと。」
アシリパの言葉に不服そうな尾形にさくらも続いて意見した。
「手当しなければ、途中で倒れてしまいますよ。幸い、かなり後ろまで引き離しましたし、大事な戦力は温存したほうがいいのでは?」
さくらが言うと尾形はそれ以上何も言わなかった。
杉元が片腕だけ服を脱ぐと、胸元は血で真っ赤に染まっている。胸の銃弾は貫通していないようで、杉元は自身の傷口からひしゃげた弾を取り出した。痛そうに顔をゆがめて取り出す姿にこちらまで、痛みを感じてしまいそうだ。アシリパは手早くノコギリソウをもんで傷口に塗り込んだ。
「葉をもんで塗れば止血効果がある。」
「…鯉登少尉が撃った拳銃は26年式…豚の鼻に当たってぽとりと落ちたで有名な低威力の拳銃さ。そんな銃で俺が殺せるかよ。」
アシリパに弱い姿を見せたくないのか、杉元はそう言った。この戦いで、この少女を守りたいと思う気持ちが杉元に言わせた言葉なのだろう。金塊争奪戦、人の命の取り合いなど、自然に生きる少女には無縁の事であったはずなのに。実の父親が凶悪犯かもしれない。そんな重荷を背負う彼女にこれ以上の負担を強いたくないのはさくらも同じだ。杉元の言葉に異を唱えることなく、二人のやりとりを見つめた。
「鈴川は豚の鼻より弱かったが……」
杉元の言葉にアシリパがつらそうな表情をした。
「鈴川はやっぱり殺されたのか。」
たとえ罪人でも、アシリパにとって命の重さは変わらないのだろう。しかも、協力者として共に過ごした時間もある。アシリパの様子に杉元はしばらく視線を向けていたが、ぱっと表情を明るくして、手早く着物を着込んだ。
「アシリパさん、手当ありがとう。それじゃ進もうか。」
そうして進んでいくうちに、山の木々も感覚を開けて生えるようになってきた。姿を隠しながら進むのも難しくなるだろう。尾形が何度も後ろを双眼鏡で確認しながら進んでいく。いよいよ岩肌だけの山道になったところで後ろを振り返ると、黒い粒が見える。
「見つかった!!」
双眼鏡で確認する尾形が叫んだ。
「急げ!大雪山を越えて逃げるしかない!!」
「マジかよ!?この山を?」
白石が言うように、目の前の山は雪に覆われ、こんな軽装備では心許ないと思える。しかし、後ろには敵兵だ。戻って緑の山を抜けることはかなわないだろう。高くそびえ立つ山に怖じ気づいて止まれば、命はないのだ。
「白石さん、腹を決めましょう。」
さくらも白石と同じく、無事で済むような装いではない。しかし、少しでも可能性がある方へ進まねば。そう言うと、杉元も同意したように頷いた。
「さあ、行くぞ。」
杉元の声を合図に皆で山を登っていく。足下の雪が冷たい。登っていくうちに雲行きも怪しくなり、吹雪になってきた。あまりの寒さにアシリパでさえ、鼻を赤くしている。なにか暖をとれるものを…木を探そうにも岩肌ばかり。風をしのぐために雪で壁をつくろうにも、それほどの雪は残っていない。頭がぼうっとしてくる。寒さのせいだろうか。ふらふら、とよろついたところで誰かの手が肩に添えられた。
「さくらさん、大丈夫?」
「杉元さん……」
心配そうな杉元が後ろでさくらを支えていた。けが人に心配をさせてどうするのだ。愛想笑いをはりつけて、杉元に「心配いりませんよ。」と返した。
「白石の様子がおかしい!!」
尾形の声に気付いて白石をみると、ふわふわと酩酊状態になっている。低体温によるものか。急いで暖をとらねば、と皆が焦っているところでアシリパが、指さした。
「ユクだ!杉元、雄を撃て!!」
「エゾシカを撃つのか?」
「大きいのが三頭必要だ。」
杉元は銃を構えて、狙いを定めた。その瞬間に尾形の方から銃弾の音がした。見れば、雄が二頭、仕留められている。あと一頭!!さくらも銃を構えてエゾシカの後ろ足に撃ち込んだが、絶命させるまでには行かず、エゾシカは走り去っていった。
「急いで皮をはがせ!おおざっぱで良い!!」
アシリパがすぐさま作業に取りかかる。みなも同じく手にナイフを持って、杉元と尾形は鹿の臓器を取り出し、アシリパとさくらでエゾシカの下半身の皮を剥いでいく。白石の姿はどこにもない。しかし、探している暇はない。二人一組で鹿のなかに入り込む。杉元がこちらに視線をよこしたが、アシリパを尾形と共にさせるよりは自分が、とさくらは尾形と共に鹿のなかに入った。
尾形を背に鹿の体内で横になった。背中には尾形のかたい体の感触がある。さくらが中にはいったことで手の行き場がなかったのか、尾形がうしろから抱きしめるような体勢で腕を回した。緊急事態だ、何も言うまい。
「追っ手は来るでしょうか。」
「この吹雪では追ってこないだろう。先回りして俺たちが下山するところを待っているだろうがな。」
「網走方面は張っているでしょうね。迂回して進む道を考えないと」
そこまで言うと、尾形がさくらの髪に顔を埋めるようにして深く呼吸した。
「……どうしました?」
突然の行動に、尾形の様子を窺うように問うた。この狭い空間で、抵抗しようにも、難しい。固い声で問いかけるさくらの様子に尾形が小さく笑った。
「杉元じゃなくてよかったのか?」
「どういう意味です?」
からかうような物言いに、ついさくらも口調を強めた。しかし、そんなことを気にするでもなく、尾形は言葉を続けた。
「アシリパを俺と過ごさせるよりはマシか。」
言外に、俺は信用ならないのか?と示しているのだ。後ろで人の心の奥までのぞくような漆黒の瞳が、きっとさくらを見つめているのだろう。
「自分でも言うのもなんですが、用心深いんです。まだあなたのことをよく知らないですから。」
「俺に興味があるのか。」
茶化すような物言いは、何だか尾形自身が自分をごまかしているような。そんな感覚がした。
「初めて会ったとき、覚えていますか。」
「俺が杉元の刺青人皮を狙っていたときか。」
「……なぜ手を取らなかったんです?」
あの雪山で転がっていく尾形は、さくらの手をあえて取らなかったように見えた。落ちてしまえば、大けがを負うとこは分かっていたはずだ。それなのに、なぜ手を取らなかったのか。あのとき、助けられなかった思いを杉元にぶつけ、ここで二人に出会った。あの出来事は、さくらにとって今後を左右する大きな分岐点だったのかも知れない。あそこで杉元とアシリパに出会わなければ、きっと今の自分はいないのだ。
「共に落ちていたら……お前は俺を慕っていたか?」
尾形の回した腕が、わずかに強く自身の方へと引き寄せるように動いた。つぶやくような、小さな声が耳元で囁いた。普段みたことのない、すがるような行動に、さくらは一瞬面食らった。まるで小さな子供が母親に甘えるような。大人相手にそのように思ってしまうのもおかしいが、尾形の頼りない声が、さくらの胸をざわつかせた。
「きっと…あなたを頼っただろうとは思います。」
見知らぬ場所で、手をさしのべたのが尾形だったならば。今、心を占める感情は尾形へと向けられていたかもしれない。
「尾形さん、私はあなたを信用しきれません。ですが、あなたは優しさを持った人であるとは思っています。」
あの手を取らなかったのは、さくらまで巻き込まぬようにとの思いだったのでは。今では、そう思う。無力なさくらに自身で立つ力を与えてくれた。その力を認めてくれた。守られるだけでなく、守る立場になれるように、と。
「…こんな得体の知れねえ男を捕まえてよく言うぜ。」
「本当の悪人なら、自分で評価を下げたりしませんよ。」
杉元とは違う、少し体温の低い手のひらに自身の手を重ねた。いつも温められる側から、今日は尾形の手を温めるために。頼りなげな男に、ぬくもりだけでも与えてやりたくなったのだ。尾形はされるがまま、さくらの手が己の手を包むのに任せた。
「赤ん坊みたいにあったかいな。」
「尾形さんの体温が低いんですよ。」
「……ふん。」
尾形は不服そうに鼻を鳴らすと、さくらの肩に額をすりつけるようにして、体を丸めた。それに合わせて、さくらも丸まって暖を取った。