空を泳ぐ鯨 3.
タクシーを拾ってもよかったが、何となく歩きたい気分だ。天気はよく、雲一つない空が拡がっている。その青空を見上げ、そういえば昨日の夜、寝る前に今日は晴れたらいいと思って眠りについたことを思い出す。
晴れていたって、曇っていたってやることは同じだ。人殺しだ。
結局、尾形は飲食店に寄ることはせず、真っ直ぐ帰宅した。仕事モードに入ると食欲が途端に失せる。本当はなにか食べた方がいいのだろうが、どうしてもそんな気分にならない。
こういう時は、温かなミルクがいい。先ほどコンビニで仕入れてきたことだし、銃の手入れが済んだら早速飲もう。
そう決めて、両隣三軒のうちの住まいとして使っていない裏口から上がって、そこからは自宅の居間の押し入れの中に通じているためそこから出てくるといつもの自宅の居間が拡がっていて何となく落ち着く気分になる。
靴を脱ぎ、玄関に置いて懐に忍ばせておいた拳銃を取り出してテーブルの上へと置き、コートを脱いで座布団に腰を下ろす。
昨日から今日まで、本当にいろいろなことがあった。弟と名乗る勇作に出会い、恋に落ちて抱き合って今は、こうして殺しの準備をしようとしている。
一年分の出来事が昨日と今日に凝縮されたような気分だ。頭がついていかない。混乱を重ねるが、とにかく今は拳銃の手入れだ。
不思議と、銃に手を入れている時間だけは無でいられる。それを利用し、一旦落ち着かなければならない。今は浮足立っている場合ではないのだ。
立ち上がって台所へ行き、水を一杯だけ一気飲みしてから早速、手入れの道具を取り出して一丁ずつ、掃除を兼ねたメンテナンスを始める。
集中する作業なので、時間が過ぎるのはあっという間だ。気づけば外は午後の陽が入っており、ともすれば夕方とも取れる時間帯になっていることに気づき、徐に腰を上げて冷蔵庫へ行きミルクを取り出す。
家に一つしかないマグにミルクを満たし電子レンジにかけているその間、考えるのは勇作と交わしたキスのことだった。
あんなに柔らかで甘い唇に出会ったのは初めてで、優しいあの感触が恋しい。尾形の唇に触れるたび、どことない官能の味がしてキスされると頭の中が一瞬飛ぶ。あの感覚が忘れられない。
自分が自分でなくなってしまうような、少し怖いけれどあの甘い口づけを今すぐにでも勇作と交わしたい。
優しい眼をしていた。あの瞳に見つめられるだけで身体が熱くなる。触れたい。けれど、触れられない。この場に勇作は居ない。
そのことがやけに淋しく、心にぽっかりと穴が空いたような気分だ。たった一晩過ごしただけでこんなになるとは思いもしなかった。
これが、恋というものなのだろうか。人を好きになるというのは、こういうことなのか。だとしたら、なんて恐ろしい感情だろう。
勇作の姿が見えないだけでこんなに不安になるなんて聞いていない。
自分のその心のうちに動揺していると、いきなり電子音が鳴り響きミルクが温まったことを知らせてくれる。
そこで思考は一旦中断され、温まったミルクに少しでもいいから栄養をと砂糖を大目に入れて掻き混ぜ、居間へと運ぶ。
陽が短くなってきた。もうすぐ冬がやってくる。
温かく甘いミルクを啜りながら、尾形は意味もなく窓の外を眺める。なんの音も聞こえない。静寂な世界が拡がっている。
ただこの平穏な時が仮初めであることは知っている。平穏と人殺し、その両方を行ったり来たりしている尾形にとって、こういったぽっかりと空いた時間などがあるとどうしても戸惑ってしまう。
今さら陽の当たる場所へ出ようとは思わなくなった。何もかもが遅すぎる。殺しの仕事は捨てられない。自分が生きていくために、自分で選択した道だ。
思えば母親を自分の手で殺したことからすべてが始まったが、それの元を辿れば勇作さえ生まれなければきっと、違う道もあっただろう。母親が狂うことも無く、もっと明るい道もあったはず。
けれど、勇作と出会えたことに関しては否定したくない。
昨日の晩のあの幸せな時間、もう一度でいいから味わいたい。勇作の熱を感じたい。熱い唇に口づけて、唾液を啜り飲みたい。
そこまで考えてふと、自分のその思考が如何に助平なものか思い知り、思わず額に手を当ててしまう。
性欲は元から強い方だが、それが弟相手でも発揮されるとは。もう終わっている。敵の弟に恋情を抱くところでもう終わっているのだが、それでもと思ってしまう自分が止められないし、止めたくない。
勇作を愛したい。
その答えをキッパリ出したところでちょうどミルクが無くなり、尾形は徐に腰を上げて風呂場へと向かい、湯と水の蛇口を両方捻った。
ゆっくりと熱い風呂にでも浸って、頭と身体を落ち着かせたい。そしてひと眠りしたら出かける時間にはなるだろう。
尾形はターゲットの写真を取り出し、記憶の根に沁み込ませるようにじっと、その顔を見つめ続けるのだった。
大体風呂の湯が満ちる時間は分かっているので、居間から服を脱ぎ出して点々と廊下に服が散乱し、肌の露出が多くなって遂に風呂場に着く頃には全裸と化していて、ガラス戸を開けるとカビくさいにおいが鼻をつくが構わずシャワーを浴びようと自分の身体を見ると、両乳首とも未だ真っ赤に色づいていて、ぽつんとした乳首は噛まれ過ぎて倍近くまで腫れ上がっており、血が少し滲んでいる。
勇作に愛された痕が、ここにも色濃く残っている。心だけでなく、身体にまで散らされた愛撫の痕は尾形の心にぽつんと染みを作り、だんだんと拡がっていくそれは欲情だったが、今からオナニーする気にもなれず、性欲を抑えながらシャワーを頭から浴びると傷ついた乳首が湯に当たって痛い。
勇作といる時はそんなことを思わなかったが、独りになった途端これだ。たった一晩で、勇作は尾形の心を犯したのだ。犯して、そして殺した。
もう独りの生活に戻ることはできない。勇作に傍に居て欲しい、そして笑っていて欲しい。
詮無い欲望ばかりが頭を擡げ、がしがしっと顔を擦って大きな溜息を漏らす。
ばかなことだと思う。人殺しが一人前に幸せになる夢など、あっていいはずがない。独りで居なければならないのだ、殺し屋というものは。
無邪気に笑う勇作の顔が脳裏に浮かぶ。あんなきれいな夢など、見てはいけない。所詮は居る世界が違う人間。尾形の手には届かないほどに明るい未来がある青年を引き摺り込んではいけない。
そこでふと、鯉登と月島のことを思い出した。心底に惹かれ合っているであろう二人は幸せそうで、あの二人にはあんな幸福があって、何故自分には無いのだろう。
ふとした疑問だがすぐに解消された。
というのも、鯉登と月島は居る場所が同じなのだ。鯉登は月島が殺し屋だということを承知して愛しているし、愛し合ってもいて同棲もしている。
だが、勇作に殺しのことは知られたくない。失望されたくない。だったらもう、二度と逢わない方がいいのではないかと思ってしまう。