闇夜に輝く月のように
すっと冷えていた頭に、次第に周囲の声が聞こえて来た。ざわざわと心配そうな視線もいくつか感じる。ふっとそちらに目を向けると、視線の主達は慌てて自分達のテーブルの料理に目を落として素知らぬふりをした。それを何組か繰り返していくうちに、漸く秋月の中でも『別れ話』が現実であったことを飲み込めるようになった。そして――
――ほんま、すごい言われようやった……
彼に言い負かされるなんて日常茶飯事、そもそも喧嘩なんてしないように注意していた。頭に血が昇った彼の言葉がきつくなるのも知っていたし、それに負かされて泣かされた日々もしょっちゅうだった。それでもその後の仲直りの時間があるから、そんな彼の優しさにほだされていた。
――私、振られちゃったんや……
彼に伝えたい言葉はたくさんあったのに、何も話すことが出来なかった。言葉は、口にしないと意味がないのに。気持ちとして思うだけなら、どれ程楽なのだろう。
「っ……うぅっ……」
言葉の代わりに涙は溢れた。一度流れ出した雫はなかなか止まらず、相変わらずの視線を感じながらも秋月はただ俯き、声を殺していることしか出来なかった。
レストランに行くからと少しだけ奮発して買った黒のワンピースに、ぽつりぽつりと染みが浮かぶ。ぎゅっと布地と共に握り締めた拳には、生暖かい感触が消えることがない。
「大丈夫かい? お嬢さん」
俯く秋月の頭の上で、野太い声が響いた。太い声が想像以上に近い場所で響いたことにびくりとしながら、秋月は恐る恐る顔を上げる。涙で化粧もぐちゃぐちゃになっているだろうが、もう今更言っても仕方ない。
そこにはなんだか高級そうなスーツに身を包んだ中年の男性と、その傍にすっと立ち周囲に警戒するような目を向けている男性の姿があった。
――っ!
声を掛けてくれたのは中年の男性のようだが、秋月の意識は一瞬で隣の男に惹き込まれた。
涙すらも引っ込むような……そんな衝撃を感じる程に、その男は端正な顔立ちをしていた。息を吞む、という表現を、まさか現実に体験することになろうとは。
清潔感のある短い黒髪はしっかりとセットされていて、鋭さすらも感じさせる顔のパーツに抜群に合っている。やや日に焼けた色をしている肌に思わずどきりとしてしまい、慌てて目を下に逸らしたものの、彼の纏う黒のスーツから出ている骨ばった手に視線を絡め取られてしまい、ますます男性的な魅力にくらくらとしてしまった。
筋肉質なのは感じるがそれでも細身の体型で、身長も平均よりは十センチは高いだろうか。先程から険しい表情をしているせいで、なんだか見た目よりも大きく感じる。
――ツーブロック、っていうんかな……? こんなに似合う人初めて見た……ちょっと目つき怖いけど……でも……
秋月は自分の心が信じられなかった。つい先程失恋したばかりだと言うのに、今の今まであまりの悲しみに涙を流していたというのに、たった一人の男に目を奪われ、そしてあろうことか『かっこいい』などと思っているなんて。
「何見てるんや?」
視線の先の日焼けした指先がピクリと動き、その上から見た目通りの低い声が響いた。それは秋月の想像通り、大きな声ではないはずなのに、低く通りの良い声だった。そして――秋月の想像とは違い、セリフこそそっけないくせに、その言葉には確かな温もりが秘められていて。
「……えっと……」
人見知りで大人しい秋月が、初対面の人間に対して――ましてや『かっこいい』だなんて意識してしまった相手に上手く答えることなんて出来るはずもなく。
涙の代わりに変な汗が出だしたところで、男の隣――声を掛けてくれた中年の男が助け船を出してくれた。
「まあまあ、銀一(ギンイチ)。あまりお嬢さんを威嚇しなさんな。この子はきっと、口下手なんやろ。上手く言葉が出ん時なんて、誰にでもあるんやから気にせんときや。人間、長いこと生きれる世の中なんやから、そない急がんでエエんやからな。そら、ゆっくり話してみ?」
高級そうなスーツに身を包んだ男が優しく秋月を諭すように言う。これが年上の余裕というやつなのだろうか。
その男は見た目だけならどこかの『組長』さんのように見えたのだが、そんな危なそうな人物の口から出た言葉は、今まで秋月が受けたこともない程に暖かい、自分への肯定の言葉だった。
どれだけ口が回ろうと、どれだけの数の言葉を放とうと、別れ話を切り出した彼からは一度も聞くことのなかった『肯定』の言葉。そんな大事な言葉を、秋月にくれたのは初対面の人間だった。
「……私は、人に気持ちや言葉を伝えるのが苦手で……それで、いつも『好意』が伝わらないんです……だから、つまらないってよく言われて……だから彼氏にも今、振られちゃって……」
好意が伝わらない。人に対しても、物に対しても。
彼にはたくさん愛情を伝えた。言葉は確かに少なかったかもしれない。でも、態度や生活の中での協力は、たくさんやってきたつもりだった。
別れ際に引き合いに出された、この店や絵のことだってそうだ。自分の中での精一杯を伝えたが、それが彼には伝わらなかった。
無力感に再度涙が零れそうになったところを、銀一と呼ばれた男が突然、秋月の肩をぐっと掴んできた。
「お前の『好意』が伝わらへん? お前の言葉をさっきの奴は、聞いてへんかったんか? あんなに『心』がこもった言葉を?」
信じられないとでも言いたげに、端正な顔が歪んでいた。驚愕と、これは……怒りだろうか?
「……え?」
男の態度のあまりの変わりように頭の回転が追い付かない秋月は、返答すらも難しくなる。
「盗み聞きするつもりはなかったんやけど、お前らの話は隣の席やったから聞こえてた。お前はちゃんと言ってたやろ。『好き』やって。絵のことも同じように心を込めて『深い色合い』って……」
銀一はそう言って照れ臭そうに笑う。満面の笑み、というわけではなかったが、初対面の秋月にでも十分にわかる照れ笑いに、こちらの方がむずがゆくなった。
「お嬢さんの言葉は、言葉自体は少ないけど重みとでも言うんかな? 量より質って言ったらエエな。短くても、エエ力持っとるんやで。あんな口数だけで薄っぺらい男なんて捨てて……そうや! 銀一、お前このお嬢さんと付き合ってみぃ。お前には早く、恋愛感情ってもんを勉強してもらわへんと、ここに置く絵ぇが辛気臭いモンばっかになる」
「……え?」
「いや、それは地影院サンの頼みでもさすがに……」
これは名案だと手を叩いて喜ぶ中年男に、秋月は返事どころか言葉の意味すらも頭の彼方へ飛んで行ってしまい、その隣で銀一も慌てた様子で反対しようとしていたのだが……
「なんや? 飼い主の言うこと聞けんのか? “エエ仕事”するためにも“己”のためにも、はよ家族作れって俺はいつも言ってるやろが。もー、決めたで。お前がお嬢さんと付き合うまで、俺は絵ぇ買わんからな」
「マジですか……それ……」
ぷいっとどこかコミカルにへそを曲げた態度を取る男に溜め息をついて、しかし何かを決意した表情で銀一は秋月に向き直って言った。
「見ての通り、俺の飼い主は言い出したらきかん……だから……俺と、付き合ってくれへんか?」
あまりに突然の提案だ。いつもの秋月なら絶対に頷くことなんてなかった。しかし、秋月は失恋のダメージすらも忘れる程に、彼に――銀一に惹かれている自分に気付いていた。
大人しくて引っ込み思案な性格だなんて、言い訳をしていては駄目だと、この時の秋月は確かに感じたのだ。彼を、このチャンスを逃がすべきではないと、何故だか確信している自分がいた。
「……はい。よ、よろしく、お願いします」
おずおずと頷いた秋月に、銀一は微かに微笑む。その顔は秋月の小さな不安や先程振られた相手への未練なんてものを吹き飛ばすには十分で。未だ椅子に座ったままの秋月の手を銀一が取る。力強い手にぐっと引かれ、秋月は立ち上がるどころかそのまま彼の腕の中に抱かれる形になってしまった。
「折れそうな腕で心配やな。とにかく……俺に恋愛ってもんを、教えてくれ」
恥ずかしさでパンクしそうな頭にそう言われても、秋月にはその言葉の意味を考える余裕なんてものはなかった。