白銀の世界で
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ホテルに戻ると、みな各々の部屋へと戻っていった。男の方はというと、女将を探しにふらついた足取りで奥へと進んでいった。…ふと、さくらは思い至った。
あの男、名前はなんと言ったか?
今までみなが自然と話していたから、聞く機会も無かったし、自らも名乗る事をしていなかった。しかし、キロランケの時だって素性を聞いていた慎重派の杉元でさえ、そのことに関して気にしていないのは不自然に思われた。アシリパを抱きかかえながらふらふらと歩く杉元。もはや、ここまでできあがって真面目な話は難しいだろう。今にもアシリパを落としそうな杉元が心配になって声をかける。
「杉元さん、大丈夫ですか?かわりましょうか?」
さくらの言葉に、杉元は赤い顔をぶんぶん振った。
「だあいじょーぶでぇい、アシいパさんはおれがはこぶ。」
呂律の回らない様子に、本当に大丈夫かと思ったが、かたくなにアシリパを渡さない。
「…分かりました。もうすぐお部屋ですよ。」
あれだけ飲めばこうなるだろう。先ほどの店で飲み比べを始めた男たちの周りには何本ものビール瓶が転がっていた。しかも、瓶ごとあおっていれば、こうなるに決まっている。さくらは小さくため息をつき、部屋まで来ると鍵を開けてやって二人を、部屋の中に入れた。杉元はアシリパをベッドにやさしく下ろしてやった。
「…ふええ。」
おかしな声を出す杉元だが、酔っていても最後まで面倒をみるのはさすがだ。杉元はその後すぐに隣のベッドに体を投げ出し、早々に眠りについた。背中を向けた杉元の体が規則正しい寝息とともに揺れ動いている。隣のアシリパも口をだらしなく開けて、完全に熟睡だ。二人の無防備な姿に笑みがこぼれる。ここまで安心してくれると、なんだか嬉しいものだ。さくらは二人に布団をかけてやり、自身も窓側のベッドへと横になった。
久しぶりのベッドの感触に眠りについていた夜半すぎ。うっすら聞こえる声に目が覚めた。
「――綺麗な子…。」
聞き覚えのある声は、このホテルの女将だとすぐに分かった。隣のアシリパのベッドから声が聞こえる。なぜこんな夜更けに?と疑問に思い、体をそちら側に向けようとしたが、まったく動かない。まるで重い鉛でもつけているかのように体はベッドに沈み込み、己の意思では指一つ動かせない。唯一動かせた目も、窓の方を向いており、なんの役にも立たない。
「きめ細やかな肌にツヤのある髪…特にこの瞳。深い深い青にうっすらと緑が見える。……欲しい。」
欲を孕んだ湿った声に、アシリパの身が危険にさらされているのが分かった。…分かっているにもかかわらず、さくらの体は動かすことが出来ない。
「…っう」
さくらが必死に体に力を入れ、かろうじて指の一本が動くくらいのところで、隣から大きな音がし、窓際に女将が勢いよくぶつかってきた。
「てめえ、なんでアシリパさんの目ん玉なめてんだ?」
鼻血を出しながら床で膝をついている女将は窺うように杉元を見て、すぐに焦ったような表情を『つくった』。
「目をなめるなんてとんでもないっ!何かの見間違いですうう!先ほどホテルに戻られた時にお子様の具合が悪そうだったので様子を見に来ただけなんですうう!!」
必死な女将に杉元は低い声で答えた。背後にいるため杉元の姿は見えない。しかし、背中には確かに杉元の殺気を感じている。
「おい「妖怪目玉舐め」どうやってこの部屋に入った?」
「え?」
「剣でつっかえ棒してあったのに、どっから入ってきた?」
杉元の言葉で必死に言いつくろっていた女将の表情が崩れた。
「杉元入れてくれ!!」
突然、ドアが激しくたたかれた。
「このホテルはやばい!!地下の拷問部屋に死体があった!!」
声の主は白石で、いつになく焦った様子だった。しかも、その言葉が本当なら、その死体をつくった人物は…。すっと女将の方へ目をやる。すると、濁った瞳がさくらの視線と絡みつくように向けられていた。「ひっ…」本能的に恐怖を感じて、小さく悲鳴を上げた。
「あの女将は刺青の囚人だ。前に話しただろ?患者を監禁して肉をどうこうしてた元医者がいたってよお!!ひとまず脱出するぞ!建物に罠がある!ここはやつの巣穴の中だ!!」
「こいつのことか…」
焦る白石とは対照的に、杉元は冷静に答えた。ここまでの話を聞いていられるとは。
「同物同治だかってのを信じて人を殺しまくったじじい…。アシリパさんの綺麗な目にかじりつく気だったのか?」
男…まさか老年の男性だとは思えず、さくらは目を瞠った。細い腰に色白の肌。肉厚の唇…。その全てが作り物だったなんて。女将の表情に笑みが浮かべられ、すっと優雅に立ちあがった。
「若さ強さ美しさ。充実した生への渇望……結局ひとは無い物ねだり欲深いです。」
先ほどとは打って変わり、自信に満ちた様子は、たしかに、美しくさえある。
「でも、私を見てください…私は正しい。」
しかし…女将の瞳の中にある、ほの暗い闇が、その美しさを羨ましいものとは思わせない気がした。瞳はその人の生き方を、心をあらわす。それはこの世界に来てから一番感じられたことだった。女将の中にある闇はあの中尉のなかにある闇と非常に似ているように思えた。
「同物同治なんてそんな都合のいい話があるかよ。自己暗示だろ?」
杉元の言葉に女将の目がつり上がった。
「だが…たしかに人間ってのは欲深いぜ。俺はてめえの刺青を引きはがして持ち去るつもりなんだから。」
「それだけじゃないでしょう?」
女将の口端がにやり、と引き上げられた。
「あなたが欲しいのは刺青だけじゃないわ。」
女将の視線がこちらに向けられた。
「どちらが大切なのかしら?」
面白がるような表情でさくらを見ると、スカートからキラリと光る物が一瞬でこちらに向かって打ち上げられた。
「おいっ……!!」
目の端で追ったのは針のついた注射器で、アシリパとさくらに向けられて放たれていた。この距離で二人を同時に助けるなんていくら杉元でも不可能だ。『どちら』を選ぶかなんて、わかりきっている。
「さくらさん…!!」
焦った杉元と瞳だけがかち合った。どうかアシリパを!と思いをこめ、かろうじて動き始めた口と視線で、訴えかけた。アシリパの瞳めがけて鋭い針が降り注ぐ。寸でのところで、杉元の手のひらが受け止めた。それと同時にさくらの首筋には、するどい衝撃が走った。
「…っくぅ…。」
勢いもあり、深々と首に刺さった針はじんじんと痛みが増してくる。
「ごめん、さくらさん…俺、守るっていったのに。」
杉元がすぐさまさくらに刺さった注射針を抜くと、こちらに覆い被さるように様子をみた。
「ごめん、本当にごめん。痛い思いさせてごめん。」
何度も謝る杉元にさくらは心配をかけまいと笑いかけた。
「へいき…です。はや、く…追って。」
さくらに言われて初めて女将が消えたことに気付いたらしい。
「白石!!女将が逃げたぞ!!」
「ええええ!?」
杉元は「すぐ捕まえてくるから。」と、さくらの首元を簡単に止血すると、立ち上がり、女将の行方を追っていった。杉元の姿が消えたところで、薬が少し効いてきたらしい。再び体の自由がきかなくなってきた。…きっと麻酔かなにかだろう。痛みも引いてきた。このまま眠ってしまえそうだ…。
いたるところで物の壊れる音、何かが倒れる音、爆発音が聞こえてくる。近いのか、遠いのか、それさえも感覚が遠くなって分からない。
「――い、おい!!」
うっすら目を開けると目の前に男がいた。声は聞こえても反応することが出来ない。それを見かねたのか、抱き上げられた。
「杉元!アシリパもさくらも気を失っている。」
「俺はさくらさんを連れて行く、あんたはアシリパさんを頼む!地下は火の海だ!!すぐに脱出するぞ!!」
もう一人に抱きかかえられる。なじみのある胸に体温に、安心して体を預けた。
「さくらさん、安全なところに出るまで少し辛抱してね。」
力強く抱きしめられ、そのままホテルを脱出する。
「爆薬を袋ごと火の中に落としちまった!!」
全員が揃い、ホテルから出る瞬間、爆発が起こった。杉元の肩越しに白い光が広がり、同時に爆発音が起こった。爆発の瞬間、杉元はさくらを守るように頭を抱きかかえながら、爆風から己の体を盾にした。脱出の途中で目を覚ましたアシリパは自身の足で立っており、さくら以外はみな、すすまみれに汚れていた。
「すぎ、もとさん…すみま…せん。」
ようやく頭が回ってきたところで、杉元を見上げてそう告げた。すると、杉元は「よかった!意識がもどったんだね!」と嬉しそうな笑顔を見せた。相変わらず抱きかかえられたままで、恥ずかしく思い、「おります…」といったが、「まだ、体に力はいってないよ。しばらくは俺が運ぶよ。」と爽やかな笑顔で答えられた。
「チンポ先生は?まだ出てきてない!」
男の行方を心配したアシリパはホテルの方を振り向いた。あれだけ懐いていたのだ、姿が見えなくなって心配するのも当然だろう。しかし、がれきはさらに倒壊し、足下には白いはんぺんだけが残されていた。
「チンポ先生……」
震える声で大事そうにはんぺんを抱き上げる姿にどう返していいのか分からない。杉元はあきれたように「はんぺんだろ、それ。」とつっこんでいた。
「警察や軍も集まってきているぞ。面倒になる…ひとまずずらがろう。」
キロランケの言うように見渡すと野次馬や、笛の音が聞こえてくる。ここで見つかると白石も、軍に睨まれている杉元やさくらもいる。見つかる前に逃げた方がいい。杉元もそれに頷いた。
「ますます網走ののっぺらぼうに会わなきゃいけなくなってきたぜ。あの不敗の牛山が吹っ飛んじまっていればの話だが……。」
「…不敗の牛山?」
さくらの疑問の声に杉元が応えた。
「あいつも刺青の囚人だったんだよ。」
「杉元、野次馬から聞いたんだが、消防も警察も死傷者はみつけられなかったらしい。」
翌朝、がれきを皆でかき分け、二人の死体を探した。あのあとさくらの体も動かせるようになり、やはりただの麻酔だったらしく、今日は皆と一緒に作業が出来る。汗をかきながら、木材を動かしていく。キロランケは昨夜のうちに野次馬のなかで数人から話を聞いてきてくれたらしい。
「地下室の死体も吹っ飛んだかがれきで深く埋もれてしまったようだ。ふたりの死体があるとすればそこかもな。」
「爆発の直前まで家永も牛山も俺たちと同じ二階にいたと白石は言っていた。地下に埋もれたとは思えん。」
「…二人とも無事避難できたかもしれないな。」
大事そうに昨夜拾ったはんぺんに思いをよせるアシリパは、どうやら本気でそれを牛山と思っているらしい。
「そのはんぺん、捨てなさいよ。」
杉元もあきれているが、アシリパはまた大事そうに煤まるけのはんぺんを懐にしまった。
「白石のやろう。買ったばかりの爆薬を吹き飛ばしやがって。今頃あの鉄砲店は目をつけられてるかもしれないな。」
あの爆薬も安くはなかった。しかもキロランケの筋で足の着かないいい店でもあったのにだ。ドジなのか、計画犯なのか、つかみ所のない男だ。…そういえば朝から白石の姿が見えない。こうしてたまに姿を消すのはよくあることだ。
「あいつどこ行った?」
「ススキノだろ…あのエロ坊主。」
杉元は疑いもせず、仕方ないやつだとでも言うように愚痴を吐いた。しかし、さくらには、白石がただ女遊びのためにいなくなっているのだとは思えなかった。あのときだってそうだった。町に聞き込みに行けば、必ず刺青の情報を仕入れてくる。それは白石が有能な訳でもなく、きっと『協力者』がいるのだろう。
「だが、そのススキノで俺は囚人の情報を掴んできたぜ!」
ひょっこりとがれきから坊主頭がのぞく。件の男は、あっけらかんと有力情報を持ち帰ってきた。
「網走の計画だってうまくいく保証はないんだからよう。道すがら囚人の情報が手に入ればそこへ向かってみるべきだと思うんだよな。」
「……さすが白石さん。色街での情報収集がお得意ですね。」
ちくり、と指摘してやると、白石はたらりと冷や汗をながした。
「いやあ。俺の技術でそれくらい、どうってことないぜ!」
はぐらかす白石にまるで興味がない、とでもいうように杉元は先を続けさせた。
「で?囚人はどこに居る?」
「日高だ。」
白石は得意げにそう言った。
あの男、名前はなんと言ったか?
今までみなが自然と話していたから、聞く機会も無かったし、自らも名乗る事をしていなかった。しかし、キロランケの時だって素性を聞いていた慎重派の杉元でさえ、そのことに関して気にしていないのは不自然に思われた。アシリパを抱きかかえながらふらふらと歩く杉元。もはや、ここまでできあがって真面目な話は難しいだろう。今にもアシリパを落としそうな杉元が心配になって声をかける。
「杉元さん、大丈夫ですか?かわりましょうか?」
さくらの言葉に、杉元は赤い顔をぶんぶん振った。
「だあいじょーぶでぇい、アシいパさんはおれがはこぶ。」
呂律の回らない様子に、本当に大丈夫かと思ったが、かたくなにアシリパを渡さない。
「…分かりました。もうすぐお部屋ですよ。」
あれだけ飲めばこうなるだろう。先ほどの店で飲み比べを始めた男たちの周りには何本ものビール瓶が転がっていた。しかも、瓶ごとあおっていれば、こうなるに決まっている。さくらは小さくため息をつき、部屋まで来ると鍵を開けてやって二人を、部屋の中に入れた。杉元はアシリパをベッドにやさしく下ろしてやった。
「…ふええ。」
おかしな声を出す杉元だが、酔っていても最後まで面倒をみるのはさすがだ。杉元はその後すぐに隣のベッドに体を投げ出し、早々に眠りについた。背中を向けた杉元の体が規則正しい寝息とともに揺れ動いている。隣のアシリパも口をだらしなく開けて、完全に熟睡だ。二人の無防備な姿に笑みがこぼれる。ここまで安心してくれると、なんだか嬉しいものだ。さくらは二人に布団をかけてやり、自身も窓側のベッドへと横になった。
久しぶりのベッドの感触に眠りについていた夜半すぎ。うっすら聞こえる声に目が覚めた。
「――綺麗な子…。」
聞き覚えのある声は、このホテルの女将だとすぐに分かった。隣のアシリパのベッドから声が聞こえる。なぜこんな夜更けに?と疑問に思い、体をそちら側に向けようとしたが、まったく動かない。まるで重い鉛でもつけているかのように体はベッドに沈み込み、己の意思では指一つ動かせない。唯一動かせた目も、窓の方を向いており、なんの役にも立たない。
「きめ細やかな肌にツヤのある髪…特にこの瞳。深い深い青にうっすらと緑が見える。……欲しい。」
欲を孕んだ湿った声に、アシリパの身が危険にさらされているのが分かった。…分かっているにもかかわらず、さくらの体は動かすことが出来ない。
「…っう」
さくらが必死に体に力を入れ、かろうじて指の一本が動くくらいのところで、隣から大きな音がし、窓際に女将が勢いよくぶつかってきた。
「てめえ、なんでアシリパさんの目ん玉なめてんだ?」
鼻血を出しながら床で膝をついている女将は窺うように杉元を見て、すぐに焦ったような表情を『つくった』。
「目をなめるなんてとんでもないっ!何かの見間違いですうう!先ほどホテルに戻られた時にお子様の具合が悪そうだったので様子を見に来ただけなんですうう!!」
必死な女将に杉元は低い声で答えた。背後にいるため杉元の姿は見えない。しかし、背中には確かに杉元の殺気を感じている。
「おい「妖怪目玉舐め」どうやってこの部屋に入った?」
「え?」
「剣でつっかえ棒してあったのに、どっから入ってきた?」
杉元の言葉で必死に言いつくろっていた女将の表情が崩れた。
「杉元入れてくれ!!」
突然、ドアが激しくたたかれた。
「このホテルはやばい!!地下の拷問部屋に死体があった!!」
声の主は白石で、いつになく焦った様子だった。しかも、その言葉が本当なら、その死体をつくった人物は…。すっと女将の方へ目をやる。すると、濁った瞳がさくらの視線と絡みつくように向けられていた。「ひっ…」本能的に恐怖を感じて、小さく悲鳴を上げた。
「あの女将は刺青の囚人だ。前に話しただろ?患者を監禁して肉をどうこうしてた元医者がいたってよお!!ひとまず脱出するぞ!建物に罠がある!ここはやつの巣穴の中だ!!」
「こいつのことか…」
焦る白石とは対照的に、杉元は冷静に答えた。ここまでの話を聞いていられるとは。
「同物同治だかってのを信じて人を殺しまくったじじい…。アシリパさんの綺麗な目にかじりつく気だったのか?」
男…まさか老年の男性だとは思えず、さくらは目を瞠った。細い腰に色白の肌。肉厚の唇…。その全てが作り物だったなんて。女将の表情に笑みが浮かべられ、すっと優雅に立ちあがった。
「若さ強さ美しさ。充実した生への渇望……結局ひとは無い物ねだり欲深いです。」
先ほどとは打って変わり、自信に満ちた様子は、たしかに、美しくさえある。
「でも、私を見てください…私は正しい。」
しかし…女将の瞳の中にある、ほの暗い闇が、その美しさを羨ましいものとは思わせない気がした。瞳はその人の生き方を、心をあらわす。それはこの世界に来てから一番感じられたことだった。女将の中にある闇はあの中尉のなかにある闇と非常に似ているように思えた。
「同物同治なんてそんな都合のいい話があるかよ。自己暗示だろ?」
杉元の言葉に女将の目がつり上がった。
「だが…たしかに人間ってのは欲深いぜ。俺はてめえの刺青を引きはがして持ち去るつもりなんだから。」
「それだけじゃないでしょう?」
女将の口端がにやり、と引き上げられた。
「あなたが欲しいのは刺青だけじゃないわ。」
女将の視線がこちらに向けられた。
「どちらが大切なのかしら?」
面白がるような表情でさくらを見ると、スカートからキラリと光る物が一瞬でこちらに向かって打ち上げられた。
「おいっ……!!」
目の端で追ったのは針のついた注射器で、アシリパとさくらに向けられて放たれていた。この距離で二人を同時に助けるなんていくら杉元でも不可能だ。『どちら』を選ぶかなんて、わかりきっている。
「さくらさん…!!」
焦った杉元と瞳だけがかち合った。どうかアシリパを!と思いをこめ、かろうじて動き始めた口と視線で、訴えかけた。アシリパの瞳めがけて鋭い針が降り注ぐ。寸でのところで、杉元の手のひらが受け止めた。それと同時にさくらの首筋には、するどい衝撃が走った。
「…っくぅ…。」
勢いもあり、深々と首に刺さった針はじんじんと痛みが増してくる。
「ごめん、さくらさん…俺、守るっていったのに。」
杉元がすぐさまさくらに刺さった注射針を抜くと、こちらに覆い被さるように様子をみた。
「ごめん、本当にごめん。痛い思いさせてごめん。」
何度も謝る杉元にさくらは心配をかけまいと笑いかけた。
「へいき…です。はや、く…追って。」
さくらに言われて初めて女将が消えたことに気付いたらしい。
「白石!!女将が逃げたぞ!!」
「ええええ!?」
杉元は「すぐ捕まえてくるから。」と、さくらの首元を簡単に止血すると、立ち上がり、女将の行方を追っていった。杉元の姿が消えたところで、薬が少し効いてきたらしい。再び体の自由がきかなくなってきた。…きっと麻酔かなにかだろう。痛みも引いてきた。このまま眠ってしまえそうだ…。
いたるところで物の壊れる音、何かが倒れる音、爆発音が聞こえてくる。近いのか、遠いのか、それさえも感覚が遠くなって分からない。
「――い、おい!!」
うっすら目を開けると目の前に男がいた。声は聞こえても反応することが出来ない。それを見かねたのか、抱き上げられた。
「杉元!アシリパもさくらも気を失っている。」
「俺はさくらさんを連れて行く、あんたはアシリパさんを頼む!地下は火の海だ!!すぐに脱出するぞ!!」
もう一人に抱きかかえられる。なじみのある胸に体温に、安心して体を預けた。
「さくらさん、安全なところに出るまで少し辛抱してね。」
力強く抱きしめられ、そのままホテルを脱出する。
「爆薬を袋ごと火の中に落としちまった!!」
全員が揃い、ホテルから出る瞬間、爆発が起こった。杉元の肩越しに白い光が広がり、同時に爆発音が起こった。爆発の瞬間、杉元はさくらを守るように頭を抱きかかえながら、爆風から己の体を盾にした。脱出の途中で目を覚ましたアシリパは自身の足で立っており、さくら以外はみな、すすまみれに汚れていた。
「すぎ、もとさん…すみま…せん。」
ようやく頭が回ってきたところで、杉元を見上げてそう告げた。すると、杉元は「よかった!意識がもどったんだね!」と嬉しそうな笑顔を見せた。相変わらず抱きかかえられたままで、恥ずかしく思い、「おります…」といったが、「まだ、体に力はいってないよ。しばらくは俺が運ぶよ。」と爽やかな笑顔で答えられた。
「チンポ先生は?まだ出てきてない!」
男の行方を心配したアシリパはホテルの方を振り向いた。あれだけ懐いていたのだ、姿が見えなくなって心配するのも当然だろう。しかし、がれきはさらに倒壊し、足下には白いはんぺんだけが残されていた。
「チンポ先生……」
震える声で大事そうにはんぺんを抱き上げる姿にどう返していいのか分からない。杉元はあきれたように「はんぺんだろ、それ。」とつっこんでいた。
「警察や軍も集まってきているぞ。面倒になる…ひとまずずらがろう。」
キロランケの言うように見渡すと野次馬や、笛の音が聞こえてくる。ここで見つかると白石も、軍に睨まれている杉元やさくらもいる。見つかる前に逃げた方がいい。杉元もそれに頷いた。
「ますます網走ののっぺらぼうに会わなきゃいけなくなってきたぜ。あの不敗の牛山が吹っ飛んじまっていればの話だが……。」
「…不敗の牛山?」
さくらの疑問の声に杉元が応えた。
「あいつも刺青の囚人だったんだよ。」
「杉元、野次馬から聞いたんだが、消防も警察も死傷者はみつけられなかったらしい。」
翌朝、がれきを皆でかき分け、二人の死体を探した。あのあとさくらの体も動かせるようになり、やはりただの麻酔だったらしく、今日は皆と一緒に作業が出来る。汗をかきながら、木材を動かしていく。キロランケは昨夜のうちに野次馬のなかで数人から話を聞いてきてくれたらしい。
「地下室の死体も吹っ飛んだかがれきで深く埋もれてしまったようだ。ふたりの死体があるとすればそこかもな。」
「爆発の直前まで家永も牛山も俺たちと同じ二階にいたと白石は言っていた。地下に埋もれたとは思えん。」
「…二人とも無事避難できたかもしれないな。」
大事そうに昨夜拾ったはんぺんに思いをよせるアシリパは、どうやら本気でそれを牛山と思っているらしい。
「そのはんぺん、捨てなさいよ。」
杉元もあきれているが、アシリパはまた大事そうに煤まるけのはんぺんを懐にしまった。
「白石のやろう。買ったばかりの爆薬を吹き飛ばしやがって。今頃あの鉄砲店は目をつけられてるかもしれないな。」
あの爆薬も安くはなかった。しかもキロランケの筋で足の着かないいい店でもあったのにだ。ドジなのか、計画犯なのか、つかみ所のない男だ。…そういえば朝から白石の姿が見えない。こうしてたまに姿を消すのはよくあることだ。
「あいつどこ行った?」
「ススキノだろ…あのエロ坊主。」
杉元は疑いもせず、仕方ないやつだとでも言うように愚痴を吐いた。しかし、さくらには、白石がただ女遊びのためにいなくなっているのだとは思えなかった。あのときだってそうだった。町に聞き込みに行けば、必ず刺青の情報を仕入れてくる。それは白石が有能な訳でもなく、きっと『協力者』がいるのだろう。
「だが、そのススキノで俺は囚人の情報を掴んできたぜ!」
ひょっこりとがれきから坊主頭がのぞく。件の男は、あっけらかんと有力情報を持ち帰ってきた。
「網走の計画だってうまくいく保証はないんだからよう。道すがら囚人の情報が手に入ればそこへ向かってみるべきだと思うんだよな。」
「……さすが白石さん。色街での情報収集がお得意ですね。」
ちくり、と指摘してやると、白石はたらりと冷や汗をながした。
「いやあ。俺の技術でそれくらい、どうってことないぜ!」
はぐらかす白石にまるで興味がない、とでもいうように杉元は先を続けさせた。
「で?囚人はどこに居る?」
「日高だ。」
白石は得意げにそう言った。