空を泳ぐ鯨 3.
しかしこの中途半端な体勢は気になる。腕を振るが離してもらえず、口づけは深さを増していくばかりだ。
咥内に舌が入り込み、ゆるゆるとナカを舐められちゅばっと音を立てて吸われる。昨日から通算、何度キスしているのだろう。だからこんなに上手くなったのか、不思議に思うところだ。
諦めて尾形からも舌を伸ばし勇作の咥内へ舌を入れ込んだその時、急な電子音が響き渡り、思わずいつもの癖で身構えてしまうとそれは家に着いている固定電話の音で、この電話が鳴る時の用はもう分かり切っている。
鶴見から斡旋される仕事の依頼だ。
勇作も驚いているようで両手で掴んでいた尾形の手を離したのでそのまま離れ、電話に向かい受話器を取った。
「……はい」
「尾形だな? 山猫に仕事だ。急な依頼が入ってしまって、ぜひとも山猫に頼みたい。お前は殺しのオールマイティだからなんでも頼める。……すぐに店に来い」
「了解です、ボス」
やはり鶴見からの電話だった。急ぎの仕事ということは、今晩にでも出動せねばならないかもしれない。
尾形は振り向かず、電話に向かったまま静かに言葉を声に乗せた。
「……勇作殿。仕事が入りました。俺は、今から出かけなければなりません。だから、今日はもう……。帰り道が分からないのなら送って行きます。だから、今日は……」
「あ……仕事なら仕方ありませんね。あの、帰ります。邪魔したくないし……でも、帰り道がよく分からなくて……」
「送りましょう」
たったそれだけを言い、立ち上がろうとすると急に腕を引かれてしまいぽすんっと勇作の腕の中に入ってしまう。
「っ、勇作殿!」
「なんて、名残り惜しい……!! 未だ、兄様と居たい。あにさまのかおりを嗅いでいたい……同じ部屋の空気を吸っていたい。一緒に居たい……」
まるで搾り出すようにしてそれだけを言い、ぐいぐいと抱きしめてくる腕の中で尾形は一度硬く目を瞑り、無理やり眼を開いて、そっと勇作の身体を押した。
「勇作殿……いけません」
「分かってます。兄様には兄様の生活があって、仕事があります。それを邪魔する気は無いのですがでも、ただただ、名残り惜しくてたまらなくて。ごめんなさい、困らせるつもりはありません。だから……帰りますね」
そう言いつつも尾形を放そうとしない勇作に、少しの溜息が出る。
ここまで欲しがられたことが無い尾形にとって勇作のこの独占欲に似た執着心というのは、受け取って嬉しくないはずがない。だから困るのだ。無碍にも振り解けず、時間だけが過ぎていく。
「……離してください勇作殿。行かないと……上司に怒られます。いやでしょう、俺が怒られるのは。ほら、行きましょう」
「兄様、一つだけおねがいがあります。あの……電話番号、メアドでもいい。連絡先を教えてくれませんか。ラインのIDでもいいから、兄様と繋がっていたい。少しでもいいから傍に居られる方法があれば、私にチャンスをください」
「俺はスマホは持っていません。固定電話の番号は……」
逡巡する尾形だ。ここの番号はもちろん、誰にも教えてはならないものだ。そう鶴見に言いつけられている。だが、尾形にスマートフォンを持つ権利は与えられていない。どころか、何も自由にはならないのが現状だ。
だが、勇作にだけは教えておきたい。それがどれだけのリスクを背負うかは分からないが、一つの特別くらい作りたい。
「番号を言います。その代わり、俺だと分かるような名前の登録は止めてください。でなければ、教えない」
「いいですが……それは、どうして?」
「そうやって聞くのも反則です。本来、電話番号を教えることすら許されていないのですから……」
戸惑っている様子の勇作だが、上着のポケットからスマートフォンを取り出したので早速番号を言い渡したことで漸く、勇作も踏ん切りがついたのか一度だけぎゅっと尾形を抱きしめて額に一つ、ちゅっと口づけを落としてから玄関に向かっている。
尾形も後を追って自宅から出て施錠だけはしっかりと忘れずに。
そしてもと来た道を戻り始める。
その間、二人の間に言葉はなくただ少しの間離れるだけのその感傷に浸るのみだ。どうしても、仕事はこなさなければならないのだから。
くねくねと曲がった道順の集合住宅から抜け出すと、ホッと勇作が小さく息を吐いたのが分かった。それは、溜息なのか安堵の吐息なのか分からないまま、尾形は通りに向かって歩き出す。
とにかく勇作をタクシーに乗せてこの場から遠ざけねばならない。
黙って歩き出すとすぐにでも隣に勇作が並び、そっと手に包帯を巻いた手が絡まり、きゅっと握られる。
その手の温みを感じながら、尾形は無言で歩きそして通りに出る。
「タクシーを捕まえますから。あなたはそれに乗って帰ってください。間違えても、俺を尾行しようなんて思わないでくださいね。念のため言っておきますが。本来なら俺の生活には、誰も干渉してはならないのです。けれど、勇作殿だけは特別と思ってここまで連れてきました。その俺の気持ちも考えて、どうか今日はこのまま帰ってください」
そう言って頭を下げると、さっと腕が伸びてきてぎゅっと抱かれてしまい、その熱い抱擁に何故だか涙が滲み出てくる。
「……分かりました。帰ります。あの、兄様。また、逢えますよね。絶対に、逢えますよね?」
尾形は無理やり勇作の腕の中から抜け出し、思い切り笑んでやる。
「もちろん、逢えます。もう突き放したりなんてしない。あなたは俺が護ると決めましたから。だから、今日は帰ってください」
「はいっ……帰ります。兄様がくれた傷薬も、ちゃんと塗りますね。忘れずに、塗ります」
尾形はそれに笑みで返事をして、ちょうどやってきたタクシーに向かって手を上げ、路肩に止めさせて勇作を車に突っ込むようにして乗り込ませ、また笑顔を見せた。
「あ、兄様っ……! 兄様の仕事って、一体……」
「掃除人です」
笑顔でそれだけを言って、ドアを閉めるとタクシーはそのまま走り去って行き、角を曲がって見えなくなった。
そして尾形は静かに、無垢な笑顔から殺し屋の顔へと戻って行った。