白銀の世界で
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憔悴しているアシリパの肩を抱く。小さな体が、震えていた。
「…アシリパさん。」
自身の父親が殺人犯だと聞かされたアシリパの心労はいかばかりか。彼女は山での生き方を父親に教えてもらったと、言っていた。この時代では女は家を守るものである、と日本だけでなくアイヌでも考えられてきた。アシリパの村でも女伊達ら狩りをしているのはアシリパだけであった。しかし、彼女にとっては家で織物をするより、山での暮らしが最もあっていたのだろう。それを止めるでもなく、生きる術を教えてくれた父は、どれほど大きな存在だったか。そう考えると、余計にいたたまれなかった。
大丈夫だと、皆がついているのだと、そう思いをこめてアシリパの肩をさすった。杉元も白石も眉をハの字に寄せてアシリパを心配そうに見つめた。それに、さくらは小さく頷いた。そして、さくらはキロランケの方へ顔を向けた。
「アシリパさんの和名は両親しか知らないのでは?なぜあなたが知っているのです?」
アシリパの様子を見ても眉一つ動かさないキロランケに、思いの外語気が強くなってしまった。しかし、キロランケはそれに気圧されることも無い。
「俺はアシリパの父親と一緒に日本へ来た。」
そう言葉を口にして、キロランケはそれ以上話そうとしなかった。さくらは先ほどからキロランケの言動に違和感を感じていた。出会ってから杉元が質問をした時もそうだが、まるで薄皮一枚覆ったような質問への答え方だ。そして、友人の娘がショックを受けているにもかかわらず、慰めることもない。きっと勘のいい二人は気づいているだろう。しかし、杉元も白石もあえて、そのことを指摘することは無い。
「金塊が見つかればのっぺらぼうが死刑になって、アシリパさんは父親の仇がとれると思っていたが、見つかってしまえばアシリパさんの父親が死刑になるということなのか…。」
杉元は今の状況を整理してそう口にした。彼も金塊を欲する一人であるが、あくまでアシリパの心情を優先しようと思っているらしい。
「関係ねえよ。俺たちがほかより先に見つけてしまえばいいことだろ?どかっと換金しない限りばれねえって。」
さすが、白石はしっかり得を優先させて考えている。
「信じない。」
そうつぶやくアシリパの声にみなの注目が集まった。さくらは抱いていた肩がもう震えてないことに気がつき、手を離した。さきほどよりもしっかりした声だ。この一瞬で気持ちを立て直すアシリパの精神力の強さに驚いた。
「自分の目で確かめるまでは、信じない。私はのっぺらぼうに会いに行く。」
アシリパの言葉に一番に反応したのは白石だった。
「網走は地の果てだぜ?!」
焦ったような白石は初めて見た。幾多の監獄に収容されてきた彼にとって、アシリパの父親がいるかもしれない監獄は、行くなどあり得ない場所のようだ。しかも、以前自身が収容されていて脱獄した場所。行きたくなくて当然だろう。
網走…北海道の地理に疎いさくらでも知っている。ここから真逆の場所だ。北海道の端にある網走、しかもそこにある監獄となれば、人の生活圏にはないだろう。アシリパは白石の言葉に揺らぐことなく、もう決心した表情をしていた。杉元はその表情をみて、真剣な表情を見せた。彼もアシリパの決意に乗ったようだ。
「本当にのっぺらぼうがアシリパさんの父親なら、囚人を見つけなくたって直接本人から金塊のありかを聞ける。」
キロランケもまさか杉元が賛同するとは思っていなかったのか焦ったような顔をした。
「面会なんてできない。厳重な監獄だぞ…忍び込むことは不可能だ。どうやって本人に会うんだ?」
男たちの話を聞きながら、さくらは思い至った。
「…一度出ることができたのなら、入ることもできるのでは?」
さくらの言葉に杉元が勢いよく白石の方へ顔を向けた。
「脱獄王…!」
そこからは網走に行くという事で話をまとめていった。杉元はキロランケに白石の素性と刺青人皮をみせた。キロランケはすぐに皮を剥ぐための文様になっていると気づいた。
「他にもあるのか?」
「…無い。」
杉元の答えは、白石やアシリパ、さくらにとってキロランケは信用ならない人物であると言ったのと同等のものだった。やはり、杉元もさくらと同じく、キロランケの違和感を感じていたのだ。
「あんた、アシリパさんの父親と日本へ来たって言っていたな。あんたしか知らないのっぺらぼうの情報があるんだろ?」
杉元の言うことは最もだった。同じ国からやってきたキロランケならば、アシリパの父親の過去や、考え方に触れているはずである。そしてアシリパを探しにきた老人、その人から何か聞いているのでは無いか…?なにか手がかりとなるものがあるかもしれない。しかし、キロランケが話したのは、当たり障りの無い内容で。手がかりとなりそうなものは何も無かった。
今日はキロランケの家で泊まらせてもらうことになった。アシリパの村と同じようにいくつかの小屋が建ち並び、村人たちは、さくらたち和人を興味深そうに見ていた。どこの集落のアイヌも和人は珍しいらしい。
キロランケの案内で中に入ると、人の良さそうな女性が出迎えてくれた。赤ん坊を胸に抱いて、皆を出迎える。そして、後ろから勢いよく小さな男の子が飛び出してキロランケに抱きついた。キロランケは「ただいま」とアイヌの言葉でそれらしいことを言っていた。その表情は柔らかかった。
「まあ座れ。夕食の準備をしよう。」
キロランケに促されるまま、囲炉裏の近くにみな、腰を下ろした。
キロランケとその妻が簡単にオハウを準備してくれている。その手を動かしながらキロランケが口を開いた。
「俺の子供たちはこの土地で生まれ、アイヌとして生きていく。アイヌの金塊を奪ったこと、俺は同じ国から来た人間として責任を感じる。お前たちが相応の取り分を望むのはかまわないが残りは返すべきだ。」
杉元も白石もその言葉に静かに耳を傾ける。
「俺はアイヌとして、最後まで見届けたい。」
キロランケの言葉のあと、杉元はキロランケの同行を承諾した。アシリパは、ほっとしたような表情をした。しかし、白石もさくらも、その表情は晴れなかった。
用意してもらった夕食を囲みながら、つかの間の団らんを過ごした。キロランケの妻も子供も明るく、食事自体は楽しく過ごすことができた。しばらくして、白石が厠へと席を立った。しかし、戻ってくる気配が無い。アシリパは「オソマか?」と言っていたが、さくらとしては、怪しく思えた。さっと、席を立つ。
「私も少し…」
と言葉を濁して小屋を後にする。もしかして、こんなところで誰かと接触しているのでは?と一抹の不安を抱きながら、静かに夜の村を歩く。いくつかの小屋の中からは人の気配と火の明かりがみえる。夜闇といってもそれほど怖くない。
「さくらさん…!」
突然後ろから声をかけられ、びくりと大きく肩を振るわせた。
「す、杉元さん…!!」
いくら知っている人物と言ってもいきなり声をかけられれば驚く。しかも、足音もさせずに近づいてくるとは。軍人として訓練していたからなのかもしれないが、さくらにとっては、まさか後を着いてきているとは微塵も思わなかったため、声をかけられた瞬間、思い切り後ずさっていた。さくらの驚きように杉元はばつが悪そうに頬を掻いた。
「驚かせちゃってごめん。村の中っていっても女性一人は危ないから、俺もついていくよ。」
しばらく人気のない道を二人で歩いていく。通り過ぎていく小屋の中からは、人の声がかすかに聞こえる。どの家も家族で過ごしているのだろう。それを思うと、アシリパの祖母であるフチが思い出された。孫娘が危険な旅路へと向かおうとしている。それを知ったらどう思うのだろうか。しかも、頼りになる人間は少ない。白石もキロランケも、腹にいちもつ持った人物だ。そんな者たちに命を預けて網走監獄に行くなどと、さくらの家族であれば必死に止めるだろう。
「杉元さん…本当に行くんですね。」
「心配?」
杉元が窺うようにさくらの方を覗き込んだ。
「アシリパさんにとっても皆さんにとっても避けられない旅なのは分かっているつもりです。ですが、アシリパさんを連れて行くには不安要素が多いと思うのです…。危ない旅だからこそ信頼しあえなければならならいのに…。」
さくらの言わんとしていることに気付いたのか、杉元はそれに答えた。
「正直、白石もキロランケも信用ならねえ。だが、あいつらの持っている術は必要だ。…変な気を起こす前に俺が止めるさ。」
杉元は何でもないことのように言った。その言葉の裏にさくらもアシリパも杉元が守るという意味が含まれているのだろう。
「そうやって、あなたばかり抱えこんで…」
言い募る前に厠に到着してしまい、丁度そこには女性用の方から出てくる白石の姿があった。
「白石、そっちは女性用の便所だぞ。」
杉元の指摘には、なにも言わずさくらの方を見るや、茶化すようにいつものポーズを決めてくる。
「白石さんの後って、何だか嫌ですね。」
あからさまに嫌そうな顔をすると、くうんと鳴いた。
「そりゃひどいぜー。…杉元、本当にあの男、連れて行って大丈夫なのか。」
「別にお前のことだって信用してねえけど。」
うっと白石が言葉をつまらせた。真正面からそう主張するのは、きっと牽制もあるのだろう。明るく振る舞っているようで、杉元はよく人を見ているし、駆け引きもする。頼もしい人であると同時に、一番の重荷である自身が、これからの旅で杉元の枷になってしまうのではないか。そう考えると胸の奥がちくりと痛んだ。
厠に入ってみると、夜道を歩いてきたため、夜目がきき、内部がよく見えた。白石が何か手がかりを残していないかと隅まで見渡してみる。すると、隅の方で少し焦げたようなものが落ちていた。
「マッチの燃えかす?」
こんな場所で焼かねばならないもの?手紙だろうか…。考えを巡らせても、それ以上手掛かりも物的証拠もない。手紙であるならば、先のニシン場で接触した人物がいたのだろうか?
ふと、あのとき出会った老人が思い出された。白石の反応も怪しかった気がする。あの人物が何か関係しているのかもしれない。…旅の道中で探してみる価値はある。頭の中である程度予想を立てると、怪しまれないよう厠を後にした。
翌日、キロランケは旅に必要な馬を用意してくれていた。
「うちの農耕馬だ。」
キロランケが用意したのは立派な馬二頭、そしてポニーのような小さな馬一頭だった。キロランケの方にはアシリパ。杉元の方にはさくらが手綱の前に乗った。杉元が後ろから包むように手綱を握る。背中に感じる体温と、鍛えられた体の感触に自然と胸の鼓動が速まった。貴重な働き手の馬を借りるにも一人一頭は難しい。分かっているが、背に感じる頼もしい体が気になって、杉元の方を見ることもできない。杉元はそれに気付いていないのか、さくらに乗り心地を窺い、気を遣ってくれる。それに「大丈夫です。」と短く答えることしかできないのが、いい歳をした大人の自分の行動か、と更に恥ずかしくなってくる。
「よし行こうか、網走へ…!さくらさん、怖かったら俺につかまってね!」
皆に声をかけて、杉元が手綱を引いた。出発とともに自然と落ちないよう腰に回された腕が、がっしりとしている。杉元の男らしい腕に遠慮がちに自身の腕を重ねた。さくらの頭の上で杉元が小さく笑った。しかし、蹄の音にかき消され、さくらは気付くことができなかった。
「…アシリパさん。」
自身の父親が殺人犯だと聞かされたアシリパの心労はいかばかりか。彼女は山での生き方を父親に教えてもらったと、言っていた。この時代では女は家を守るものである、と日本だけでなくアイヌでも考えられてきた。アシリパの村でも女伊達ら狩りをしているのはアシリパだけであった。しかし、彼女にとっては家で織物をするより、山での暮らしが最もあっていたのだろう。それを止めるでもなく、生きる術を教えてくれた父は、どれほど大きな存在だったか。そう考えると、余計にいたたまれなかった。
大丈夫だと、皆がついているのだと、そう思いをこめてアシリパの肩をさすった。杉元も白石も眉をハの字に寄せてアシリパを心配そうに見つめた。それに、さくらは小さく頷いた。そして、さくらはキロランケの方へ顔を向けた。
「アシリパさんの和名は両親しか知らないのでは?なぜあなたが知っているのです?」
アシリパの様子を見ても眉一つ動かさないキロランケに、思いの外語気が強くなってしまった。しかし、キロランケはそれに気圧されることも無い。
「俺はアシリパの父親と一緒に日本へ来た。」
そう言葉を口にして、キロランケはそれ以上話そうとしなかった。さくらは先ほどからキロランケの言動に違和感を感じていた。出会ってから杉元が質問をした時もそうだが、まるで薄皮一枚覆ったような質問への答え方だ。そして、友人の娘がショックを受けているにもかかわらず、慰めることもない。きっと勘のいい二人は気づいているだろう。しかし、杉元も白石もあえて、そのことを指摘することは無い。
「金塊が見つかればのっぺらぼうが死刑になって、アシリパさんは父親の仇がとれると思っていたが、見つかってしまえばアシリパさんの父親が死刑になるということなのか…。」
杉元は今の状況を整理してそう口にした。彼も金塊を欲する一人であるが、あくまでアシリパの心情を優先しようと思っているらしい。
「関係ねえよ。俺たちがほかより先に見つけてしまえばいいことだろ?どかっと換金しない限りばれねえって。」
さすが、白石はしっかり得を優先させて考えている。
「信じない。」
そうつぶやくアシリパの声にみなの注目が集まった。さくらは抱いていた肩がもう震えてないことに気がつき、手を離した。さきほどよりもしっかりした声だ。この一瞬で気持ちを立て直すアシリパの精神力の強さに驚いた。
「自分の目で確かめるまでは、信じない。私はのっぺらぼうに会いに行く。」
アシリパの言葉に一番に反応したのは白石だった。
「網走は地の果てだぜ?!」
焦ったような白石は初めて見た。幾多の監獄に収容されてきた彼にとって、アシリパの父親がいるかもしれない監獄は、行くなどあり得ない場所のようだ。しかも、以前自身が収容されていて脱獄した場所。行きたくなくて当然だろう。
網走…北海道の地理に疎いさくらでも知っている。ここから真逆の場所だ。北海道の端にある網走、しかもそこにある監獄となれば、人の生活圏にはないだろう。アシリパは白石の言葉に揺らぐことなく、もう決心した表情をしていた。杉元はその表情をみて、真剣な表情を見せた。彼もアシリパの決意に乗ったようだ。
「本当にのっぺらぼうがアシリパさんの父親なら、囚人を見つけなくたって直接本人から金塊のありかを聞ける。」
キロランケもまさか杉元が賛同するとは思っていなかったのか焦ったような顔をした。
「面会なんてできない。厳重な監獄だぞ…忍び込むことは不可能だ。どうやって本人に会うんだ?」
男たちの話を聞きながら、さくらは思い至った。
「…一度出ることができたのなら、入ることもできるのでは?」
さくらの言葉に杉元が勢いよく白石の方へ顔を向けた。
「脱獄王…!」
そこからは網走に行くという事で話をまとめていった。杉元はキロランケに白石の素性と刺青人皮をみせた。キロランケはすぐに皮を剥ぐための文様になっていると気づいた。
「他にもあるのか?」
「…無い。」
杉元の答えは、白石やアシリパ、さくらにとってキロランケは信用ならない人物であると言ったのと同等のものだった。やはり、杉元もさくらと同じく、キロランケの違和感を感じていたのだ。
「あんた、アシリパさんの父親と日本へ来たって言っていたな。あんたしか知らないのっぺらぼうの情報があるんだろ?」
杉元の言うことは最もだった。同じ国からやってきたキロランケならば、アシリパの父親の過去や、考え方に触れているはずである。そしてアシリパを探しにきた老人、その人から何か聞いているのでは無いか…?なにか手がかりとなるものがあるかもしれない。しかし、キロランケが話したのは、当たり障りの無い内容で。手がかりとなりそうなものは何も無かった。
今日はキロランケの家で泊まらせてもらうことになった。アシリパの村と同じようにいくつかの小屋が建ち並び、村人たちは、さくらたち和人を興味深そうに見ていた。どこの集落のアイヌも和人は珍しいらしい。
キロランケの案内で中に入ると、人の良さそうな女性が出迎えてくれた。赤ん坊を胸に抱いて、皆を出迎える。そして、後ろから勢いよく小さな男の子が飛び出してキロランケに抱きついた。キロランケは「ただいま」とアイヌの言葉でそれらしいことを言っていた。その表情は柔らかかった。
「まあ座れ。夕食の準備をしよう。」
キロランケに促されるまま、囲炉裏の近くにみな、腰を下ろした。
キロランケとその妻が簡単にオハウを準備してくれている。その手を動かしながらキロランケが口を開いた。
「俺の子供たちはこの土地で生まれ、アイヌとして生きていく。アイヌの金塊を奪ったこと、俺は同じ国から来た人間として責任を感じる。お前たちが相応の取り分を望むのはかまわないが残りは返すべきだ。」
杉元も白石もその言葉に静かに耳を傾ける。
「俺はアイヌとして、最後まで見届けたい。」
キロランケの言葉のあと、杉元はキロランケの同行を承諾した。アシリパは、ほっとしたような表情をした。しかし、白石もさくらも、その表情は晴れなかった。
用意してもらった夕食を囲みながら、つかの間の団らんを過ごした。キロランケの妻も子供も明るく、食事自体は楽しく過ごすことができた。しばらくして、白石が厠へと席を立った。しかし、戻ってくる気配が無い。アシリパは「オソマか?」と言っていたが、さくらとしては、怪しく思えた。さっと、席を立つ。
「私も少し…」
と言葉を濁して小屋を後にする。もしかして、こんなところで誰かと接触しているのでは?と一抹の不安を抱きながら、静かに夜の村を歩く。いくつかの小屋の中からは人の気配と火の明かりがみえる。夜闇といってもそれほど怖くない。
「さくらさん…!」
突然後ろから声をかけられ、びくりと大きく肩を振るわせた。
「す、杉元さん…!!」
いくら知っている人物と言ってもいきなり声をかけられれば驚く。しかも、足音もさせずに近づいてくるとは。軍人として訓練していたからなのかもしれないが、さくらにとっては、まさか後を着いてきているとは微塵も思わなかったため、声をかけられた瞬間、思い切り後ずさっていた。さくらの驚きように杉元はばつが悪そうに頬を掻いた。
「驚かせちゃってごめん。村の中っていっても女性一人は危ないから、俺もついていくよ。」
しばらく人気のない道を二人で歩いていく。通り過ぎていく小屋の中からは、人の声がかすかに聞こえる。どの家も家族で過ごしているのだろう。それを思うと、アシリパの祖母であるフチが思い出された。孫娘が危険な旅路へと向かおうとしている。それを知ったらどう思うのだろうか。しかも、頼りになる人間は少ない。白石もキロランケも、腹にいちもつ持った人物だ。そんな者たちに命を預けて網走監獄に行くなどと、さくらの家族であれば必死に止めるだろう。
「杉元さん…本当に行くんですね。」
「心配?」
杉元が窺うようにさくらの方を覗き込んだ。
「アシリパさんにとっても皆さんにとっても避けられない旅なのは分かっているつもりです。ですが、アシリパさんを連れて行くには不安要素が多いと思うのです…。危ない旅だからこそ信頼しあえなければならならいのに…。」
さくらの言わんとしていることに気付いたのか、杉元はそれに答えた。
「正直、白石もキロランケも信用ならねえ。だが、あいつらの持っている術は必要だ。…変な気を起こす前に俺が止めるさ。」
杉元は何でもないことのように言った。その言葉の裏にさくらもアシリパも杉元が守るという意味が含まれているのだろう。
「そうやって、あなたばかり抱えこんで…」
言い募る前に厠に到着してしまい、丁度そこには女性用の方から出てくる白石の姿があった。
「白石、そっちは女性用の便所だぞ。」
杉元の指摘には、なにも言わずさくらの方を見るや、茶化すようにいつものポーズを決めてくる。
「白石さんの後って、何だか嫌ですね。」
あからさまに嫌そうな顔をすると、くうんと鳴いた。
「そりゃひどいぜー。…杉元、本当にあの男、連れて行って大丈夫なのか。」
「別にお前のことだって信用してねえけど。」
うっと白石が言葉をつまらせた。真正面からそう主張するのは、きっと牽制もあるのだろう。明るく振る舞っているようで、杉元はよく人を見ているし、駆け引きもする。頼もしい人であると同時に、一番の重荷である自身が、これからの旅で杉元の枷になってしまうのではないか。そう考えると胸の奥がちくりと痛んだ。
厠に入ってみると、夜道を歩いてきたため、夜目がきき、内部がよく見えた。白石が何か手がかりを残していないかと隅まで見渡してみる。すると、隅の方で少し焦げたようなものが落ちていた。
「マッチの燃えかす?」
こんな場所で焼かねばならないもの?手紙だろうか…。考えを巡らせても、それ以上手掛かりも物的証拠もない。手紙であるならば、先のニシン場で接触した人物がいたのだろうか?
ふと、あのとき出会った老人が思い出された。白石の反応も怪しかった気がする。あの人物が何か関係しているのかもしれない。…旅の道中で探してみる価値はある。頭の中である程度予想を立てると、怪しまれないよう厠を後にした。
翌日、キロランケは旅に必要な馬を用意してくれていた。
「うちの農耕馬だ。」
キロランケが用意したのは立派な馬二頭、そしてポニーのような小さな馬一頭だった。キロランケの方にはアシリパ。杉元の方にはさくらが手綱の前に乗った。杉元が後ろから包むように手綱を握る。背中に感じる体温と、鍛えられた体の感触に自然と胸の鼓動が速まった。貴重な働き手の馬を借りるにも一人一頭は難しい。分かっているが、背に感じる頼もしい体が気になって、杉元の方を見ることもできない。杉元はそれに気付いていないのか、さくらに乗り心地を窺い、気を遣ってくれる。それに「大丈夫です。」と短く答えることしかできないのが、いい歳をした大人の自分の行動か、と更に恥ずかしくなってくる。
「よし行こうか、網走へ…!さくらさん、怖かったら俺につかまってね!」
皆に声をかけて、杉元が手綱を引いた。出発とともに自然と落ちないよう腰に回された腕が、がっしりとしている。杉元の男らしい腕に遠慮がちに自身の腕を重ねた。さくらの頭の上で杉元が小さく笑った。しかし、蹄の音にかき消され、さくらは気付くことができなかった。