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第2章 息子達


 いたずらに魔力を消費する訓練はさけるべきだとゼトアは言っていた。不必要に魔力を放出し、今朝から祈りを捧げ始めた母の邪魔をするわけにはいかない。
 今日から母は三日三晩、その清らかなる祈りを天に捧げる。天界のための声を、魔力を、一心に届けるのだ。
 それでも母は神官である以前に、エルフの――心優しい母親だった。息子達のために明日の昼食分までは作り置きの料理を用意してくれていた。さすがに腐るのでそれ以降はたまには街で外食でもしてきなさいと、お金と書置きが用意されていた。
 今日の昼食はグロッザの大好きなオムライスだ。最大限に美味しく食べるためにも適度な運動は必要だ。
 グロッザはグリアスに向かって拳を突き出す。教会のいつものスペースにて、グロッザの拳が空を切る。
 今二人は素手での戦闘訓練の真っ最中だ。魔力の使用を禁止して、ケガをするわけにもいかないので武器の使用も禁止。危険な攻撃は当てるふりをするだけの、見よう見まねの戦闘訓練。
 年齢的に体格差があるのは否めないが、それでも戦闘技術というよりも、戦闘に関するセンスは互角と言えた。
 突き出された拳をグリアスは巧みに搔い潜り、グロッザの腹に向かって掌底を放つ。
 先日見たゼトア程の見事さはない。水流を捻じ伏せる程の威力もなければ綺麗にハマった美しさもない。だが、それでもそれは少年の身体から放たれるには過ぎる威力と精度だった。
 一発で朝食が戻ってきそうになって、グロッザは慌てて両腕を交差してストップをかける。グリアスもやりすぎたと思ったようで表情が曇る。その場に座り込んだグロッザに合わせて、グリアスもその横に座る。
「だ、大丈夫?」
「へーきへーき。やっぱ凄いセンスだなぁ」
 珍しく申し訳なさそうにそう聞くグリアスに、グロッザは吐き気を我慢して笑って答える。
――オレ、かっこ悪い。
「お父さんの動き、マネしてるだけだよ。お父さんは剣で戦ってたけど、基本は同じだってお母さんが教えてくれてた」
「……」
 なんともない思い出話のように語るグリアスを、グロッザは思わず抱き締めていた。そこに闇を感じていない無垢な心は、それでもどこか歪なその愛のカタチに気付き、そして壊れていた。
 傷つき方すらわからぬまま、それは身体と共に成長し、その無垢な愛はグロッザを求めた。まるで一種の共鳴のように。受け入れることを見せつける、逃がしたくなくて見せつける、そんな歪な愛のカタチ。
「どうしたの? やっぱりどこかケガしちゃった?」
 慌てた声に抱擁を解き、その顔を覗き込むと、そこには驚きでまん丸くなった愛しい紫が揺れていた。年相応の無邪気な光が、心配と驚きで多彩な色合いを魅せる。
――可愛い。
 小さな顎を両手で包み込む。壊れてしまいそうな繊細な感触に、触れている指先に熱が集まるような錯覚を覚えた。吐き気なんてどこかに吹き飛んでいた。
 少年の瞳に優しい光が宿る。愛おしそうに細められる紫に合わせて、唇を合わせる。
 昼も近い太陽の下での口づけは、本当にお日様の日差しのように暖かくて、今までの欲望を引きずり出されるのとはまた違う、幸福感に満たされるものだった。
――うん、こっちも好き。多分、こっちの方が好き、かも。
 心を引き裂かれない。こっちの方が、辛くないよ。
 緩やかな風があたりを吹き抜け、正午を伝える鐘の音が遠くで響いている。グリアスが満足したように身体を離した。日差しの下で鮮やかに緑の髪が揺れる。
 チクリと、心が痛んだ気がした。慌ててその小さな手を引き戻し、何度も、何度も一心不乱に重ねる。地面にそのまま転がり込んで、草と砂に交じって甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「大好き」
 息苦しさを覚えるまで続けられた拘束から解放されて、それでも少年は愛おしそうに呟いた。

 




 月夜は魔の者達の時間帯。そんなのは人間達の考えた迷信に過ぎないと目の前の少年は教えてくれた。
 確かにモンスターの一部は夜行性だ。だがそれは野生動物にも当て嵌まる、ごく普通の自然の摂理である。
 闇を体現したかのような魔族達だが、彼らの魔力が月夜で高まるようなことはない。だが、幻想的なその光景に魔なるものを想像してしまう気持ちはわかる。
「こんなに凄かったっけ? 去年どうだったかなんて覚えてないな」
 グロッザはそう言いながら教会の扉を押し開けた。場所はいつものスペースだが、空の景色が変わると全然別の場所のようだ。
 今夜は一年で一番月が地表に近い日だった。大きく迫るその圧力は、普段見慣れた優しい顔とは別のもののように感じる。空に光る星々の、そのどれよりも大きくて、その蒼白の光には鋭さすら感じさせる。
 空からの蒼白に照らされながら、グロッザは既に地べたに座って待っていたグリアスに料理を手渡す。
 せっかくの天体ショーなのだ。今夜は外で月見をしながら晩御飯を食べることにした二人は、行儀が悪いのは承知で庭のスペースにそのまま食器を並べ座り込んだ。外用のテーブルセットがないので仕方がない。母親にバレなければ問題ないはずだ。
「凄く綺麗だね。ボク、こんな気持ちでお月様なんて見たことがなかった」
 母お手製のハンバーグを頬張りながら、グリアスがぽつりと呟いた。その小さな口が「幸せ……」と呟くのが聞こえると、グロッザの胸も暖かいもので満たされた。
 隣で食べてはいたがもう少し近くに座り直して、口も手もハンバーグに占拠されているからその小さな頭を撫でてやる。えへへと可愛らしい照れ笑いが聞こえて、グロッザも笑顔を返していた。
「お月様ってね、太陽の魔力を映しているんだって」
「自分で輝いているんじゃないのか?」
「うん、より強い魔力に染まるんだって」
 ハンバーグを飲み込んで、空の輝きに感嘆の声を上げ、そしてこちらにキスを仕掛けながら、グリアスはそう説明してくれた。
「染まるって……凄くいやらしくて、好き」
 息継ぎに甘い声を零しながら、グリアスが試すような目でグロッザを見た。小さな口から零れるには卑猥過ぎるその響きに、グロッザの思考が乱される。
「……やらしくて、好き?」
「うん、好き。好きな人の魔力に染まるなんて、きっと一番幸せだよ?」
――それが母親だった?
 言葉に出さない――いや、憚られて出せなかった言葉を、グリアスは敏感に汲み取る。小さな手がグロッザの首に回される。首筋に指が這う感触。甘く痺れる誘惑の痛み。
「そうだよ。一緒だね」
「……い、っしょ?」
 譫言のように繰り返した問いに、グリアスは答えなかった。その代わりに優しい口づけをもう一度。深く深く。
「でもボクは今はもう、グロッザしか見えない。ねぇ――ボクに染まって」
 思考を奪う甘い香りに、グリアスの存在に、受け入れてしまおうと腕に力を入れた時、彼の首元で首輪がジリジリと熱を帯びた。
 大きな包み込むような魔力をそこに感じて、グロッザの思考が鮮明になる。大地のような力強さに、頭の靄が消えていく。
「遠くには行ってないってことだよねー。本当腹立つ」
 グロッザから離れてグリアスが悪態をついた。直接触れていないグロッザですら熱いと感じる魔力の放出だったが、彼はなんともないことのように平然としていた。それどころかグロッザが熱がっていることを悟り、わざわざ離れる心遣いまでされていた。
「ゼ、ゼトア?」
「そーだよ。ゼトアさん、グロッザを取られたくないのかなぁ?」
 目の前の少し離れた位置で、少年の目に悪い光が燈る。やっぱりこういう顔は、あんまり子供にはして欲しくない。グリアスが一歩こちらに近づく度に、首輪の音がチリチリとまるで警告音のように鳴り響く。
 先程まではまるで気配すら感じさせなかった無音のそれは、今や耳から自分を犯す、彼そのもののようで。愛しくて、激しい、彼の魔力。
 グリアスが手を伸ばす。もう触れられるまでの距離だ。グリアスの手がグロッザに触れた。首の輝きは更に激しさを増し、あまりの熱にグロッザは思わず目を瞑る。
「熱いよね? 痛いよね? ……少しだけ、我慢して?」
 小さな身体に促されるまま、地面に組み伏せられる。耳元で暗示のようにそう告げられて、右手を固く結ばれる。途端に心がなぶられる。僅かに残る痛覚に、彼の魔力を感じてしまう。
「グロッザはボクとゼトアさん、どちらが好き?」
 覆いかぶさっているグリアスが、わざとグロッザの胸に顔を埋める。熱源と化した首輪がグロッザの胸を焼く。魔力の熱が身体を炙るようなことはなく、心だけを黒く、黒く焦がしていく。
「オ、オレは……」
 今朝と同じ意味の問い。答えてやりたいとはずっと思っている。オレとグリアスは一緒だから……
――い、っしょ?
 黒く醜く焦げてしまった心ならば、深淵すらも見通せる。だが、グロッザの心が深淵を覗こうとした瞬間、神々しいまでの蒼白が、深く交わう緑に染め上げられた。
 途端に熱源の波長が揺らぐ。愛しき眼差しが空を向いた気がした。空の月は未だ美しい――エメラルドグリーンを湛えている。
「ねぇ、答えて? 今じゃなきゃ、染めてあげないよ?」
 悪戯っ子のような口調で甘く囁かれる。首輪の光はもう熱くも――痛くもない。彼の注意が、意識が、愛情が、そのエメラルドグリーンに注がれている。
 少年の身体を強く抱き締める。悪い笑みを浮かべる口元に口づけをねだる。彼は――くれないとわかったから。
「オレは……グリアスが好き」
 声に出して拒絶をした。首輪の光が酷く儚げに揺れた気がした。
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