空を泳ぐ鯨 3.


 注射は定期的に打たれているようでそれとはまたべつに、点滴もされているようで覚束ない意識の中、尾形はずっと昔の夢を見ていた。
 あれはアメリカで生活していた頃のこと、殺しの仕事にもだいぶ慣れ、油断が芽生え始めていた、そんなある日のことだった。
 今回のように、男だけを殺すつもりだったが女に見られてしまい、一瞬殺そうと思ったがフランクの教えで女と子どもは殺すなと言われていたので逃がした。
 すると、どうやら他の殺し屋が女に眼をつけ、尾形が失敗した所為だというこじつけで死ぬことよりもつらい目に遭わされ、その女はそれが原因で精神的に追い込まれて自死した。
 そしてその時に誓ったはずだ。仕事に対して決して手は抜かないと。誓ったはずなのに一体、これはどういうことなのだろう。
 あの時に流した後悔の涙の味を忘れたとでもいうのか。
 二度も同じ過ちを繰り返すなど、プロとして恥晒しもいいところだ。こんなことではこの先、生き残ってはいけない。失敗を続ければ、いずれ邪魔になった尾形は鶴見に消されるだろう。
 もっと冷酷にならなければならない。フランクの教えも無視し、女も子どもも殺せるような、そんな殺し屋にならないと生きてはいけない。
 女の悲鳴が聞こえた気がして眼を開けると、薄ぼんやりと眼に入ってきたのはまた違った天井で、どうやら失禁してしまったらしい。今はソファに寝かされていてペニスには尿管が差し込まれており、身体にかかっているのは暖かなブランケットだった。
「ん……」
 眼の前に誰かがいるような気がして小さく声を上げるとどうやら、鯉登が点滴の中身を替えに来たらしい。
「目が覚めたか。気分はどうだ? まあ……最低だろうが。この待遇は月島に感謝しろよ。彼も一度ここに入ったことがあると言っていたが、それはかなり精神的に堪えるものらしいな。だからせめて、尾形には優しくしたいとの願いだ。目が覚めたら礼を言っておけ。さ、点滴の中身は替えた。今度はもう少し楽になるはずだ。これも、お前を思ってのことだからな。私にも礼を言え」
 尾形は腕を上げ、震える手で手を動かしている鯉登の手を握り、搾り出すようにして言葉を口に乗せる。
「うさみに……女は、楽に殺してやれと、どうかっ……つた、え、て……」
 鯉登が微かに「もう伝えてある」と言った言葉を遠くで聞いた尾形の意識はまた、暗闇へと向かう。そして、真っ暗な闇の中へと消えていくのだった。
 次に目が覚めたのは誰かがごそごそと動く音で、重たい瞼を開くとそこには月島と鯉登が居たが、眼の前に尾形がいるというのに何を思ったか盛っており、鯉登の手がしきりに月島のはだけた服から見える肌に這っている。
「や、ちょっ……! 尾形がいるんですよ! ここではっ……!!」
「ヤツは今は寝てる。それより、月島お前、いいにおいするな。相変わらず、欲情を呼ぶにおいだ……愛しい月島。好きだっ……!」
「音之進っ……はあっ、あっあっ、待っ」
 何をしているんだと呆れつつも、だんだんとそれが自分と勇作の姿に重なり、思わず手を伸ばしてしまう。
「ゆ、さく……ゆう、さくっ……」
 二人は尾形の声で正気に戻ったようでこちらをじっと見つめてくる。何だか、涙が滲んでくる。
 勇作に逢いたい。
 涙は重力に従って目頭から鼻に零れ、そしてソファに零れていく。
「尾形……」
「ゆう、さく、ゆうさくっ……ゆ、さくっ……」
 脳裏で鮮やかに勇作が笑う。あの笑顔に逢いたい。逢って抱きしめてキスをして、そしてまた熱く抱き合いたい。あの熱が欲しい。
 ぐすぐすと鼻を啜りながら名を呼び続けると、二人は身体を離し鯉登が身体を起こしてくれ、優しく抱いてくれる。月島は腰回りにしがみつく形で抱いてくれ、ぽんぽんと背を叩かれる。
「勇作が誰かは知らんが、もうすぐに片はつくだろう。そうすれば、お前はまたいつもの生活に戻れる。なに、勇作のことはボスには黙っていてやるから安心しろ」
「逢いたい……」
「すぐだ、すぐに逢える。頑張れ、尾形」
 そう言ったのは月島で、また意識が薄ぼんやりとしてくるのが分かった。そして、いつもの暗闇へと向かう。
 そしてまた、後悔の夢を見るのだ。二度と同じ轍は踏まないと決めたのに踏んだ、後悔の海へと身を投げた。
 それから一体、どれくらい時が経ったのかハッと目を覚ますと、そこはソファの上で未だ身体が気怠く、意識もあまりハッキリとはしないが少しクリアになった頭を抱えて身体を起こすと、ソファの下には着ていた服が置いてあり、足枷も無ければ尿管も抜かれていてやっと自由になったことを知る。
 ということは、宇佐美が請け負った女の始末がついたということになる。
 頭を抱えたくなるが、とにかく服が着たい。全裸というのは落ち着かない気分にさせられる。それも狙いなのだろうが。
 重たい身体を起こして服を身に着けていると、徐に扉が開いて入ってきたのは鯉登で、大きめのマグが手に持たれている。
「起きたか。どうだ、気分は。あまり良くないだろうが、これを飲め。ブドウ糖をたっぷり溶かしこんである経口補水液の温めたものだ。暫く食事を摂っていなかったからな。これを飲んで、まずは胃を動かすことを考えろ。生きて行かなくてはならない。お前は、殺された女の分もな。ほら、マグを受け取れ」
 尾形は重い手を上げてマグを両手で受け取り、湯気を立てるそれをゆっくりと飲み下していく。決して美味いものではないのに、何故かひどく美味く感じ夢中になってそれを啜る。
 そしてふっと思い出したことに対し、慎重に鯉登に問うてみる。
「……女は……? どうなった」
「それは……」
 鯉登の顔が淋しそうに歪み、下を向いてしまう。
「こういう時、嘘でも吐ければ幸せなのにな。私は嘘はだめだ。宇佐美が、嬲り殺しにしたそうだ。私たちも散々言ったんだけどな、ヤツは聞かなかった。いつもの手口だと自慢げに話していた。クズ野郎だ、あいつは」
 そこでなにもかもが分かった尾形は、大きく息を吐き「そうか」だけ言い、黙ってマグの中身を傾けた。
 ここで泣いては負けだ。涙を見せる相手が間違っている。
 身体を震わせながらマグの中身を空にすると、鯉登が服を引っ張ってきた。
「どうせすぐそこにシャワーがあるんだ。身綺麗にして帰ったらどうだ? 少しにおうぞ」
「あ、ああ……そうか、そうだな」
 徐にその場で服を脱ぎ始め、全裸になって早速シャワーへと向かう。蛇口を捻るとすぐに温かな湯が降り注ぎ、そのあまりの気持ちよさに思わず目を瞑ってしまう。
 暫く湯を浴びた後、鶴見が使っているのだろうシャンプーとリンス、そしてボディーソープを借りてしっかりと身体を洗うと若干だが、気分が上向く。
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