第二章


「息子に楽をさせてやりたかったんです」
 リチャードの見立て通り、その男女は夫婦だった。妻がそうすすり泣く横で、夫はそれを慰めるわけでもなくただ座っている。
 溶岩に程近い家屋から離れるために、リチャード達はまた森の入り口まで戻ってきていた。昨夜も使用していた雨避けはそのままにしていたので、その前に皆で円になるようにして座る。
 サクのみ周囲を警戒することを兼ねて立ったままだが、それに口を挟むような者はいない。夫婦も彼がアクトだということにようやく気付いたようで、初めは怯えたような落ち着きのない目線を投げていたが、それももうない。
「……息子さん、とは?」
 努めて穏やかな口調で、ガリアノが妻に続きを促す。普段の笑い声に慣れてしまっていたリチャードの耳に、それは酷く不安げに届いた。
「旅に出ているんですよ。水神様に願いを叶えてもらうんだと言ってきかなくてね」
 半ば呆れたように夫が口を挟んだ。その言葉に妻はまた、声を詰まらせる。どうやらその息子の旅も、決して夢と希望溢れる明るい旅というわけではなさそうだ。
「水神、ビスマルクですか……」
 サクが小さく呟く。だがその呟きに夫婦が答えることはない。いくら小さな呟きだったとしても、リチャードにも聞こえる程度の声量だ。彼等にも絶対に聞こえているはずだった。
 こんな街とは離れた集落の、それももう、社会性すら焼け落ちてしまったこの場所ですら、異質なモノに対しての習慣とはこうも根強いものなのか。
「伝説の水神に、いったい何を願いに行ったんだ?」
 ぐっと両膝を抱え込むようにして座る夫婦に、ガリアノが優しく問い掛ける。その後ろでサクは静かに瞳を閉じていた。いつもは感情がなかなか表れないその顔を、リチャードは思わず見詰めてしまう。
 女性とも見間違えそうな程の長い睫毛が、閉じられた瞼の上で悲しみを主張しているようだった。髪や体毛と同じ銀色が、まるで心から零れ落ちる雫のように光を反射している。
「この集落は見た通り……いえ、特に栄えてもいない小さなものだったんです。鍛冶屋を引退した者達が流れ着いただけの、それこそ病にかかれば森を抜けたフヨウの街まで慌てて伝えを出すような有様でした」
 元鍛冶屋達の集落「リンジョウ」は、ただ穏やかにその時間を過ごしていた。毎日を慎ましく、決して欲をかくこともせず、ただ毎日、小さな幸せを噛みしめる。そんな生活が、突如――いや、徐々に変わってしまった。
 この集落は引退したとはいえ鍛冶屋達の集まりだ。大金は必要でなくとも、集落の皆で協力して生活するには、時にはまとまった金銭が必要になる時もままある。そんな時、彼等は埃の被った仕事道具を手に取り、ほんの少しの小遣い稼ぎを行っていたという。
 街の婦人向けの貴金属や、武具の装飾のための金細工等、小さく手間の掛かる一品物だ。街の鍛冶屋ではコストの問題で相手にされないような受注を、彼等は昔からの人脈で供給していた。
 この世界の鍛冶屋の技術は、それ即ち魔法に頼った技術である。小さな小さなその魔法の反動は、少しずつ少しずつ、この集落の土壌を汚染していた。次第にそれは目に見える被害になって現れる。
 最初は極小さな異変だった。比較的高齢者の多いこの集落では、各々の家庭で分担して畑を営んでいた。その植物が少しずつ、少しずつ育たなくなっていた。収穫量が減り、芽が出ない。そして、何か違和感を感じる雨が降り、ほどなく息苦しくなるような違和感を大気に感じた。
 だが、人は慣れるのだ。集落の人間は、その環境<違和感>に慣れてしまった。だが、それは決して耐性を持ったわけではなかった。身体に徐々に蓄積された毒素は、ある日突然牙を剝く。
 最初は集落の最高齢の老人だった。そして次々と謎の病魔に倒れていく。皆が皆、何週間も苦しみ続けて息を引き取っていった。次はきっと、自分達の番だ。夫婦は薄々気付いていた。この病魔がきっと、街で噂になっている魔法の代償であるということを。
「沿岸の住人だけだと思っていたのに、この集落にも代償の病魔が現れたのです。きっと次は私達の番です。しかし、私達にはおそらく、まだ時間的な猶予があるとも考えていました」
 妻が泣き腫らした顔で、だがその部分だけはきっぱりと、まるで感情が抜け落ちてしまったような口調で言った。その瞳は酷くくすんだ色を宿しており、話ながらたまに掻き毟った髪がグシャグシャに乱れている。
「この地に暮らしていたのなら、病魔の発現にはそれ程の個人差はないと思うのだが?」
 ガリアノがやはり静かな口調で問い掛ける。それには夫の方が答えた。彼もまた、まるで何かを悔いるように頭を抱えている。
「ワシ等は、この集落では一番若い世帯でした。だからフヨウの街に出向くことは大体ワシの仕事でした。それで食べ物もどちらかと言えば自給自足というよりは、街から買い付けていたものを保存して食べることが多かったんです。食の細いご老体達なら畑の作物だけでも満足出来るのかもしれませんが、息子もいるワシ等には、とてもじゃないが魚のない食卓は耐えられなくてね」
「つまりあの病魔の発現は、土壌や空気の汚染よりも、それに毒された食物を摂取することが原因だということですね」
 サクはそう言いながらガリアノに目を向けた。その視線を追ったリチャードの目に、腕を組み思案顔のガリアノの横で、険しい表情をしているレイルの姿が映る。その鋭くも愛しい瞳は、ガリアノではなく彼の影に注がれていて。
「その食物も元はその土壌で育った作物だ。どちらにしろ発病は時間の問題だろうがな。根や呼吸で空気や水分を吸う作物でも毒されているんだ。仮にこの地の物を何も口にせずとも、空気を吸い、生活をしているだけで蓄積はされていくのだろう」
 瞼を閉じたまま、ガリアノは唸りながらそう結論付けた。その意見には皆反論はなかった。夫婦もそう理解はしているらしく、項垂れながらも小さく頷いている。
「……病魔によって集落の大半のものが倒れた頃です。息子が旅に出ると言い出しました」
 夫婦の息子は二十歳を過ぎた若者だった。集落唯一の若者は、集落にいる全員から愛されて育っていた。まるで孫であるかのように、時に厳しく、だが包み込むような愛情で、その“一人息子”は育てられた。
『水神様に助けてもらうんだ』
 そう言って旅の支度を始めた息子のことを、夫婦は最初、強く止めることはしなかった。それは決して、呆れや無関心ということではない。倒れた病人のために連日走り回る息子の身体を、心配してのことだった。『水神様に願いを伝えに行く旅』の用意をしている間くらいは、息子の心身が安らぐと考えた。ほんの少しの親心だった。
 だが集落の年寄り達は、そんな息子の言葉を本気にした。元より信心深かったのだろう。伝承でしか語られぬ水神様に、自らの快復を一心に願ってしまった。その願いは、旅の支度を続ける息子の耳にも当然入る。
 幾多もの願いは、強く強く息子に圧し掛かった。そしてそれはその両親にもだ。夫婦が息子の重圧に気付いた時には、息子は本当に旅立ってしまった。まるで昔話の賢者に縋る民衆のように、たった一人に希望<責任>を押し付けて。
「私達は息子を、集落の皆に……奪われたんです!」
 強く言い放った妻の目に浮かぶ憎悪。それは一体どこに向かって燃えているのか。そこまで考えてリチャードは悟った。だから、燃やしたのか……
「それは……奪われたんじゃないだろ?」
 これまで静かに話を聞いていたレイルが、小さく呟いた。だがその言葉は確かに妻に向けて放たれており、その口元にはいつもの悪い笑みが浮かんでいる。これは、あまり良い方向には思えない。
「あんた等の息子は……」
 彼女が続ける。極めて冷酷に、歪んだ口元から事実を、その、人を惑わす声に乗せて。
「殺されたんだろ?」
「っ!? 息子は死んでなんかいないっ!!」
 彼女の言葉に夫が反応した。彼はかっと怒りで顔を赤らめながら立ち上がり、その震える手を彼女に対して振り下ろす。だがその拳は、すぐさま反応したサクにより防がれていた。彼の細身の身体のどこからそんな力が出ているのかは知らないが、サクは遥かに太い男の腕をしっかりと片手で受け止めていた。
 咄嗟のことに何も反応出来なかった自分が恥ずかしい。彼女も微動だにしなかったが。
「ワシ等の息子はっ……死んでなんか、いないとも……」
 拳を止められ、夫はその場に崩れ落ちた。その双眸に大粒の涙が浮かび、そのまま雄たけびを上げながら泣き叫ぶ。その隣に妻も寄り添い、涙でぐちゃぐちゃになりながらも「そうよ。私達の大切な息子は、死んでなんかないわよ」と繰り返していた。
 そんな二人を、レイルが冷ややかに見下す。俯いている夫婦は気付いていない。彼女のその瞳に、なんの同情も浮かんでいないことを。いつの間にか口元の笑みが消えていた。ふわりと吹いた風の中に、煙の苦みが混じっている。
「てめえらの息子が旅先で生きようが死のうが、私は興味ねぇんだよ。私が聞きてぇのは、なんでその大切な息子が外に放り出されそうなのに、『お前達が守ってやらなかったんだ』ってことだよ」
「……っ!」
 彼女の指摘に空気が凍った。ガリアノとサクも何も話さない。ただ彼女を静かに見詰め、その細められた瞳に隠された感情を読み取ろうとしている。
「自分の息子が死の旅に放り出されようとしてるんだぜ? 私だったら、自分達も一緒に行く。というか、家族で別の場所に逃げる。残った集落の住民の看病? そんなもん『弱った自分達のために死んでくれ』と言うような連中のために、息子の命と天秤に掛けてまでやるようなことじゃねぇよ」
 つまらなそうに言いきった彼女。その細められた瞳には――今ならわかる――深い憎悪が浮かんでいた。彼女には『嫌いなこと』がたくさんある。それは一緒に行動するだけでもある程度理解出来る程、はっきりとした事実だ。
 彼女は嫌う。差別と偏見を。そして彼女にとって『偽善』とは、それと同等の罪であった。
「親は子供の未来を奪っちゃいけねぇんだよ。盾にならなきゃいけねぇんだ。それはきっと、世界が違っても同じじゃねぇのか?」
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