蝶の見る楽園 3.


 かなりきつく腕の中に入れると、ぐすっと鼻を啜った勇作が「あにさま……?」そう涙声で呼んできたのでなるべく優しい声色で呼び返してやる。
「勇作殿。俺は……やまねっ……あっ!!」
 言葉を言い終わる前に、いきなり頬に衝撃が走り顔が勝手に横を向く。
 そこで顔を叩かれたことを知り、思わず頬に手を当てるとじんじんとした痛みが襲い掛かってくる。
「ゆうさく……?」
「兄様が悪い!! 私が居るのに他の人と寝る兄様が全部悪いっ!! それは私は兄様に好かれていないことくらい知っていたけれど、でもそれにしてもひどい!! ひどい、ひどいひどい!! そんなに私が躍るのが滑稽でしたか!! 私が兄様のことを好きなのがそんなにっ……疎ましいですかっ……」
「ちがっ……!!」
「聞きたくないっ! もうなにも兄様からは聞きたくありません!! 兄様はいつも大切なことを伝えてくれない。いつだってそうだっ……!! 私には兄様だけなのに兄様はそうじゃない。それが、とてつもなく悲しくて、淋しいっ……!! こんな想いを抱かせる、兄様がきらいだっ……!! 大っ嫌いだ!! もう、兄様なんて知らない。私の中から、消えてっ……!!」
 あまりの迫力に黙ってしまうと、尾形の首に勇作の燃えるような手が絡み、ぎゅうっと喉仏が両の親指で軽く潰される。
「っ……!! ゆうさく、ど、のっ……!!」
「死んで……死んでください。そして、死んで私のモノになってください兄様。私の手で死んだら、兄様は永遠に私のモノだっ……!!」
 涙を零しながら美麗な顔に薄笑いを浮かべている勇作には言われも知れない迫力があり、本気で絞め殺そうとしているのが分かったが、尾形は抵抗を止めた。
 勇作の手にかかるのであれば、それはそれで幸せかもしれないと、そう思ったのだ。何もかもを手放して勇作に身を委ねれば、葛藤も苦しみも、そして虚しい野望も目の前から消えて無くなる。
 死ぬには少し惜しい気もするが、これで終わっても構わない。そういう生き方をしてきたのだから、最期くらい愛する勇作の手で終わっても、幸せだと思えるのかもしれない。
 尾形は両手を投げ出し、わざと首を差し出すように少し反らせて目を瞑ると、ぽたぽたぽたぽたっと身体に水滴が落ちる感触がして、勇作が泣いていることを知る。
「何故、諦めるんです……!! どうして諦めてしまうのですか!!」
 ぐっと親指に力が入り、喉仏が押されて呼吸が苦しくなるが、尾形は少し笑ってみせ、片手を上げて勇作の頬に手を伸ばして濡れた頬を包み込み、親指の腹で優しくすりすりと撫でてやる。
「……殺したいのでしょう? どうぞ、勇作殿の手にかかるなら本望です。俺は少し疲れました。楽に、なりたい……」
 そう言って目を細め、自由になっているもう片方の手を勇作の手に重ね、そして擦る。
 すると、勇作の眼が大きく見開き、美麗な顔をひどく歪ませて大粒の涙を零し始めた。
「なんでっ……どうしてそんな簡単に諦めてしまうんですっ……!! あにさまっ……!!」
「言ったでしょう。とても疲れているんです。……もうずっと、疲れていて……勇作殿に殺してもらえるならそれもいいかなと、ふっと思ってしまって」
 目を瞑りながらそう言って微笑むと何故か目頭が熱くなり、重力に従ってこめかみを伝い涙が流れ落ちていくのが分かった。
「さあ、勇作殿いまです。この手に、力を籠めて……俺を、殺してください。今しかありませんよ、勇作殿、ほら早く」
 少しずつ勇作の手に力が籠められていく。
 これで、何もかもから解放される。尾形を取り囲むすべてのものから、逃れることができる。他でもない、勇作の手によって。
 なんていう幸福だろうか。もはや、未練もなにもない。生き残った勇作には、幸せになってもらって自分の分まで生きてもらえばいい。
 息苦しいながらも大きく息を吐く。これで、生まれてきた意味を問うこともしなくて済む。さよならだ。
 首を絞めつける手の力はさらに強くなり、呼吸するのがかなり難しくなって顔に熱が集まるのが分かった。
 ほんの少し、苦しいだけだ。
 だがしかし涙は流れ続けていて、未だ未練があるのかと自分の心に問うたところだった。急に手の力が緩み、それと同時に急に肺に空気が満たされたことにより思わず激しく噎せ込むと、尾形の身体を包み込むように勇作が大泣きしながら縋ってくる。
「いやだぁっ!! あにさま、兄様いやだっ!! 諦めないで、そんな簡単に自分の命を手放さないでください!! 誰よりも大切な兄様を殺すなんて、できないっ……そんなことできないことくらい分かってください!! 分かってください兄様!!」
 勇作は激しく息を吐きながら涙を零しているようで、それにつられるよう尾形の眼からも大量の涙が溢れてくる。
「げほっ、かはっ!! はあっはあっ、はっはっ、ゆう、さく、どのっ……!!」
「一緒に生きていきましょう。私は兄様とだったら生きていける。寧ろ、兄様が居ないと私はどうしたらいいのか分からない。何処を見ていていいのか、分からないんです……!! 私には、兄様が必要です。兄様が兄様であることが、私は嬉しいです。だから……どうか、諦めないでください。兄様は、独りしか居ないのですよ? そんな兄様を自分の手で殺そうなんてそんなこと……できない」
「ゆうさく、どの……」
「独りで生きられないなら、私が居ます。兄様の傍には私が居る。私では、足りませんか。兄様の助けにはなれませんか。どうか、生きて、生きて、生きて生き抜いてください。私が、傍に居ます。兄様の手を握って、歩いて行きますから。だから、もし戦争が始まって例えば私が死んでも、兄様は生きてくださいね。……約束です。破ってはいけない、約束ですよ」
 そう言って顔を上げた勇作の顔にはもう悲壮感はなく、頬を涙でびしょ濡れにしながら微笑んでいて、尾形も同じく笑顔を浮かべて頷くと、美麗な顔が近づいてくる。
 反射で眼を閉じると、ふわっとした感触が唇に拡がり、柔らかなソレにまた涙を滲ませてしまう。
 その涙は間違いなく、尾形が今まで生きてきて流した涙とは違う、芯からの幸福の涙だろう。
 この時がいつまでも続けばいい、そう思いながらはらはらと涙は零れる。
 勇作を想う切なく甘い気持ちと共に。
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