星降る夜に
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長期休暇に入り、さくらは長屋での生活を始めた。最初は火おこしから始まり、炊事洗濯、ありとあらゆる家事をご近所さんにお世話になりながら覚えていった。周囲はさくらのあまりにも不慣れな様子に驚いていた。どこかの大店の娘じゃないか、さる事情で身分を隠している姫様なのではないか。文字通り井戸端会議で話題にあがり、……もちろんさくらがいない時に噂をしている。しかし、井戸から長屋までの距離を考えれば、ご近所さん達の会話は筒抜けだった。
さくらのような現代人は、たらいで洗濯をしたこともなければ、火加減をみながら調理をすることもない。そういう意味では「いいところの娘」というのは、あたがち間違いでもないのだろう。下手に取り繕うよりは、と素直に色々聞いていれば、頼られるのが嬉しいのか、長屋の奥様方との距離は近づいて行った。
「さくらちゃん、甕の水は足りてるかい?」
ちょうど井戸汲みをしていた隣の奥さんがさくらに声をかけてくれる。
「ありがとうございます。ちょうど少なくなってたんです。助かります。」
手桶を持って井戸に行けば、奥さんが残りの井戸水を注いでくれる。勢いよく手桶の水が跳ねる。そんな豪快な奥さんだが、独り身のさくらを気にかけて声をかけてくれる、ありがたい存在だ。
「昨日、さつまいもを蒸したんです。沢山作ったのでよかったら持っていってください。」
「ありがとうね。子供達も喜ぶよ。」
奥さんは、にかっと笑顔を向けてくれる。ご近所は持ちつ持たれつ。手桶を家に踵を返すと、人数分のさつまいもを両手に井戸の方へ戻る。すると、子供達も集まってきて、目をキラキラさせながらさくらを待ち構えていた。一年は組より頭ひとつ背が低いだろうか。まだ年端もいかぬ兄妹にそれぞれ手渡してやると、「おいも!」「やったぁ!」と舌足らずな口調で喜んでいる。さくらの方も思わず可愛く思えて、二人の頭を撫でてやった。
土井先生も同じような気持ちなのだろうか。自分を慕ってくれる子供たち。嬉しそうな顔を見れば、こちらも嬉しくなって、笑顔になる。こういう繋がりが、ここで「生きている」のだと実感させてくれる。誰かの記憶の中に、生活の中に自分という存在が残っているという安心感。根無草のような存在の自分が、生きていく場所を見つけられた。
さくらにとってのシナ先生のように。土井先生にとって山田先生は安住の地を与えてくれた、まさに庇護者だろう。さくら自身が天涯孤独の身となり、幼い正史丸の経験の一端を追体験するような形となった。正史丸に比べれば随分と恵まれた環境ではあるが……。しかし、だからこそ人々に慕われる今の土井先生が、いかに困難な道を辿ってやってきたのか。薄氷を踏むように進んできた道が、どれほど危なげなものだったのか、より鮮明に思い至ることとなったのだった。
子供達が芋を頬張るのを眺めていると、見知った姿を目の端にとらえた。隣の奥さんも同じく、土井先生の姿を捉えると、にやにやとさくらの脇腹を小突いた。
「ほうら、良い人がお待ちかねだよ。」
背中を押されるように土井先生の方へ向かわされる。こちらとしても満更ではないので、そのまま土井先生の元へと近付いた。
「こんにちは、半助さん。」
「お邪魔だったかな?」
こちらと隣の奥さんを交互に見遣る。後ろにいる奥さんは「いーえ!全然!」と満面の笑みで顔を横に振っている。
「お買い物ですか?」
「ああ、さくらさんも行かないかい?荷物は私が持つから米や重たいものも買い置きをどうかと思ってね。」
「ありがたいです!行きましょう!」
女一人、徒歩で運べる荷物にも限界がある。土井先生のありがたい申し出にさくらは満面の笑みで頷いた。
「それじゃあ、行こうか」
さくらの返答を聞いて、土井先生は自然とさくらの手を握った。さくらも自然とそれを受け入れて、街へと繰り出した。
忍術学園を離れて、生活は一変した。この時代の生き方に染まっていくこともそうだが、土井先生との関係もより深くなって来たように思う。二日と空けずに顔を見せに来ては、小さな用事を済ませて、さくらの長屋で二人でお茶を飲みながら過ごす。短い時間を何度も重ねて、穏やかに、二人の距離が縮まっていた。初めは隣を歩くだけだったのが、今では自然に手を繋いで歩くまでになっている。そんな話を聞けば、「うぶな中学生」のような関係性であるが、私たちにとってはこれくらいの距離の詰めかたがちょうどいいのだと思う。土井先生の十数年の生き様を鑑みれば、体のつながりではなく、彼の心を大切にしたい。
土井先生の一回り大きな手を握り直す。節張って、タコができて、仕事をしてきた人の手だ。
「どうしました?」
土井先生はさくらが自分の手を確かめるように握るのを不思議そうに見つめた。
「やっぱり半助さんの手は大きいなあと、思いまして。」
「あなたの手は小さくて柔らかいですよ。」
土井先生も同じようにさくらの手を握り返す。
そんなことを往来でしていれば、出店の店主たちから黄色い声でなじられるのも時間の問題で。近くの簪を売る男は「お熱いねぇ」と声をかけながら、一番高そうな簪を出しては「奥さんにきっとお似合いだよう」と丸め込もうとしてくる。その近くの花売りは「綺麗な奥さんに、お花はどうかい?旦那?」と大きな花束を作り始めようとする。
これは、まずい。と二人で顔を見合わせると、そそくさとその場を後に、本来の目的の食材や米やらを買い出しをすることにした。買い物をしながら、土井先生の食材の好みや、調味料の好み、そういうものを知りながら、さくらは次に家へ来た時には、土井先生の好みのものを用意しておこうと頭の隅で計画を立てる。多めに作っておけば、帰る時にきり丸へのお土産に持っていってもらえるだろう。
「きり丸は何が好きなんですか?」
「あいつは好き嫌いありませんよ。タダで貰えるものなら泣いて喜びます。」
秋の食材を手に、今日の購入品を吟味する。
「長く持つ方がいいですね。漬物とか…、いや、今は栗ご飯をおにぎりにしたら、バイト先にも持っていけますね。」
「気を遣っていただいてありがとうございます…」
申し訳なさそうに言う土井先生に、さくらは首を横に振った。
「こうして頻繁に連れ出してしまっているんです。栗ご飯がお詫びになるか分かりませんけど、少しでもきり丸のサポートになるのなら、握り飯くらい、いくらでも握りますよ。」
最近は、隣の奥さんに教えてもらって米を上手に炊けるようになったのだ。その成果をお目見えする絶好の機会だ。土井先生は、柔らかく微笑んだ。
「男所帯じゃ、弁当まで頭が回りませんでした。本当にありがたい。」
さくらだけでなく、市場にいる周りの女性たちでさえ、その微笑みに一瞬動きが止まる。無自覚なのか、確信犯なのか。どちらにしても、その破壊力をよく考えてほしい。
色々と買い込んでいけば、気がつくと太陽は随分と西の方へと傾いている。土井先生の片手には嵩張る食料品が抱えられ、さくらの方は負担の少ない食材を片手に抱えている。さて、帰ろうかと言うところで、土井先生がさくらの空いている手を引いた。
「この時間、景色がいい場所があるんです。行ってみませんか?」
オレンジの光を背にまるで土井先生が輝いているような光景。自然と首を縦に振った。
市場を少しでて、近くの神社へと続く長い階段が見えてくる。「あの時」を一瞬思い出されてしまったが、土井先生はそんな気配を全く見せることなく歩を進めていく。階段の中腹あたりに来たところで、土井先生は立ち止まった。「この辺りでいいか」と呟いたところで、荷物を下ろし、後ろを振り返る。さくらもそれに倣って、体の向きを変えた。
「わあ…綺麗。」
眼前には森を抜けた先に、夕陽に照らされた川が、まるで黄金をたたえるようにキラキラと輝いている。
「素敵ですね。」と土井先生のほうへ顔を向ける。すると、嬉しそうな土井先生の顔と向かい合う。景色よりも、さくらの反応を見ていたかのように。そして、本当に嬉しそうに柔らかく微笑んで。
「好きな人と綺麗な景色を共有するって、こんなに嬉しいことなんですね。」
きっと任務とは違い、自分の心からそう思えるようになった。そう言うことなんだろう。
寺の前で横たわる正史丸から手を離した。彼の人生を左右した責任は一生背負っていくものだろう。こうして、人としての温かい気持ちを知るのに、土井先生は長らく時間がかかってしまったのだから。しかし、それと同時に、この人の幸せと思える瞬間に隣にいたいと思う。美しいと思えるもの、幸せと思えるものを共有していきたい。そう言う気持ちもさくらの中で育っていた。清廉潔白な美しい恋心でもなく、複雑で…、だからこそ人を愛すると言うのは、これほど胸をいっぱいにさせるのかもしれない。
さくらは、思わず土井先生の胸元へ飛び込んだ。鍛えられた胸元から、嗅ぎ慣れた匂いがする。土井先生はさくらを受け止めるように背中に腕を回した。
「さくらさん、私は今幸せですよ。あの時、諦めなくて良かったと、この道を進んで良かったのだと、本当に思えてくるんです。」
土井先生にとって、名を捨てて生きること、両親や家臣、そして大切にしていた領民を思って再起しようとしたこと、その様々な選択の中で、「諦め」たくなる場面は何度もあったことだろう。さくらの薄っぺらな「生きろ」という言葉でさえ律儀に守って。優しい正史丸の心を閉ざしてでも生きなければならないことの方が多かったに違いない。そんな苦しい道を、この人は全て飲み込んで、それでも「幸せ」だと。
なんて強い人なんだろう
「あなたが気づかせてくれたんですよ。」
その言葉に顔をあげる。さくらには思い至らないことに、真意を確かめるように土井先生の瞳を見つめた。
「私は全てを失ったと思っていました。忍びとして生きるほかないと、腐っていたんです。しかし、過去の自分に手をかけようとした時、私の手の中には、大切なものがあったのだと。あの子達がいるのだと、気付かせてくれた。」
あの時、必死に紡いだ言葉が、彼の心に残っている。
誰も失いたくない。失わせたくない、と思った言葉が。
「知らぬ間に、私は大切なものをたくさん手にしていたんですね。気付かなければ、きっとまた全て失っていたでしょう。」
土井先生がまっすぐにさくらを見つめる。
「私の元に来てくれて、ありがとう。昔と変わらず優しいあなたが愛おしいんです。あなたと残りの人生を共に歩みたい。ずっと…側にいてくれますか。」
土井先生が、自分と生きることを望んでくれている。
そのまっすぐな瞳が、小さな少年の瞳と重なって見える。今もなお、土井先生の中で生き続ける優しい心が垣間見えた。
「今も昔と変わりませんね。」
「いいえ、私は随分とやさぐれましたよ。」
困ったように眉を寄せる。さくらは首を横に振って否定した。
「誰からも慕われて、優しい人ですよ。今も昔も、変わりません。」
土井先生の頭上には星々が散り始めている。
「半助さん、星が綺麗ですよ。」
そういうと、土井先生は空を見上げた。いつの間にか夕陽は落ち、夜の帷が降りている。赤から藍色へと染まる空で、小さな輝きが広がっていく。
まるで、正史丸と見た星空のように。
満天の星が夜空を彩っていた。
「残りの人生、何度だって一緒に見ましょう。美しい夕日も、輝く星たちも。私も半助さんと嬉しいを共有したいんです。」
互いに見つめあう。
さくらの瞳の中には輝く星々と、幸せそうに甘く見つめる土井先生が映っている。
「好きです。」
土井先生が呟くように告白した。
満天の星の中、見つめ合う二人の距離が縮んでいく。
抱き合う影が一つとなるように重なった。
【了】
さくらのような現代人は、たらいで洗濯をしたこともなければ、火加減をみながら調理をすることもない。そういう意味では「いいところの娘」というのは、あたがち間違いでもないのだろう。下手に取り繕うよりは、と素直に色々聞いていれば、頼られるのが嬉しいのか、長屋の奥様方との距離は近づいて行った。
「さくらちゃん、甕の水は足りてるかい?」
ちょうど井戸汲みをしていた隣の奥さんがさくらに声をかけてくれる。
「ありがとうございます。ちょうど少なくなってたんです。助かります。」
手桶を持って井戸に行けば、奥さんが残りの井戸水を注いでくれる。勢いよく手桶の水が跳ねる。そんな豪快な奥さんだが、独り身のさくらを気にかけて声をかけてくれる、ありがたい存在だ。
「昨日、さつまいもを蒸したんです。沢山作ったのでよかったら持っていってください。」
「ありがとうね。子供達も喜ぶよ。」
奥さんは、にかっと笑顔を向けてくれる。ご近所は持ちつ持たれつ。手桶を家に踵を返すと、人数分のさつまいもを両手に井戸の方へ戻る。すると、子供達も集まってきて、目をキラキラさせながらさくらを待ち構えていた。一年は組より頭ひとつ背が低いだろうか。まだ年端もいかぬ兄妹にそれぞれ手渡してやると、「おいも!」「やったぁ!」と舌足らずな口調で喜んでいる。さくらの方も思わず可愛く思えて、二人の頭を撫でてやった。
土井先生も同じような気持ちなのだろうか。自分を慕ってくれる子供たち。嬉しそうな顔を見れば、こちらも嬉しくなって、笑顔になる。こういう繋がりが、ここで「生きている」のだと実感させてくれる。誰かの記憶の中に、生活の中に自分という存在が残っているという安心感。根無草のような存在の自分が、生きていく場所を見つけられた。
さくらにとってのシナ先生のように。土井先生にとって山田先生は安住の地を与えてくれた、まさに庇護者だろう。さくら自身が天涯孤独の身となり、幼い正史丸の経験の一端を追体験するような形となった。正史丸に比べれば随分と恵まれた環境ではあるが……。しかし、だからこそ人々に慕われる今の土井先生が、いかに困難な道を辿ってやってきたのか。薄氷を踏むように進んできた道が、どれほど危なげなものだったのか、より鮮明に思い至ることとなったのだった。
子供達が芋を頬張るのを眺めていると、見知った姿を目の端にとらえた。隣の奥さんも同じく、土井先生の姿を捉えると、にやにやとさくらの脇腹を小突いた。
「ほうら、良い人がお待ちかねだよ。」
背中を押されるように土井先生の方へ向かわされる。こちらとしても満更ではないので、そのまま土井先生の元へと近付いた。
「こんにちは、半助さん。」
「お邪魔だったかな?」
こちらと隣の奥さんを交互に見遣る。後ろにいる奥さんは「いーえ!全然!」と満面の笑みで顔を横に振っている。
「お買い物ですか?」
「ああ、さくらさんも行かないかい?荷物は私が持つから米や重たいものも買い置きをどうかと思ってね。」
「ありがたいです!行きましょう!」
女一人、徒歩で運べる荷物にも限界がある。土井先生のありがたい申し出にさくらは満面の笑みで頷いた。
「それじゃあ、行こうか」
さくらの返答を聞いて、土井先生は自然とさくらの手を握った。さくらも自然とそれを受け入れて、街へと繰り出した。
忍術学園を離れて、生活は一変した。この時代の生き方に染まっていくこともそうだが、土井先生との関係もより深くなって来たように思う。二日と空けずに顔を見せに来ては、小さな用事を済ませて、さくらの長屋で二人でお茶を飲みながら過ごす。短い時間を何度も重ねて、穏やかに、二人の距離が縮まっていた。初めは隣を歩くだけだったのが、今では自然に手を繋いで歩くまでになっている。そんな話を聞けば、「うぶな中学生」のような関係性であるが、私たちにとってはこれくらいの距離の詰めかたがちょうどいいのだと思う。土井先生の十数年の生き様を鑑みれば、体のつながりではなく、彼の心を大切にしたい。
土井先生の一回り大きな手を握り直す。節張って、タコができて、仕事をしてきた人の手だ。
「どうしました?」
土井先生はさくらが自分の手を確かめるように握るのを不思議そうに見つめた。
「やっぱり半助さんの手は大きいなあと、思いまして。」
「あなたの手は小さくて柔らかいですよ。」
土井先生も同じようにさくらの手を握り返す。
そんなことを往来でしていれば、出店の店主たちから黄色い声でなじられるのも時間の問題で。近くの簪を売る男は「お熱いねぇ」と声をかけながら、一番高そうな簪を出しては「奥さんにきっとお似合いだよう」と丸め込もうとしてくる。その近くの花売りは「綺麗な奥さんに、お花はどうかい?旦那?」と大きな花束を作り始めようとする。
これは、まずい。と二人で顔を見合わせると、そそくさとその場を後に、本来の目的の食材や米やらを買い出しをすることにした。買い物をしながら、土井先生の食材の好みや、調味料の好み、そういうものを知りながら、さくらは次に家へ来た時には、土井先生の好みのものを用意しておこうと頭の隅で計画を立てる。多めに作っておけば、帰る時にきり丸へのお土産に持っていってもらえるだろう。
「きり丸は何が好きなんですか?」
「あいつは好き嫌いありませんよ。タダで貰えるものなら泣いて喜びます。」
秋の食材を手に、今日の購入品を吟味する。
「長く持つ方がいいですね。漬物とか…、いや、今は栗ご飯をおにぎりにしたら、バイト先にも持っていけますね。」
「気を遣っていただいてありがとうございます…」
申し訳なさそうに言う土井先生に、さくらは首を横に振った。
「こうして頻繁に連れ出してしまっているんです。栗ご飯がお詫びになるか分かりませんけど、少しでもきり丸のサポートになるのなら、握り飯くらい、いくらでも握りますよ。」
最近は、隣の奥さんに教えてもらって米を上手に炊けるようになったのだ。その成果をお目見えする絶好の機会だ。土井先生は、柔らかく微笑んだ。
「男所帯じゃ、弁当まで頭が回りませんでした。本当にありがたい。」
さくらだけでなく、市場にいる周りの女性たちでさえ、その微笑みに一瞬動きが止まる。無自覚なのか、確信犯なのか。どちらにしても、その破壊力をよく考えてほしい。
色々と買い込んでいけば、気がつくと太陽は随分と西の方へと傾いている。土井先生の片手には嵩張る食料品が抱えられ、さくらの方は負担の少ない食材を片手に抱えている。さて、帰ろうかと言うところで、土井先生がさくらの空いている手を引いた。
「この時間、景色がいい場所があるんです。行ってみませんか?」
オレンジの光を背にまるで土井先生が輝いているような光景。自然と首を縦に振った。
市場を少しでて、近くの神社へと続く長い階段が見えてくる。「あの時」を一瞬思い出されてしまったが、土井先生はそんな気配を全く見せることなく歩を進めていく。階段の中腹あたりに来たところで、土井先生は立ち止まった。「この辺りでいいか」と呟いたところで、荷物を下ろし、後ろを振り返る。さくらもそれに倣って、体の向きを変えた。
「わあ…綺麗。」
眼前には森を抜けた先に、夕陽に照らされた川が、まるで黄金をたたえるようにキラキラと輝いている。
「素敵ですね。」と土井先生のほうへ顔を向ける。すると、嬉しそうな土井先生の顔と向かい合う。景色よりも、さくらの反応を見ていたかのように。そして、本当に嬉しそうに柔らかく微笑んで。
「好きな人と綺麗な景色を共有するって、こんなに嬉しいことなんですね。」
きっと任務とは違い、自分の心からそう思えるようになった。そう言うことなんだろう。
寺の前で横たわる正史丸から手を離した。彼の人生を左右した責任は一生背負っていくものだろう。こうして、人としての温かい気持ちを知るのに、土井先生は長らく時間がかかってしまったのだから。しかし、それと同時に、この人の幸せと思える瞬間に隣にいたいと思う。美しいと思えるもの、幸せと思えるものを共有していきたい。そう言う気持ちもさくらの中で育っていた。清廉潔白な美しい恋心でもなく、複雑で…、だからこそ人を愛すると言うのは、これほど胸をいっぱいにさせるのかもしれない。
さくらは、思わず土井先生の胸元へ飛び込んだ。鍛えられた胸元から、嗅ぎ慣れた匂いがする。土井先生はさくらを受け止めるように背中に腕を回した。
「さくらさん、私は今幸せですよ。あの時、諦めなくて良かったと、この道を進んで良かったのだと、本当に思えてくるんです。」
土井先生にとって、名を捨てて生きること、両親や家臣、そして大切にしていた領民を思って再起しようとしたこと、その様々な選択の中で、「諦め」たくなる場面は何度もあったことだろう。さくらの薄っぺらな「生きろ」という言葉でさえ律儀に守って。優しい正史丸の心を閉ざしてでも生きなければならないことの方が多かったに違いない。そんな苦しい道を、この人は全て飲み込んで、それでも「幸せ」だと。
なんて強い人なんだろう
「あなたが気づかせてくれたんですよ。」
その言葉に顔をあげる。さくらには思い至らないことに、真意を確かめるように土井先生の瞳を見つめた。
「私は全てを失ったと思っていました。忍びとして生きるほかないと、腐っていたんです。しかし、過去の自分に手をかけようとした時、私の手の中には、大切なものがあったのだと。あの子達がいるのだと、気付かせてくれた。」
あの時、必死に紡いだ言葉が、彼の心に残っている。
誰も失いたくない。失わせたくない、と思った言葉が。
「知らぬ間に、私は大切なものをたくさん手にしていたんですね。気付かなければ、きっとまた全て失っていたでしょう。」
土井先生がまっすぐにさくらを見つめる。
「私の元に来てくれて、ありがとう。昔と変わらず優しいあなたが愛おしいんです。あなたと残りの人生を共に歩みたい。ずっと…側にいてくれますか。」
土井先生が、自分と生きることを望んでくれている。
そのまっすぐな瞳が、小さな少年の瞳と重なって見える。今もなお、土井先生の中で生き続ける優しい心が垣間見えた。
「今も昔と変わりませんね。」
「いいえ、私は随分とやさぐれましたよ。」
困ったように眉を寄せる。さくらは首を横に振って否定した。
「誰からも慕われて、優しい人ですよ。今も昔も、変わりません。」
土井先生の頭上には星々が散り始めている。
「半助さん、星が綺麗ですよ。」
そういうと、土井先生は空を見上げた。いつの間にか夕陽は落ち、夜の帷が降りている。赤から藍色へと染まる空で、小さな輝きが広がっていく。
まるで、正史丸と見た星空のように。
満天の星が夜空を彩っていた。
「残りの人生、何度だって一緒に見ましょう。美しい夕日も、輝く星たちも。私も半助さんと嬉しいを共有したいんです。」
互いに見つめあう。
さくらの瞳の中には輝く星々と、幸せそうに甘く見つめる土井先生が映っている。
「好きです。」
土井先生が呟くように告白した。
満天の星の中、見つめ合う二人の距離が縮んでいく。
抱き合う影が一つとなるように重なった。
【了】
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