闇夜に輝く月のように
「えっと、家……まで、入るつもり、ですか……?」
「……おかしいんか? 付き合ってる男女はお互いの家に行くもんやって、地影院サンが言ってたから」
「……おかしくは、ない……けど……」
話していて薄々感じてはいたのだが、どうやら銀一は恋愛経験というものがないらしい。元彼のことを少し話した時に、『どんな感情でも言葉にすることが上手い人やった』と秋月が言ったら、『俺にはそういう恋愛の経験がないからわからん』と返ってきて驚いた。
銀一は自分よりも年上の男性で、多少口下手なくらいでは女子の方が諦めないであろう整った顔立ちだ。肉食系女子だってわんさかいるこの時代に、彼が交際経験ゼロとは到底思えなかった。だが……
「あまり他人に興味がなくて、恋愛なんて時間の無駄やと思ってたんや。寄って来る女みんな薄っぺらく見えてな。正直、お前に会わんかったら……『ちゃんと気持ちを言葉に出来る女』なんて、この世にいないんやと思ってた」
そこですっとこちらを見た銀一の瞳は、とても綺麗な色合いをしていて。
古都の夜は秋の気配を色濃く映しながら、歩く二人を包んでいる。中心地に程近い大通りには、観光客と地元の人間達が入り乱れていて、賑やかな喧噪にも様々な色合いがあることがわかる。そんな楽しそうな色合いから一本曲がったこの道では、驚くほどの静寂が二人を迎え入れている。
観光目的の人間は大通りから折れることはなく、一本通りが変わってしまえば、古都の街並みにも普通の住宅街は存在している。お隣の大阪に比べればやや背は低いものの、単身者用のマンションは所せましと立ち並び、それらを縫うように歴史を感じさせる街並みが所々に顔を出すのが、この都の日常だ。
「気持ちを、言葉になんて……私……」
――出来てなんか、ない……
悲観的な言葉を零そうとした唇に、柔らかい感触が触れた。
優しい、一瞬の、触れるだけのキスだった。
「っ!」
驚きのあまり思わず突き飛ばすように両腕を突っ張った。だが、秋月の腕では銀一の身体を突き飛ばすことなんて出来るはずもなく。離れそうになった身体を留めるように、銀一の腕の中に抱かれる形になってしまう。
周りの静寂が証明するように、この通りに人影はない。それでも一本向こうや曲がり角の先は大通りに繋がっていて人通りも多い。いくら“今、この瞬間”に人目がなかったとしても、こんなところで……キス、なんて……
それに……それに……っ
――付き合っては、いるかも……やけど……
なんとも軽い、周りに流される口約束のような、そんなやり取りの末の交際だった。しかし、それでも秋月には、この交際にそんな軽さを感じることが出来なくて。驚きと恥じらいに頬を染めた自分の姿を映す銀一の瞳には、最初から……そんな生半可な感情は浮かんでいない。
この拒絶は、きっと……恥じらいだけだ。
まだ、出会って数時間も経っていない。どんな相手なのかも詳しくはまだ、知らない。それでも、秋月には銀一を信じようと思える『自信』のようなものがあった。
それは、彼の言葉。『ちゃんと気持ちを言葉に出来る』と、秋月を褒めてくれた銀一の言葉こそ、彼の本心だと信じることが出来る。それが秋月の自信だった。その自信を確信に変えるには、彼のことを――もっと知らないといけない。少なくとも恋愛とは相手を知っていくものだと、少ない恋愛経験の中だけでも秋月はそう理解しているつもりだった。
だから、知りたい。この拒絶は、嫌いなんて意味じゃない。それを、ちゃんと……伝えなければいけない。
銀一からの言葉はない。問い掛けも、反論もない。ただ、優しく秋月を今この瞬間も抱き締めてくれている。腕の中から見上げた彼の表情は、予想通りの微笑みで。その瞳にはずっと、秋月の姿が映っているのだ。
――こんな素敵な人が、彼氏なんや……ほんまに、優しい……
以前の秋月にはきっと、知り得ない種類の『優しさ』だった。いつからか、元彼氏と付き合っていく中で、優しさとは言葉にして大袈裟に投げ掛けられて漸く気付くものなのだと、どこかで錯覚――それとも洗脳か――していたのかもしれない。学生時代に確かに得ていた、友人達からの言葉無き優しさには、幾度も助けられたというのに。
いつからか、元彼氏から与えられる『形』こそが、物事の全てだと思い込むようになっていた。そんな関係、破綻するに決まっている。
どれだけ装飾された『優しく聞こえる言葉』達も、今から思えばどれだけ薄っぺらかったことか。口先だけの優しい言葉よりも相手の行動を見ろとは、よく言ったものだ。
今だって、ほら……秋月から言葉を伝えることを、疑いもせずに待ってくれている。ゆっくりと、秋月のペースを守ってくれる。矢継ぎ早に言い負かしたり、遮ったりはしない。
「こんなとこで、キスは……恥ずかしい、です……」
「嫌、やった?」
銀一の言葉が沈んだのがわかって、秋月は慌てて否定の為にしがみつくようにして首を横に振――ろうとしたところで、頭に大きな手が回されて動けなくなった。
そして頭上から響く彼の控えめな笑い声。
「お前の本心、俺ならわかるから。今のは……あー、えーと……」
「……『意地悪』、ってやつですか?」
「……そうや。『意地悪』ってやつや」
本当にこんなやり取りは初めてなのだろう。顔色こそ変わらないが、銀一が秋月にも負けないくらいに照れているのであろうことが、伝わってくる。どういうわけか、彼の考えていることが秋月にもよくわかるのだ。似た者同士、だからかな?
二人でクスクスと笑い合い、漸く銀一が抱擁を解く。それによって解かれたのは、腕だけではなくて。
「……会社の人からお土産に美味しいコーヒーを頂いたんです。良かったらこれから……いかがですか?」
「……コンビニで……菓子でも買って行くか」
多分、今のはお酒って言いたかったのだろう。さすがにこんな時間から室内で二人きり、しかもアルコールまでいれたらどうなるかなんて彼にもわかるから、そう言ってくれたようだ。全然上手く誤魔化せてないけれど、そんなところがなんだかおかしくて、可愛いなんて思ってしまう。
照れ隠しのように握られた手は少し熱くて、湿っていた。強く握られたその手の繋がりが、心からの繋がりに思えた。