第三章


 レイルの背後から、突然モンスターが現れた。大型の獣の姿をしたモンスター『ファング』だ。闇に溶けるようなその暗い色をした体毛に、歪な朱が撒き散らされている。
――死体を食ったか。
 サクはファングがこちらに近づいていることに気付いていた。やや後方から酷い血の臭いを放ちながら近づく影に、そっと意識をやっていた。群れで動くモンスターにしては珍しく、一匹だけだ。おそらく力の強い雄の個体だろう。
 雨避けに残した死体を食ったのだろう。その口からは涎と共に鮮血が流れ出ている。サクは、ついにかけることが出来なかった弔いの言葉を心の中で呟いた。そして、謝罪の言葉を口に出す。
「……申し訳ありません」
 そのままにしてきた夫婦の死体に向けて。自分達は、自らの身の安全のために、弔うべき死体をそのままにしてしまった。
――それを提案したのは自分です。
 声には出さずに許しを請う。サクはカギ爪を装備した腕を振り上げる。魔力により抽出した毒がその爪先から染み出してくる。それを確認し、レイルと彼女に飛び掛かるファングの間に身体を滑り込ませる。
 目の前の荒ぶる獣の姿が、まるで置いて行かれた夫婦の怒りのようだった。グルルと唸るその声が、サクの心を責めて立てる。
 しかしサクには守る者がいる。そう約束したのだから。今だって、彼女は自分のことを信頼し、その瞳が揺らぐこともない。
 ファングが低い姿勢から突っ込んでくる。それを片手の爪で弾きながら、サクはその空いた首元に毒の一撃を叩き込んだ。獣の身体がびくりと震え、だんだんその震えが止まらなくなる。
 アクトの毒は神経毒で、身体を巡る血の流れに乗ればすぐに効力が現れる。対象の大きさにもよるが、割と見かける頻度の高いこのファングが相手なら、今までの経験上もうじきに死に至る。
 がっくりと力の抜けてしまった獣の身体を放り出し、サクはカギ爪を腕に戻した。滴る毒は戦闘中にしか染み出ることはない。だからこそこの武器はアクト専用の特注品なのだ。
「お怪我はありませんか?」
 後ろを振り返り、リチャードとレイルの顔を確認する。夜道で光源は乏しいが、見た限り怪我もなさそうだ。
「突然で驚いた。こんなに音も気配もなく襲撃されるなんて。周りだって、こんなに見通しが良いのに……」
「確かに大きさは、ガリアノが作った水泡と同じぐらいだったな」
 冷や汗を流しながら呟くリチャードの隣で、レイルは普段通り悪い笑みを浮かべたままだった。その瞳の中に他の感情を探してしまう。
「サクよ、一人で任せてすまなかったな」
 先頭からガリアノが声を掛けてきた。彼は前方への警戒を続けてくれていたのだろう。気配で背後から近づいてきているのは一匹だけだとわかっていたが、他の群れが周囲にいないとも言いきれない。
「問題ありません。闇夜は彼等の天下ですが、それは我々アクトも同じです」
「相変わらずだなお前は。あの森の入り口まではこのまま進むぞ。心配せんでも、あと数時間で着くだろう。朝まで多少は休む時間がある」
 そう言いながらその逞しい腕が、森の入り口を差した。やはりあの森に向かっているようだ。
「……あの森、なんかおかしくねぇか?」
 レイルの感覚はやはり相当鋭いらしい。彼女はその森を遠目で見ただけで、本能的にその危険性に気付いていた。あの危険な瞳が、珍しく不安げに揺れている。
「お嬢さんも相変わらず鋭いな。あれは『ダチュラの森』だ。簡単に言えば『迷いの森』だな」
 なんとでもないことのようにそう言った主の背中に、サクは思わずため息をつく。それだけでは何も伝わらない。言うだけ言って満足したその大きな背中は、ガハハと笑いながら前を向いて歩き出す。
 迷いの森と噂される、その森に向かって。迷い無く、進んでいく。
 案の定きょとんとしている二人に、サクは先に進むように促す。
「強き者に迷い等ありません。どうか我らを信じてお進みください」
 自分自信に言い聞かせながら、サクも尊敬する背中を追い掛ける。










 ダチュラの森は迷いの森――
 いつの頃からかそう呼ばれるようになったこの森は、人とも獣ともつかぬモノ達の住処だった。闇に堕ちたモンスターとも、闇に染められたアクトともまた違う。存在自体が異なる者達。そんな者達の楽園だった。
 森の中は昼夜問わず深い霧に包まれており、そのためか自生する植物達もどことなく陰気な見た目をしているように見える。ぐにゃりと捻じ曲がるようにして伸びる枝葉に、この森の意志を感じさせる。ここは人間の立ち入る場所ではない。
 噂には聞いていたサクも、実物を見るのは初めてだった。共に旅に出たガリアノも、ここには立ち寄ったことはないという。辺りを包む闇のせいか、その森は異様なまでに悍ましく見える。
 街道は森の入り口に続いてこそいるが、森に入った途端に、まるでねじ切れでもしたかのようにぷっつりと途切れてしまっている。
 森の入り口に到着し、思わず足を止めるサク達に、ガリアノが視線は森を見据えたまま声を掛けた。
「どうにか到着だな。ここの木々には幻覚作用があると聞く。雨避けは作れないがどうか我慢して欲しい」
 サクですら初耳のその情報は、だがこの森の噂を聞く限りある程度の信ぴょう性はあった。この森は、迷いの森なのだ。
 冒険者や商人といった職種は、総じて方向感覚に優れている。空に昇る日や月を見て、それらが見つからない時も、頂きの街から流れる水流を頼りに方向を定めるのだ。それらの力に乏しい者のために、常に頂きの街に向けて針を指す旅道具も存在する。
 それらが、この森では機能しなくなるのだ。長年の方向感覚も、常に狂うことのない道具までもだ。おまけにここでは、日の光や月の姿は鬱蒼とした木々に覆い隠され、頼みの水流もどういう訳かでたらめな流れを描くという。
 森の奥に目を凝らしても、その深い闇に逆に心の奥の恐怖を見透かされそうだった。サクは思わず生唾を飲む。
「闇夜だが晴れは晴れだ。俺達は問題ないよ」
 リチャードが穏やかにそう言う横で、レイルも文句はなさそうな顔をしている。小さく欠伸まで零したところを見るに、少し疲れているようだ。
「よし、この森はさすがに危険がありそうだ。今夜はしっかり休んでくれ。サク、お前さんもな」
 こちらの恐怖心等お見通しらしい。思わず主人に抗議の目を向けて、その優しい笑みに捕まってしまった。こうなってしまってはもう、サクには応じるしか道は残されていない。ガリアノは真っ直ぐで、時たま我儘だ。
「御意」
「じゃあ、寝る前にトイレに行きたいな……」
 ぶるりと身体を震わせながらレイルが呟いた言葉に、サクは下ろし掛けた腰を再度上げる。
「まだ獣の気配があります故、お供します」
 トイレという言葉の意味が、フヨウの街を出た時にはわからなかった。今はもちろん、意味を知らされている。しかしそれでもこの辺りは、どうにも危険な気配がするのだった。血に飢えた獣のような、嗅いだことのない異質な気配が。
「この森の気配、の可能性もあるが、念の為頼むぞ」
 ガリアノも気付いているのだろう。普段なら豪快に笑い飛ばすところだが、念の為にもサクの同行を促す。サクは静かにリチャードに目をやる。彼はその意味に気付いて頷いてくれた。
「いつもごめんなサク。頼むよ」
「いえ、自分は貴女達を守ると約束しましたので」
 意味ありげに視線を交わす自分達の気持ち等なんのその。愛しい彼女はそう小さく謝罪し、穏やかな笑みを零した。
1/14ページ
スキ