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第1章 人間の街、エルフの母子


 久しぶり――実に数十年が過ぎている――のルツィアの手料理は、しっかりとゼトア好みの味付けがされていた。
 聖堂の奥に設置されたシスターのための居住施設の食堂にて、三人は少し早めの夕食をとることにしたのだ。
 古い民家のような造りの食堂だが、それがまた暖かい。
 六人掛けのテーブルを今はゼトアとグロッザが対面する形で座っている。ルツィアは一番水場に近い、グロッザの隣に座っていた。
 母親になっても変わらない、彼女のそんなところが愛おしいと思える。壁には狭い空間を活かすために調理器具がぶら下げられており、棚には使い込まれた調味料の瓶詰めや食器が綺麗に片付けられていた。
 濃淡のしっかりついた肉料理を頬張り、少し酸味の効いた飲み物で流し込む。
 自分の来訪等知るはずもないルツィアは、昼過ぎからの短時間で、有り合わせの食材でここまで豪勢な食事を用意したことになる。




『お前は今日から俺達の捕虜となる。素直に従ってもらえるのなら、身の安全は保証しよう』
 敗走を始めた敵師団を追撃していた時だった。
 足を痛めた彼女を、敵軍はあろうことか放り出して逃げたのだ。エルフである彼女の治癒の力をあてにし、半ば強制的に従軍させた挙げ句、人間の治癒のために魔力が尽きかけた他種族を、彼らは平然と見殺しにした。
 自分の率いる隊には規律を定めている。己に刃を向ける者以外には、その剣を振るってはならない。
 それは魔王アレスが遥か昔、共に武術を競い合っていた頃より口にしている言葉だった。ゼトアはその言葉に従い、彼女を手厚く保護した。
 どうやら魔族というのは、人間並みにエルフからも嫌われているようだ。
 捕虜となった当初、彼女は自分を殺すように懇願した。邪なる魔に自身の魂を汚されるくらいならば、潔く死に、天界へ浄化されたいと訴えたのだ。
 彼女は他人が死ぬことに疲れていた。そこに自分達がとどめを刺したのだ。いや、敵軍の仕打ちだったかもしれない。
 だがそこは問題ではない。彼女の心が、壊れかかっているのだ。
『炊事や洗濯、怪我人の手当てくらいならできます。どうか私を頼ってください』
 できるだけ彼女の負担を減らしたかったゼトアは、彼女の見張りを人当たりの良い人選で固め、人数自体も減らしてやった。
 たった一人の捕虜である彼女のために、ここまでするのもアレスの言葉があればこそ。全てを見通す魔王の言葉は、魔王軍の行動理念そのものである。
 刃を向ける敵軍に対しては勇猛果敢な軍人だが、平穏な時間はそこらの町民と変わりはない。
 しばらくすると彼女に変化が現れた。表情も明るくなり、見張り達と話すようになってきた。足の具合もだいぶ痛みは取れたようだ。
 その変化に喜びつつ、体調等の問題がないか確認も込めてゼトアが夕食を運んでやった時だ。
 彼女は一人で星を見ながら座っている。はじめはその申し出に、いつもは冷えきっていた心のなかに、熱いものが流れ込むような感覚があった。
『捕虜以前に、怪我人にそんな無理をさせるわけにはいかない』
『……これは私個人の願いなんです。この部隊の方達は本当に良くしてくださる。今までの魔族に対する偏見が恥ずかしいほどに。私は、この部隊の役に……』
 暫しの沈黙。徐々に潤む彼女の瞳。
『……あなたの役に立ちたいんです』
 もう一度。その沈黙は今度は特別な意味を孕み、ゼトアに次の言葉を紡がせる。
『これは軍人としての言葉ではない』
――お前を俺のものにしたい。




 彼女を近くの村――今いるこの街は、その村と周辺の集落が寄り集まって出来た街だ――に送り届け、前線がその地域から離れるまで実に数年。
 時間を見つけては村のはずれの彼女の家――村人からは魔族に捕らえられた可哀想なエルフとして歓迎されたらしい――に通い、一応公にはしていないことになっている情事に耽った。魔王アレスはもちろん全てを“見通し”ているし、部隊の者も知っていて「ゼトア様はアレス様とばかり……」と笑えない冗談を言われる始末だった。
 彼女が身籠ったことも伝えられたが、エルフや魔族は長い年月をかけて胎児を育て、その身に高すぎる魔力を馴染ませる。我が子の誕生を見届けることが出来ぬままゼトアは前線に戻ったのだが、自分の魔力に染まり純白を思わせる彼女の肌は、既にほんのりと色が着き始めていたのだけが気掛かりだった。
 あれではいずれダークエルフとなり、村人から疎まれてしまうかもしれない。いや、聖なる魔術が使えれば、魔族に汚された可哀想なエルフで通るだろうか?
 自身の血が濃くなりすぎないように注意はした。彼女の身体が耐えられるように。




 遠い昔を思いだしながら、目線は自然とグロッザに行き着く。母親に似て丁寧に食事を済ませた彼は、食べ終わった食器を流しに運んでいた。
 母一人、子一人。ゼトアの魔力の影響か、薄くではあるが浅黒く染まってしまった母子。
 天井から垂らされたランプの光の下でも眩しい銀髪だけが、変わらずに煌めいている。母と同じく長い髪を、彼は後ろで一つに縛っている。
 その後ろ姿に一瞬偉大なる存在が重なり、ゼトアは小さく溜め息をつく。ゼトアも食べ終わった食器を運ぼうとして、流しにいたルツィアに怒られた。




「あの親子はどうしているだろうな?」
 ゼトアの腕に抱かれながら、魔王が小さく問い掛けた。
 どうもなにも、ダークエルフの母親とはあの日から数十年会ってもいない。もちろん産まれたはずの子供なんて尚更。
 いくらでも自分で“視ている”はずの魔王の瞳を自身で確かめたくて、ゼトアはアレスの頬を両手で挟んで引き寄せる。
 強すぎる魔力のためか染まることを知らない白い肌。端正な顔立ちに、細い身体。全てを見通す力を宿したエメラルドグリーンの瞳が気だるげに細められる。
「知らねーよ。お前はいつも自分で見てるだろうが?」
 公の場では魔王と部下だが、二人きりの時は幼馴染みで、多分愛人だ。
 玉座の間の上部に位置する魔王の私室。濃密な口付けを交わしながら、腰まで流れ落ちる長い銀髪を指先で楽しむ。
 ここにはアレス本人と自分しか入れない。自分のなかで一番愛情と尊敬と信頼を占めている存在だが、アレスからの具体的な話はないので愛人だ。
「浮気もしてないし、いつでもお前の帰りを待っているよ。あ、それは俺もだけど」
「それで今更顔出してこいと? お前の性癖はわかっているつもりだが、まさか俺が女に細切れにされるところでも見たいのか?」
 魔王にこんな態度を取れるのも二人きりの時だけ。
「アレス……」
 名前を呼べるのも二人きりの時だけ。執務用の机の更に奥、豪奢な天蓋付きのベッド――アレスの趣味は悪い――にて肌を合わせるのも……それは当たり前か。
「俺達は魔力を高めすぎたんだ」
 アレスの言葉が身に染みる。魔族やエルフは長い年月をかけて己の魔力を高めていく。永遠ともいえる長寿を誇るのも、高すぎる魔力を宿す肉体を得るためだと言われている。
 肉体関係を結ぶ時は、魔力は多少なりとも相手と混ざり合う。それが俗に言う相性というものであり、強すぎる魔力はドラッグのように弱いものを蝕んでしまう。
 現に魔王アレスの異常なまでの魔力は、包み込まれるゼトアをいたぶるように高める。暴力的とも言えるその高揚感は、麻薬のように脳裏に焼き付く。
「魔力だけが強すぎる子供は、世界のためにはならないだろう」
 そこに愛情をブレンドしてやれ、そう言った愛しき存在は、何故か薄く笑っていた。
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