第七章 蒼海の王


 南部支部から借り出した軍用車に乗って、クリス、レイル、ルーク、ロック、ヤートの五人は無事にデザートローズを脱出した。
 途中城門を通過する時に、兵士に車内を覗かれそうになったが、“後輩達”が門番に通信で話をつけてくれたので問題無く出国することが出来た。
「んで……どこまで走らせるんだ?」
 ハンドルを任されているロックが言った。
 欠伸をしながらの彼の運転は、お世話にも安全運転とは言い難い。助手席に座るクリスはその言葉を完全に無視し、忙しそうに地図をめくりながら何かを呟いている。
「とりあえず緊急事態だから、本部との国境まで行くのが妥当じゃねーの?」
「俺もそう思う!」
 後ろの座席に座っていたレイルとルークが口々に返す。
 二人はがたがたと揺れる車内――砂漠の隆起にタイヤを取られているせいだ――にも関わらず、ガツガツと食事をとっていた。車の最後尾のスペースに詰め込まれていた簡易食料と水分を、食い尽くさん勢いでがっついている。
 固く焼かれた焼き菓子のようなものに、ベタベタにジャムをつけたものだ。見るからにカロリーの高そうなむせ返るような匂いのするそれらを、二人は更に身体に悪そうなジュースで流し込んでいる。
「そんなの……美味いのか?」
 空いた後部座席に座っていたヤートは思わず、信じられないものを見るように言ってしまった。あの類いの食料なら演習で食べたことがあるが、味と匂いのきつさが食べ物とは別の次元にあったはずだ。
「とにかく腹が減ってんだよ!」
 レイルが苛立ったように返した。こちらに目もくれずに話すその姿は、肉食動物のそれだ。食べ方には人の性格が出るらしいが、彼女はかなり当て嵌まっているように感じる。
「ルーク……後、半日は掛かる。後半の分も残しておけよ」
 相変わらず地図と睨めっこしたままクリスが、見もせずにルークに釘を刺した。ルークはその言葉に「むー」と神妙な顔をして、それから食料を漁る手を止める。
 レイルも満足したのか、スペースを求めてヤートの隣に移動してきた。彼女のいたスペースの足元と周りには、まだ食料達が出番を待っている。
「えへへ。待たせちゃってごめんね……絶食に睡眠不足は辛くて」
 そう甘い口調で言ってから、彼女はヤートの肩に寄り掛かる。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、ヤートは彼女のこの行動は、まるでロックそっくりの行動だと考えてしまった。
「熱いねー」
 囃し立てるロックの声も、あまり気にはならなかった。少しは慣れてきたのかもしれない。
「レイルはヤートさんがお気に入りだからな」
 クリスも地図を片付けながら笑って言う。だがすぐにその瞳には冷たい光が満ちた。
 ひとしきり笑い合った後を見計らって、口を開く。
「これからのことを確認しておく」
「今までのことも整理しておきたい。あの工作により、どうなるんだ?」
 話の腰を折るようにしてヤートは言った。
 クリスには悪いが、彼のリーダーとしての意見が聞きたかった。ヤートの言葉に、クリスは特に気を悪くはしていないように見える。
「わかった。そこから話そう」
「レイルはこのままで良いのかよ?」
「あいつもプロだ。少しでも違和感があれば飛び起きる」
「それもそうだ。僕らは人の気配に敏感だから」
 ロックが意味ありげにウインクしてきたので無視した。
 クリスは後ろを振り向いたままの姿勢で話し出した。低く冷たい声が響くが、その中にも信頼という暖かい音色が隠されている。ほんの少しのその暖かさが、深い味わいを醸し出し、聞く者の耳をくすぐる。
「あの残してきた四人の死体は、全て窒息死により外傷が少ないまま空軍に発見される」
「まさか俺が作った氷を喉にぶち込むとは思わなかったよ」
 ルークがジュースを飲み干してからそう言った。
 言葉とは裏腹に楽しそうな表情だ。おそらく外傷を与えない殺し方を好んでいるだけだろう。
「顔も潰していないそれらを、空軍はフェンリルと考えざるを得なくなる。あの火の海には逃げ道がなかった」
「逃げ道なんていくらでも出来るのにな」
 ロックがタバコを灰皿に捩込みながら言った。
 あの空間からの脱出には、彼の能力が役に立った。
 彼の重力を操る魔法で、空気中の酸素だけを自分達の周りに引き寄せ、窒素の層を生み出したのだ。可燃物を含まない元素に邪魔され、そこに出来た空間を壁を破壊しながら突破した。
 最終的には建物は倒壊したので、その穴がいつ出来たのかは空軍にはわからない。第一、燃え上がる火の手の真っ只中を走り抜けたと考える相手は、まずいないだろう。
「そして、後輩達が用意してくれていたこの車で逃走。今に至る」
「わかりやすかったぜリーダー」
 意味もなくクリスとルークがハイタッチする横で、ロックは大きな欠伸を一つ。
 魔力の消耗は皆酷い有様だったが、それでも彼は頑として運転を譲らなかった。クリスが言うには彼はかなりの車好きらしく、運転にはこだわりがあるらしかった。車など高級品で馴染みの薄かったヤートにとっては、あまり理解出来ない趣味である。
「全員無事で良かったよ」
「あとは本部からのダミー情報を南部支部が空軍に提出して一件落着だな」
 クリスが小さく呟くと、ルークも同意し明るく返した。
 するといきなり耳の横で、レイルが唸った。
「なーにが一件落着だよ! 顔写真は訳わかんねえ死体に似た顔でもな、登録されてる名前は本名じゃねえか!!」
「本名くらい俺達はもう捨ててる」
 クリスが冷静に発した言葉に、ヤートは小さな恐怖を感じた。
 本名を捨てる……
 それはいったいどんな気分なのだろう?
 書類上から名前が消える。それにはまるで、今までの“本名”の自分が死んでしまいそうな怖さがあった。
「僕らには立派なコードネームがあるだろ? お前だってちゃんと“レイル”ってつけてもらってるしそれで充分だろ?」
 ロックが宥めるような呆れるような、明るい口調で歌うように言った。その口元には新しいタバコが装填されている。
「……君達のコードネームというのは?」
「ヤートさんが俺達のこと呼んでる名前で間違いないよ?」
 困惑するヤートに、ルークはニッコリ笑って答えてくれた。まるで“間違ったことなど一つもない”とでも言いたげな笑顔だった。
「……本名じゃないのか」
「俺達の仕事は本名でやるには危険過ぎるからな」
 クリスが視線を前に戻しながら言った。背中を向けた彼からは、いつもの冷たさが漂ってくる。
「あーあ! 本名で結婚したかったなぁ!!」
 場を和ませる為だろう。レイルがことさらに明るく言った。
 結婚という言葉に男性陣の目がレイルに集中した。ルークとロックは驚いたような目で振り返り、クリスも表情には出していないが目でレイルの顔を窺っている。
「まさかお前から結婚なんて言葉が出るとはな……ロック、前見てろ」
 クリスが呆れたような、掠れた声を上げた。
「んー……ファミリーネームなら結婚相手から貰ったら? 一応こんな奴でも女だし、これから少なくともしばらくはただの『レイル』だし」
 ルークも苦笑いしながら、それでもそう提案した。その瞳はヤートとレイルを交互に見ている。
「それ良いな。なぁ、ヤートさん?」
 レイルはぱぁっと表情を明るくすると、ヤートの首元に腕を回しながら上目遣いに囁いてきた。首に冷たい感触が布越しに伝わってきて、ヤートの頭に、自分が買い与えたブレスレットが今尚彼女の腕で健在であったという事実を伝えた。
 魅惑的な唇が、ニッコリと微笑む。エメラルドグリーンの宝石を思わせるような美しい瞳は、月から零れ落ちたような潤いに満ちている。みずみずしい流れるような赤髪が頬に掛かり、色白な肌との対比がたまらなく扇情的だ。
 だが、それよりも――
「……そ、それは、どういう?」
 詰まりながら、なんとかそこまで返した。言葉の意味が、突然過ぎて理解出来ない。
「だから、ファミリーネームが欲しいなって」
 平然と仲間の前でプロポーズの言葉をかましたレイルは、そのままの勢いで口づけを仕掛けてきた。脳だけでなく身体全体が硬直していたヤートは、それをなすがままに受け入れることしか出来ない。
「どっかよそでやってくれよ……」
 ルークの舌打ちが聞こえたが、ヤートはレイルを支えるのがやっとで……支える?
「チッ……モンスターかよ。振り切るぜ! 揺れるが我慢しろよ!?」
「空軍相手じゃないだけマシだ」
「俺の後ろでヤり始めたら手足撃ち抜くからな」
 前からは苛立ったやり取りが、後ろからはモンスターの咆哮が聞こえる。
 彼らの流儀にはもう慣れた。
「振り切れそうか?」
 ヤートがレイルを抱えたまま聞くと、助手席のクリスが静かにこちらを振り返った。その鋭利な刃物を思わせる鋭い瞳が、真っすぐヤートの視線を捉える。
 最初は迷いを映したその瞳が、すぐに穏やかな光にとって変わる。
「もちろん。俺達の仲間で、その仲間の大切な人を、みすみす殺す訳にはいかないからな」
 クリスのその言葉に、ロックは歓声を上げながらアクセルを踏み込んだ。
 途端に唸りを上げながらスピードを上げる車の中で、ヤートは突き抜けるような喜びを感じていた。それは今現在の状況ととてもよく似た、目まぐるしいスピードで走り抜けるような感情だった。
 今までで一番強く、激しく、甘い感情。
 本当に愛する人を見つけて、愛しさと、怖さと、幸せを見つけた。相反する感情達を見つけた故の混乱は、すぐに目の前の彼女への愛しさへの本流に押し流される。
「レイル……大切にする。俺に護らせてくれ」
 小さく呟くような声に、彼女はゆっくりと頷いた。
 車は本部に近づいていく。目まぐるしいスピードで。空に走る一筋の光に導かれるように。
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