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第1章 人間の街、エルフの母子


 甘く激しく痺れるような痛みを伴う稽古をつけられながら、グロッザは肉体と同じように精神までなぶられているような錯覚を覚えていた。
 毎日自己流でトレーニングは欠かさなかった。自分が人間の軍に徴兵される可能性は限りなくゼロだったが、この街が攻撃される可能性はまだあった。
 いつしか戦う軍人さんという存在が、自分のなかでとても大きな目標であり憧れになっていた。
 目の前で隙なく構え――今は武器を持たずに素手での訓練中である――ているゼトアから眼を離せない。
 それはもちろん隙を見せないためでもあるし、眼を離したくないというなんとも理解し難い感情からくるものでもあった。
 運動しているから、というだけでは説明しきれないほど身体が熱い。それに胸もなんだか苦しい。
 最初は、自分よりも幾分高いその視線から、見下されているのかと思っていたが違った。
 店の前の通りで魔族がうろついていると店主が怯えた声を上げたので、好奇心半分、正義感半分で声を掛けた。その背中からは異様としか感じとることができない何かを感じてはいたが、その時は経験不足の自分にはその理由がわからなかった。
 得物――自分にとっては見よう見まねもいいところの双剣であり、彼にとっては槍である――を持って相対した時に、それの正体が殺気だということを知った。
 彼はその身に幾多の死を刻み付けて歩いてきた。そんな彼が振り返った時、そこにはあるはずの殺気などはなにもなかった。
 魔王アレスの片腕として語られるイメージそのままの、冷静で獰猛なる武人。
 魔力に染まった褐色の肌がよく似合う男らしい顔立ち。赤みが強い長髪は腰まであり、邪魔にならないように後ろでひとつに結んである。そこからいくつもの号令が放たれたのか、薄い唇が開かれれば、心地の良い低い声が響く。
 優しい人だった。母さんが慕うのもわかる。魔族のことを決して悪く言わなかった母親のことを考えると、胸がきゅんと痛くなった。
 こんな魔族がいるのか――
 強く踏み込み渾身の拳を繰り出す。すぐに見切られ、腕を捻り上げられる。そりゃこちらは実戦なんてしたこともない、ただ剣を振り回して人に見立てた藁を切って勝った気になっているようなお子ちゃまだ。
 それでもトレーニングはしているのを、ゼトアは腕を見てすぐに見抜いたのだから流石軍人と言ったところか。軍のお偉いさんに稽古をつけてもらえるなんて、軍に徴兵された人間でもなかなか機会はないだろう。まぁ、こっちのお偉いさんは敵軍だけど。
 がっしりと掴まれた腕を見る。少しばかり筋肉が付いてきたと喜んでいた自分の細腕に、血管の浮き出たゼトアの逞しい腕が絡んでいる。同じ褐色でも、与える印象が全然違う。
 捻られた腕が離されたので慌てて距離を取る。上がった息が恥ずかしくて、深呼吸してみたが、全然収まらない。どこか憂いを感じる切れ長の瞳が、そんな自分を心配そうに見ている、ような気がする。違うんだ。恥ずかしい。
「そろそろ切り上げるか?」
 ふっと笑顔を見せながら彼が提案してきた。
「……嫌……まだ、だ」
 自分の心音が邪魔過ぎて、小さく拒絶することしか出来なかった。視界からいきなりゼトアの姿が消えた。
 と思ったら一瞬で目の前まで接近してきて、見事な足払いを決められる。無様にも尻餅をついた時には、ゼトアに組み敷かれていた。
「決着はついたぞ」
 くくっと低く笑いながら、ゼトアは拘束の力を抜く。それでもグロッザは逃げ出すことが出来なかった。
 グロッザは母親であるルツィアの教えを思い出す。
 母親として息子にものを教える過程で、彼女は神に仕えるものとしての教えも教えてくれた。息子が神を崇拝せずとも強制することもなければ、怒るようなこともしなかったので、柔軟性がある考えだと思う。
 神の御使いである天使達を奉るこの教会は、古から天使の舞い降りる地であるという。
 天使には性別等はなく、そのため他者との愛に性別等は関係ないと教えられた。種族に関しては、天界自体が魔族とは戦争関係にあるので明記していないらしいが。
 その教えのせいだろうか。この街ではほとんど見ない男性的な魅力を持つ彼といるのは、これ以上ないくらいドキドキする。
「顔が赤いが大丈夫か?」
 離れようとした彼が心配したのか、こちらの顔を覗き込む。一気に顔の距離が近くなる。もちろん覆い被さったまま。
 漆黒の海を連想させるダークブルーと目が合う。一瞬の思考の気配があった。
「……離れたほうがいいか?」
 こちらに問い掛ける。その問い掛けの意味を考える前に、まるで口が自分のものではないかのように言葉を紡ぐ。
「……や……まだ」
 先程よりもよっぽどか弱い。それでいて甘い声が出た。
 頬を優しく撫でられた。優しい手つき。嬉しい。首元まで頬の手がおりてきて、擽ったさに顎を上げると、そのまま口付けを落とされた。感触を確かめるだけの軽いものだった。
 だけど目の前にある瞳には、そんな軽い光などはなく。
「……あ……あぁ」
「今夜はもう遅い。また稽古はつけてやる。ゆっくり休め」
 ガシガシと頭を撫でられても、小さな返事しかすることが出来なかった。
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