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正義の定義 第1章

 
 近くで犬が吠えた。いつもの音。いつもの日常。朝が来るたびに聞こえる鳴き声だ。
 のそりと重たい身体を起こす。辺りを見ればまだ他の子どもたちは寝ていた。
 起こさないように立ち上がり部屋を出る。とんとんとまな板を叩く音が聞こえた。
『……いい匂い』
 誘われるように台所へと足を運ぶ。
「おはよう、アリスちゃん」
 良く寝れたかと、台所の主はコンロの火を消しながら聞いた。
『……微妙』
「みたいね」
 朝から疲れきった顔を見て苦笑する。アリスは人数分の皿を出した。
「今日はあなたにとって大事な日よ」
『……うん』
 わかっているがやはりあまり気が乗らない。

 ここはとある孤児院。
 10人ほどの子どもたちが住んでいる。アリスがその一番上。今日で13歳になるのだ。
 アリスは今日から新しい家族のもとへ行く。
『……ペットじゃないんだから』
 かつて自分よりも年上の孤児たちが運よく引き取られて行ったのを見て思った。現在彼女は中学生。その意味も理解した。
 それでも慣れ親しんだ院から離れるのも大好きな院長と別れるのも辛い。
 __一体どんな人だろうか__
 新しい親となる男には子供もおらず、妻を早くに亡くしたと聞いている。随分前に院に訪れた時にアリスを見て気に入ったという。
(覚えてないけどな……)
 会った覚えはないが男はそれから院長と話し合い、ようやく里親の取り決めが行われた。
(私が暴れるとでも思ったんだろうなあ……)
 渋っていた院長がやっと許可を出したのだ。事実、この話を伝えに来た時の顔は忘れられない。
 考えれば考えるほどだるくなる。
 まずは会ってみよう。それでも嫌だったらそれこそ暴れてやればいいのだから。


 日も高くなり、約束の時間。
 犬が吠える。来客の合図だ。なにやら忙しなくなる院内。
 アリスもそわそわと落ち着かない。その様子を心配そうに見る子どもたち。
『……こっち見るな。外で遊んでこい』
 なにやら騒ぐ彼らの背中を押して部屋から追い出した。
(面白がりやがって)
 自分も人のことは言えないが子供は嫌いだった。時々うっとおしい。
 父を知らず、母も知らない。本名も誕生日さえ本当かもわからない。
 幼いころの記憶は院長の優しい声と笑顔だけ。
「アリスちゃん」
 ハッとして現実に引き戻される。もう一度名前を呼ばれて来客用の部屋に入った。

「はじめまして、アリス」

『……どうも』

 律儀に立ち上がり頭を下げた初老の紳士。
(この人が……)
 身に着けているものも立ち居振る舞いもアリスの住む世界とは縁遠い。
「どうぞお座りください」
 院長に促され再びソファーに座る男性。
『……』
「それでこの子の学校は……」
「……屋敷から少し離れた……」
 二人の話はあまり耳に入らなかった。いよいよなのだ。
(私は、この人の娘として生きるのだ……)
 __こうしてアリスは、養父ワンダーランド氏に養女として引き取られる。

 ワンダーランド・クリス氏。
 ワンダーランド家は関東地方を代表する富豪。だが彼は家庭には恵まれなかった。
 かつての彼は仕事を優先して当時の妻をないがしろにしていた。結果、妻は病死。そして二人の間に子供はいない。
 新しく妻を娶ることをよしとしなかった彼は、後継ぎを探して全国の孤児院などを巡り、自分の家や財産、仕事を相続させるに値する子供を探した。
 そして見つけたのだ。優しく賢い、聡明な娘を。
 結果として彼の選択は間違いではなかったといえよう。

 ただただ純粋で、愚かで誠実で。悪辣で自分を偽り騙ることしかできない彼らの甘く苦い、青春の物語。

 必死にもがき苦しみ時として喜びを分かち合う。不器用で無器用な、どこにでもいる普通の彼らの噺。

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